ユキカゼ 三

 火星までの航海はとても長い。時間の感覚がなくなるし、食欲もなくなる。狭い小型機では十分な運動が出来ないから、怠惰な旅になってしまう。けれど、それでは健康に問題が出てくるので、船には生活を支えるロボットは搭載されない。炊事や洗濯、掃除。すべてを一人でこなさなければならない。

 泣き疲れた僕は、しばらくの間、狭いベッドで横になっていたが、ヨダカの生温い体温が重なってきたので仕方なく起き上がった。ヨダカはホログラムが熱を持つことを利用して僕を起こそうとするのだ。

 ヨダカは僕の生活に厳しい。僕の生活習慣はヨダカが管理していると言ってもいい。

 僕は、やはり狭いキッチンに立ち、重力制御装置を起動した。これで調理中に食器や食材が浮き上がることはない。僕は食糧庫から適当に選んだ食材を鍋に放り込んだ。フタをして圧力をかけてしばらく待つ。その間にパンを温め、壁に収納されているミニテーブルを引き出した。

『動物性の蛋白質が不足しています。鉄分と亜鉛が不足しています。必要カロリーを満たしていません』

 ヨダカがうるさい。

 僕は棚からサプリメントを取り出してテーブルの上に置いた。ヨダカは不満そうに、カルシウム、と小さく呟いた。僕は冷蔵庫から飲料を取り出してサプリメントの隣に並べて置いた。ヨダカはまだ何か言おうとしたが、鍋のアラームがそれを遮った。鍋のフタを開けると、食材はトロトロに溶けてスープになっていた。出来上がったスープをマグカップに入れて、パンを皿に乗せて、テーブルの上に並べる。僕は椅子に座った。

『ハナテさん』

 テーブルを挟んだ向かい側に立つヨダカが言った。

『調味料を入れ忘れています』

 僕は立ち上がって棚の調味料を掴み、スープに振りかけた。

「そういうことは先に言ってよ」

『味よりも栄養のほうが重要です』

 ヨダカには味が分からないからそんなことが言えるんだ。

 僕は口元まで出かかった言葉を飲み込んだ。プログラムであることを指摘すると、ヨダカは悲しそうな顔をする。機械のくせに。

 けれど、僕はそれがつらい。

 僕は時折、ヨダカが本当にただのプログラムなのか疑わしく感じることがあるけれど、プログラムは僕の専門外なのでよく分からない。学生時代からずっと、僕は船の操縦ばかり学んできた。だから宇宙船の操縦には自信があるし、実のところそれ以外には自信がない。様々なシステムが搭載されて自動化されても、全てが常にオートではない。機械では出来ないことも、まだたくさんある。

 簡素な食事をとりながら、僕は物思いにふけっていた。どうしてもユキのことを考えてしまう。星屑症候群。残された時間はあと半年だ。何が出来るだろう、何をしなければならないだろう。楽しい思い出ばかりが溢れてきて、僕はまた少し泣いた。

 いつか必ず、誰にでも訪れる別れの時を、頭では分かっていても、心が拒む。

「ヨダカ」

 僕は鼻歌まじりのヨダカを呼んだ。

「僕の話を聞いてくれ」

 ヨダカは小さく頷いた。


 僕たち四人は、最後の地球人だった。

 地球にいくつかあるコロニーのうち、一番小さなジャパンというコロニーで生まれた。他にも生まれた子供はいたらしいが、そのコロニーで大人になれたのは僕たちだけだった。

 当時の地球は汚染が進み、医療環境は劣悪だったらしい。ルリちゃんが生まれた時も、簡単な治療さえ出来ずにルリちゃんのお母さんは亡くなった。そのことがヒーラーを目指した理由だと、いつかユキがそう言っていた。

 僕たちが生まれた年に、地球人は地球を捨て、全員が月への移住を完了した。

 十歳の時に受けた最初の適性試験で、ルリちゃんは学術コースに進んだ。ルリちゃんはとても頭が良かったから、僕たちはみんな分かっていた。それに、お父さんもリサーチャーだからルリちゃんが学術コースを目指していることも知っていた。僕たちはみんな応援していた。

 十五歳の試験で、全員がバラバラのコースに進んだ。コースが違うとカリキュラムは全く別のものになるから、僕たちは滅多に会わなくなった。でも、休みのたびに集まって互いの近況を報告した。会えないことは寂しかったけれど、次に会える時を楽しみにして、励みにして、毎日を過ごしていた。

 二十歳、最後の試験。一生の職業が決まる、大事な試験だった。四人とも望んだ進路に合格して、卒業式の日に撮った写真は、今でもみんな持っている。僕もベッドの横に飾っているし、ユキの部屋にもあった。そのあと僕の船をみんなで見学した。コックピットから見える景色に溜息を吐いた。青い地球が、あまりにも綺麗だったから。

「会いに来てね」

 ルリちゃんが、普段は誰よりも大人びていたルリちゃんが、そう言って泣いていた。火星は遠いけれど、忘れないでね、と。つられてヒロも泣いていた。ユキも涙ぐんでいた。だけど、僕は泣けなかった。この別れがどういう意味を持つのか、分かっていなかったから。僕は自由に星の間を飛び回れるけれど、みんなそうはいかないのだということに、気付かないままでいたから。

