ルリ 一

 火星のターミナルは広い。月には一つしかないターミナルも、火星には三ヶ所あり、それぞれが広い。コロニーも広いので、移動が大変だ。しかし、ほとんどの時間を宇宙で過ごす僕たちにとっては大切な運動の時間でもあるので、自分の足で歩いて移動する。宇宙船の重力をうまく調整しておかなければ、火星に降り立つと足元がフラフラと覚束なくなってしまう。

 船から積み荷を降ろし、シップキーパーに機体を預け、識別カードを機械に通す。ヨダカとはしばらくお別れだ。今回は通常のメンテナンスに加えてナビのアップデートがあるので、出発は二日後だ。それまでは地上で過ごせる数少ない自由時間だ。

 火星に立ち寄る時には、僕は必ずルリちゃんがいる鉱石の研究棟を訪ねる。鉱石研究棟は第三コロニーの端にある研究棟のひとつだ。長い廊下を歩いていると、様々な職種の人とすれ違う。面識はなくても、制服の色で職業が分かる。群青色はシップマスター、リサーチャーは薄紅色、ヒーラーは黄緑色、フィールダーは藤色、レコーダーは山吹色だ。灰色の制服はリーダーと呼ばれる人たちで、その名の通り各職のリーダーが集まって構成される、人類の未来を決める人たちのことだ。僕は普段、群青色の半袖のつなぎを着て、離着陸の時だけ防護の上着を着ている。背中に描かれたマークでさらに詳しい職業が分かるようになっている。たとえば、星間飛行士は片翼が生えた星が流れていくようなデザインで、前を歩いている藤色の服の人は、背中に植物の双葉の芽がデザインされているから、植物生産系のフィールダーだ。

 研究棟のラボの多くは上の階から中が見下ろせるようになっている。ルリちゃんが所属しているラボもそうだ。僕は上の階の廊下の窓から中の様子を見た。大きな装置や鉱石の間に、僕はルリちゃんをすぐに見つけた。

 ルリちゃんは、美人だ。みんながそう言う。もちろん僕もそう思っている。頭も良くて才色兼備という言葉がまるでルリちゃんのために存在しているかのようだ。だけど、それだけじゃない。ルリちゃんの素敵なところを僕はたくさん知っているけれど、それを言葉にはしないし、したくない。

 僕はルリちゃんが好きだ。

 ずっと、昔から、ずっと。

 でもルリちゃんはきっと僕とは別の人を選ぶだろう。だってルリちゃんはリサーチャーだから。どの星でも同じ職業同士の結婚が通例になっていて、結婚という制度も契約のような形式的なものになっている。僕たちの親の代くらいまではある程度の自由があったらしいが、地球を捨ててからは、一定期間内にパートナーが見つけられなかった場合、自動的に結婚相手が定められるようになっている。子供の数も計画的に決められている。より良い遺伝子を効率的に残したいのだと、学校の先生が言っていた。だけど、それは、自由があった時代の人が押し付けてきた勝手な制約だと僕は思った。

 ラボの中でデータを記録しているルリちゃんを見つめていると、小さな溜息が零れた。僕はガラスに額を当てて、込み上げてくる感情を押し殺した。

 ルリちゃんの仕事が休憩に入るまで、僕は窓辺に座って端末で船の備品の手配をしたり、ニュースをチェックしたりして待っていた。火星では開拓とともに地下資源の探索が続いている。いくつか有用な物質が発見されて、加工され、利用が始まっている。ルリちゃんの仕事は、そんな新しい物質の可能性を調べることだ。エレメントリサーチャー。それがルリちゃんの肩書だ。

 建物全体に音楽が流れた。作業時間の終了を告げるチャイムだ。僕は端末から顔を上げた。ただこのチャイムは目安でしかなく、実験を行うラボのほとんどがまだ作業を続けている。ルリちゃんのラボは全員が集まって、新しいデータの報告をしているように見えた。僕は端末に視線を戻した。飛行技術大会の募集要項を眺めていたところだった。月を出発して地球を一周し、月に戻ってくる。大会はいつも地球を回るコースが設定され、地球のルートが毎回変更される。僕が初めて出場した大会、そして優勝した大会は、酸性雨に削られた渓谷を飛ぶルートだった。今回は氷山を飛ぶルートらしい。

「ハナテ」

 僕の名前を呼びながらルリちゃんが廊下を駆けてくる。ルリちゃんが走ると、右耳の後ろで一つに束ねた長い髪が軽やかに左右に揺れる。その髪の色が亜麻色に見えるのは、かつてのジャパンコロニー以外にも、様々なコロニーがルーツにあるからだ。僕は、跳ねるように、あるいは弾けるように「ハナテ」と僕の名を呼ぶルリちゃんの声が好きだ。

