ユキカゼ 二

 ユキの部屋を出て、ターミナルを目指す。コロニーの廊下に僕の足音が響く。すれ違う人たちは忙しそうだ。月面のコロニーは三ヶ所あり、それぞれに研究地区と居住地区がある。それから僕たちが学んだ学校もある。三つのコロニーを結ぶのがターミナルだ。定期的に物資や人が宇宙船に乗って星の間を移動する。宇宙船には様々な種類があるが、僕たち星間飛行士の船が一番小さい。速達の貨物だけを運搬するからだ。

 ターミナルはいつも荷物で溢れかえっている。月で生産された食料、火星で採掘された鉱石、地球のデータ。そんな積み上げられた物資の間を縫うようにしてシップマスターが動き回っている。地上職は忙しい。物資の運搬や集配をするのも、宇宙船のメンテナンスをするのも、燃料の補給や管制塔から指示を出すのも、すべて地上職の仕事だ。素直に、すごいと思う。

 僕たち飛行職はただ宇宙船で航海するだけだ。決められたルートを、決められた速度で、ただ飛び続けるだけの仕事だ。それなのに、飛行職は、常に一定の人気と敬意を集めている。

 今もこうしてターミナルを歩けば、すれ違う人たちから羨望と憧憬の眼差しが送られる。中には握手を求めてくる人もいる。そのたびに、心のどこかがチクリと痛む。それは多分、どれほど憧れていても、憧れは所詮、憧れのままにすぎないからだ。転職は基本的に認められていない。地上職はいつまでも地上職で、飛行職は飛べなくなるその日までずっと飛び続ける。

 識別カードを機械に通して、今回の航海に必要な食料品を受け取り、僕は自分の宇宙船の前に立った。星間飛行士になった時に与えられた小型船だ。型は古いけれど、まだまだ現役だ。事故も故障もなく飛び続けてくれている。すぐにメンテナンスを担当するシップキーパーが僕の元へ走り寄って来た。シップキーパーからは微かに油の匂いがした。

「機体に異常はありません。ナビですが、火星でアップデートをするように指示が出ています。それから、追加で速達の荷物がいくつか積み込まれています」

 シップキーパーは僕に整備報告を渡した。僕はそれに目を通して、最後にサインをしなければならない。自分の手で字を書くのは、このサインをする時くらいだ。他には字を書く機会がほとんどない。僕は自分の名前しか書くことが出来ないのではないかと不安になる。僕が報告書を読んでいると、シップキーパーが僕の名前を呼んだ。

「そういえば、ハナテさんは随分と旧型のナビを使っているようですが」

 僕はチラリとシップキーパーを見た。確かに僕のナビは古い。情報は更新しているが、基本機能や性能が最新型とは全く違う。

「この機体が譲り受けたものだから、搭載されていたナビはそのままにしてあるんだけど。変更の勧告が出ましたか?」

「いいえ、そうではなくて。大会の前に変更する飛行士が多いので、品薄になってしまうんですよ。だから、変えるのなら今のうちに、と思いまして」

「ああ、それなら大丈夫です。気に入っているので」

 サインをした報告書をシップキーパーに返した。サインを確認すると、シップキーパーはタラップに掲げられていた緑色の旗を外した。僕はタラップを上がって機内に入り、貨物室をチェックした。それから僕の住居スペースに食料品を仕舞う。ほとんどの宇宙船には日常生活を送るための最低限の設備が揃っている。大型船ならば設備も立派だが、星間飛行士が使う小型船は狭い。気を付けないとすぐに頭をぶつける。ベッドも狭く、眠っている間にベッドから落ちることもある。

 けれど、宇宙を飛び回る僕たち飛行職にとっては、この宇宙船が家みたいなものだ。

 僕は自分の部屋でグローブをはめ、首からゴーグルをかけ、機体の外に出た。出発まであと少しだけ時間がある。僕は機体に上がるタラップに座って、ぼんやりとターミナルを眺めることにした。次にこのターミナルに帰ってくるのは、五週間後だ。何もかもが変わるわけではないけれど、ゆっくりとした時間の中で、人類はせわしなく生きて、このターミナルの景色もどこか違っているだろう。その軌跡を僕は見ることが出来ない。いつだって、そこにあるのは時間を越えたものだ。懐かしさはない。愛着もない。僕たち飛行士は流れて行く。留まることなどない。

 故郷と呼べる場所を、僕は知らない。

 出発時間になった。フラッグを持ったシップキーパーが機体の前に走ってくる。僕はタラップから降りて、シップキーパーと握手をする。いつも、出発前には決まって、フラッグ係と握手を交わす。これはシップマスターの伝統であり、願掛けのようなものであり、そして、別れの挨拶だ。もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれない。飛行士にとっては最後の人の体温になるかもしれない。僕たちはグローブを外して、互いの手をしっかりと握りしめる。