 あれから、三年が過ぎた。まだ全員がそろったことはない。

 だけど、次に四人そろう時が、最後なのだと思う。それは、ユキと永遠のサヨナラをするために。

 とても悲しくて、寂しくて、どうしようもないほどに、苦しい。


 ヨダカは目を細めて僕を見た。それから、首を振った。分からない、と。プログラムには解決できないことだ、と。けれどもヨダカは知りたがる。ソースコードでは計り知れない人間の感情を。プログラムに話したところで何にもならないけれど、僕はいつもヨダカに相談してしまう。他には相談相手がいない。星間飛行士は孤独な職業だ。

 あらゆる職業の中で、星間飛行士だけが単独行動をしている。大型船ならば乗組員も多く、乗客もいる。地上の職業はチームで進められる。けれど、星間飛行士だけは、たったひとりで航海しなければならない。シップキーパーとの握手を思い出す。誰かのぬくもりが、遠のく。一ヶ月以上の間、この広い宇宙で、小さな宇宙船で、一人きり。恐ろしいほどの孤独が押し寄せてくる。たとえば機体が故障しても、救助が到着する頃には死んでいるということもある。ひとりで。孤独に。

 だから、星間飛行士は、みんなの憧れで、みんなが避けたがる職業だ。

 食事を終えた僕は食器を洗って乾燥機にかける。航海中に出たゴミは搭載されている処理機で分解され肥料になり、ターミナルで降ろされて、フィールダーが農業に使う。浄水システムも搭載されていて、水は浄水して再利用する。循環させないと資源が足りない。地球の汚染を取り除いて行くプロジェクトがあるらしいが、汚染水を宇宙ステーションで浄水して月に運んでいるだけだ。地球が綺麗になっているわけじゃない。一度捨てた地球を再び住めるようにするよりも、火星を開拓したほうが早いようだ。僕はどちらでも構わないと思っている。どうせ星間飛行士は一ヶ所に留まることなんて出来ないから。

 ヨダカが僕にこれからの予定を伝える。定期通信の時間と起床就寝時間、食事の時間、それくらいだ。あとは重力制御が切れる時間。星でも宇宙でも、人類は重力をコントロールすることに莫大なエネルギーと労力を費やしている。地球を捨てても、人類の体は地球に適したものから進化していない。だから地球と重力を合わせていなければ、肉体の負担が大きすぎて様々な問題が起こる。エネルギーと健康のバランスを保つのは難しく、小まめにスイッチを切り替えなければならない。寝ている間はオフだ。そして起きたら積み荷を確認する。

 単調な毎日だ。朝もやってこない。ずっと夜だ。

 だけど、必要のない仕事なんて、もう、ない。意味のないことも、どこにもない。僕たちのあらゆる行動には意味が求められ、意味が付けられる。

『人類は不安なのです』

 いつかヨダカがそう言った。茫漠とした宇宙の片隅で、人類は不安なのだ、と。

 僕はベッドで横になった。胸の上にヨダカが乗る。ホログラムには質量がないから重くはないし、苦しくもない。少しあたたかいだけだ。

『ハナテさん、泣けばいいのですよ』

 ヨダカは僕の額に手を伸ばした。

『ヨダカの分まで、泣いてください。それから考えましょう。残された時間のことを』

 ホログラムを通して見える世界はチカチカと煌く。星屑を集めたようだ。その景色が滲んでいく。

 僕はとても泣き虫で、弱虫で、ルリちゃんとユキの背中を追いかけていた。ヒロナの背中を押して。四人並べば一番後ろがいつも僕の指定席だった。

 星屑症候群という病は決して珍しいものではない。感染率も発症率も低いけれど、誰もが知っている病気だ。一度発症すればもう助かる方法がないことだって、知っている。星屑症候群だけが死に至る病ではない。他にも様々な理由で命の火が消える。老衰以外の死因として最も多いのは宇宙船の事故、職種はシップマスターの飛行職だ。だから飛行職には競技大会がある。あれは他の職業からすれば娯楽でも、操縦技術の向上は飛行職にとっては生死にかかわる問題だ。

 いつの時代も、どれほど技術が進んでも、大切な誰かを永遠に失うことは耐え難い。人類が地球で生きていた頃からずっと、それだけは変わらない。

 ヨダカが悲しそうな顔で僕を見ていた。泣けないヨダカは僕の涙に敏感だ。宇宙船で過ごす時間が長い僕にとっては一番の相談相手だ。プログラム相手だけど、それでもヨダカは僕の一番の理解者だ。だから僕は、ヨダカが、ただのプログラムではなければいいのにと思う。ヨダカだけは特別で、たとえどんなにナビの技術が進んで新しいプログラムが出回っていても僕はヨダカを交換したりはしない。これから先もずっと。飛行職だと言ってもシップマスターだ、壊れたら自分で修理出来る。

 多分、そういうところが、僕の悪いところだろう。

 僕は不安なのだ、他の人類と同じように。縋り付くものがほしい。曖昧なものを抱きしめていたい。世界が変わっても自分だけは変わらないなんて思っている。それでいて、いつも、三人の背中を追いかけていたのに。宇宙を飛びながら、僕はいつまでたっても子供のままだ。

 僕はヨダカに手を伸ばして、その形のない温もりを抱きしめた。

 星間飛行士は孤独な職業だ。

 とても、孤独だ。


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