「おかえり、ハナテ」

 ルリちゃんは乱れた髪を手で押さえつけながら、そう言って笑った。僕はなんだか照れくさくて、小さな声でただいまと答える。

「久しぶり、えっと四ヶ月くらい? 月から来たの?」

「うん。ユキのところに寄ってきた」

 僕たちは並んで歩き始める。行先はいつも決まって、ラウンジだ。ラウンジでは食事をしたり軽い運動をしたり、束の間の娯楽を楽しめる場所だ。月や地球のコロニーにもあるが、火星のラウンジが最も充実している。開拓が始まった頃、火星の環境を改善して開拓志望者を増やす目的があったらしい。

 ラウンジに着くと、ルリちゃんは売店で二人分の栄養ドリンクを買った。本当なら僕が支払いたいくらいなのだが、他に使い道がないからと言って、ルリちゃんは僕の分まで一緒に買ってしまう。

「ハナテに奢るのが私の楽しみだからね」

 そう言われてしまえば、僕にはどうすることも出来ない。ルリちゃんが満足そうにカードで精算している隣で、僕はドリンクが入ったボトルを二人分受け取った。せめて席まで運ぶのが僕の役目だ。僕たちはいつも窓際の席を選ぶ。大きなガラスの向こうには火星の景色が広がっている。赤や黄土色の土の奥に見える背の低い建物は農場施設で、巨大な重機は採掘用のメカだ。低空を飛行している小型の飛行機はバードと呼ばれる地表専用の輸送機だ。バードは最も一般的な移動手段であり、操縦が簡単なことから、すべての職業で学ぶスキルのひとつになっている。

 僕はフタを開けてから、ルリちゃんにボトルを渡した。それから自分の分のフタを開ける。ルリちゃんは昔からこのフタを開けるのが苦手だった。

「今日は大事な話がある」

 僕はソファーに深く腰掛けた。このまま沈んでしまいそうだった。けれど、僕は伝えなければならない。きっと、試されているのだと思う。

「驚くかもしれないけれど、落ち着いて聞いてほしい」

 ルリちゃんは僕の目をじっと見ていた。その瞳には不安が揺れている。僕の表情や仕草から、これが良い話ではないことくらい、ルリちゃんならとっくに分かっているだろう。僕は静かに、伝えた。

「ユキが、星屑症候群になった」

 ルリちゃんが息を止めた。同時に世界の時間が止まる。僕には、そう思えた。ルリちゃんの視線は少し彷徨って、また僕のところに戻って来た。

「いつ、から」

 細く弱い声が震えていた。

「まだ二週間くらい」

「そっか……そっか」

 ルリちゃんは顔を両手で覆って俯いた。深い溜息が漏れる。僕はボトルに入った栄養ドリンクを飲んだ。不味い。この苦味の強い飲み物をルリちゃんは好んで飲んでいた。苦味に顔をしかめながらもどこか楽しそうに飲むルリちゃんを見ているのが僕は好きで、いつもこれを飲んでいた。

 僕は気の利いた言葉ひとつ掛けられずに、ただ黙ってルリちゃんを見詰めていた。

 しばらくの間、ルリちゃんは俯いていたが、不意に顔を上げて僕を見た。ルリちゃんは泣いてはいなかった。

「ハナテ、泣いているの」

 僕は、泣いていた。

 あれほど泣いて、まだ涙が出るなんて。僕の涙腺はどれほど弱く、僕にとってユキカゼはどれほど大切な親友だと言うのだろうか。

「悲しいね、ハナテ。でも、どうしようもないよ。どうすることも出来ないよ」

 ルリちゃんはそう言って寂しそうに笑った。

「どうすることも出来ないとか、諦めることしか出来ないなんて、最悪だ。最悪だよ」

 僕は泣きながらそう言った。自分でも格好悪いとは思う。だけど、本当に、ただ諦めて、別れのその時を待つだけなんて、そんなのは嫌で、嫌で、仕方がなかった。

 宇宙を飛んでいる時、僕はよく考える。飛べなくなる日が来るまでこのままずっと、正しい軌道を描いて飛び続けるのだろう、と。慢性的に、定められたルートを、疑うことなく航海するのだ。ずっと、ずっと。だけど本当は飛び出したい。軌道を外れて、太陽系の外へ、誰も行ったことのない場所まで、飛び立ちたい。僕は、飛んで行きたい。こんな窮屈な場所を捨てて。