「良い航海を。星間飛行士ハナテ。あなたの帰還を待っています」

「ありがとう、いってきます」

「いってらっしゃい」

 その言葉を合図に手を離す。グローブをはめて、タラップを駆け上がり、機体の扉をしっかりと施錠する。扉の向こうでタラップが外される音が聞こえる。扉のロックを確認して、コックピットに入る。操縦席に座ると、窓の向こうにターミナルが見える。メインの電源を入れると、ヴィンという起動音のあと、エンジンが動き始める。狭いコックピットのあちこちのランプが点滅し、正面の液晶画面も起動し、ドアロックや機器の状態が表示される。システム、オールグリーン。何度も繰り返し見ている光景だ。僕はシートベルトで自分の体を座席にしっかりと固定し、ゴーグルを装着した。

 ガコン、と機体が揺れた。機体を載せたリフトが発射台まで移動しているのだ。スイッチの入ったスピーカーから管制塔の指示が流れてくる。彗星の情報、火星の天気、月面の気温。外を見れば、シップキーパーたちが手を振っている。僕は軽く手を挙げて、別れを告げる。

 カウントダウンが始まった。モニターに表示されたランプがひとつずつ消えていく。

 僕は操縦桿を握った。右手のレバーはイグニッション。左手のレバーは高度。

 三……二……一……。

 合図とともに、僕は右手のレバーを一気に引いた。すかさず左手のレバーを半分ほど倒す。エンジンが火を噴く。加速、加速、上昇。重力がのしかかってくる。僕は歯を食いしばった。時間にすれば一分にも満たない。重力に逆らい広い宇宙へ飛び立つ瞬間は、今でも心躍る。けれど、安定軌道に乗るまで、集中を途切れさせてはいけない。

 モニターが発射の成功を表示する。そして、運転はオートに切り替わる。あとは設定された航路を自動的に進んで行く。次に僕が操縦するのは、着陸の時だ。それから、万が一の時。僕は大きく息を吐いて、シートベルトを外した。自由になった体が宙に浮く。ゴーグルも外す。窓の外に見える月が少しずつ小さくなっていく。心躍る、けれども同時に、とても感傷的な光景でもある。

「ヨダカ」

 僕は名前を呼んだ。

『お呼びでしょうか』

 すぐに返事が返ってくる。機械的な声。ヨダカとは、この機体に搭載されているナビの名前だ。

『ホログラムを起動します』

 旧型のヨダカは、ホログラムを出すのに少し時間がかかる。宙をくるくると回転しながら漂うゴーグルに丁度重なるようにして、ヨダカのホログラムが出た。暗褐色の髪の毛がまだ少し透けている。

 僕が星間飛行士になったとき、引退する先代の持ち主から譲り受けたのがこの船とヨダカだ。型は古いけれど、長く使われているものは、縁起が良いとされている。縁起、という考えはつまり、幸運を分けてもらうのだ。大きな事故を起こすことなく乗り継がれてきた船は、最新の船とは違う憧れの対象になっている。一目置かれた存在と表現されることもある。

 しかし、ヨダカについては、どうだろうか。僕は今でも悩むことがある。ヨダカは他のナビとは違う。ヨダカが他のナビと異なっているのは、その人格プログラムのことだ。性能はアップデートされているから航海には支障がないけれど、人格プログラムは少々難ありだ。 一般的なナビは、パイロットに従順で、安全運航マニュアルから外れることを嫌う優等生ばかりだ。外見や機械的な声も、性格も、ある程度は自由に設定できる。

 けれど先代から引き継いだ時からヨダカは、外見は僕と同い年くらいのシップマスターの青年で、性格は従順とは言い難い。ああ言えばこう言う。悪戯好きで、すぐに人をからかう。今だってそうだ。含み笑いをしながら僕の体をすり抜けていく。ホログラムは少し熱を持っているので、触れると、物質は通り抜けても、仄かに温かい感覚がある。これが、嫌だ。

「ヨダカ」

 僕が名前を呼ぶと、ヨダカは空中で止まった。僕の次の言葉を待っている。

「星屑症候群」

 ヨダカは首を傾げた。

『その言葉は登録されていません』

 嘘だ。

 僕は思わずヨダカを二度見した。しかし、ヨダカは首を傾げたまま、僕を見ている。

『説明してください、ハナテさん。データを補完します』

 ヨダカの声がコックピットに響く。星屑症候群とは、僕は仕方なく口を開いた。

「宇宙病の一つ。正式名称は侵食崩壊性宇宙症候群。初期症状は体力の著しい低下。高熱や痛みを繰り返し、徐々に体の感覚が薄れていく。肉体は結晶化し、末期になると肉体を保つことが困難になり、衝撃を加えることによって肉体が粒子状に崩れる」

『原因は何でしょう』

「解明されていない。有力な説では、次元の違いで人類には認識できない宇宙物質が肉体を蝕んでいくと言われている」

 宙を漂っていたヨダカは泳ぐように移動して僕の隣に浮いた。

『予防法は?』

「ない」

『では、治療法は?』

「ない」

 そこまで答えて、僕はようやく気が付いた。登録されていないなんて、嘘だ。ヨダカは僕を試したのだ。僕が現実と向き合うために、わざと僕に説明させたのだ。ヨダカは機械のくせに、まるで人間のように振る舞う。僕はヨダカの背中を叩いたが、僕の手はホログラムを通り抜けただけだった。


 僕は泣いた。

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