 泣いたのは、悲しいからじゃない。諦めることしか出来ないような、こんなにも無力な自分が腹立たしくて悔しいからだ。

「ハナテ」

 ルリちゃんが僕を見ていた。

「ヒロナには、もう伝えたの?」

 僕は首を横に振った。なんで、とルリちゃんが怒った顔で僕を睨む。そんな顔をされても困る。

「手紙を書くから届けてほしいと、ユキに言われた。今度、届ける」

「今度って、いつ?」

「三週間後。明後日、火星を出発して、月に寄って、それからだ」

「そんなに」

 そんなに待たせるの。ルリちゃんの瞳が僕を責めた。いや、僕ではなくてユキを責めているのかもしれない。もしかすると、僕とユキの両方を責めているのかもしれない。

「だって、ねぇ、ハナテだって知っているでしょう? 発症すれば二ヶ月で通常時間の就労が困難になるのよ。半年もしないうちに、自分の力では歩けなくなるわ。そこからは、いつ体が崩れてしまうか分からない。内臓の機能だって低下する。時間がないのよ、ゆっくりなんて出来ない。それくらい分かっているでしょ?」

 ルリちゃんの非難の眼差しが鋭くなり、声が尖る。

「じゃあ、ルリちゃんなら言えるのかよ!」

 僕は思わず声を荒げた。

「もうすぐユキが死にますって、ヒロナに言える?」

 そして、僕は後悔した。

 ルリちゃんは傷付いた表情をして、すぐに顔をそむけた。噛みしめた唇が小刻みに震えている。その横顔を見詰めながら、僕は深い溜息を吐いた。

 八つ当たりだった、僕もルリちゃんも。僕たちは不貞腐れたまま、黙って外を見ていた。バードに乗って、火星のあちこちから作業者たちが帰ってくる。採掘を終えたフィールダーもいれば、メカのメンテナンスをしていたシップキーパーもいる。ラウンジにも人が増えた。皆が思い思いに自由時間を過ごしている中で、僕とルリちゃんは険悪な空気のまま黙っていた。今まで一度もこんなことはなかったから、どうすればいいのかが分からない。僕はボトルのドリンクを飲んだ。本当に、不味い。

「ねえ、ハナテ」

 しばらくの沈黙のあと、ルリちゃんがポツリと僕の名前を呼んだ。飛び立った中型の宇宙船を眺めていた僕は、横目でルリちゃんを見た。

「私、結婚しようと思う」

 ふぅん、と僕は素気ない返事をした。咄嗟に何を言えばいいのか分からなかったからだ。

「相手は、ね、隣のラボの人。優しくて、頭が良くて、素敵な人よ。ハナテとは大違いね」

 ルリちゃんは僕のほうをチラリとも見ずに、一気にそう言うと、また唇を噛んだ。

「おめでとう」

 おめでとうという言葉を僕は出来るだけ単調に言った。一瞬、ルリちゃんの眉間に皺が寄った。だけど、それだけだった。ルリちゃんはそれっきりまた黙ってしまった。空になったボトルを握る手に、力が込められていた。外を見ると、飛び立った宇宙船は地球のほうへと進んでいるようだった。

「それじゃあ、僕はもう行くよ」

 僕は立ち上がって、ルリちゃんの手の中からボトルを引っ張ると、ボトルは案外簡単に抜けた。ルリちゃんの手がボトルの形をぽっかりと保ったままテーブルの上に留まっている。

「次は、いつ火星に帰ってくるの?」

 ルリちゃんが窓の外をぼんやりと眺めながら僕に尋ねた。窓に映ったラウンジの景色を見ていたのかもしれない。

「分からない。でも、ここには来ない」

 僕の言葉に、ルリちゃんはようやく僕を見た。大きな目が見開かれて、さらに大きくなっている。僕は少しの心苦しさを感じながら続けた。

「結婚するなら、もうこんなふうに会わないほうがいいよな。誤解されても面倒だし、相手にも悪いだろ。まあ、そんなこと思わないような性格の良い人なんだろうけどさ」

「それは……」

 ルリちゃんの視線が泳いだ。

「ねえ、ルリちゃん。今まで奢ってくれてありがとう。だけどこれからは、僕のドリンク代をユキカゼへの通信費にしてあげてよ。ユキ、火星への通信費が高いって言っていたから」

 何かを言いかけてやめたルリちゃんは、息を吐いて俯いた。僕は別れの言葉が見つからず、さよならも言わずにその場を後にした。

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