二月一日 日曜日

 無人のホームに降り立って、俺は息を吐いた。痛い程に吹き付ける北風に震える冬の空気が俺の肺を凍らせる。風の音が幾重にも重なって頭の中に響き渡る。俺が歩いてきた線路は冬の奥へと続いていた。

 朽ちた駅舎に雪が積もる。廃線になった今でもまだ列車を待っているのだろうか。崩れ落ちないのは矜恃か。

 薄らと雪の積もった道を歩く。連なる廃墟の中には雪の重みに耐えかねて形を失った建物もある。看板は色褪せて読めない。枯れ枝がぶらぶらと風に揺れていた。

 田畑を埋め尽くす雑草も枯れて、今は雪の下。いつ来るとも知れない春を待ち侘びている。鈍色の空から粉雪が舞う。夜にはまた本格的に降り出して、朝には雪が積もっているだろう。今年の冬は一等寒い。マフラーに顔を埋めて歩く。

 通る者が居なくなった道は荒れ果てて、何度も足を取られながら、寒空の下を歩き続けた。道端の自転車は錆び付いて、蜘蛛の巣は凍り付いていた。幼い頃を過ごした町の景色は様変わりして、今はただ廃れ朽ちるのを待つだけの土地だった。だが、時の流れからも置き去りにされたかのように、果てる一歩手前で停滞したまま、変わらないようにも思えた。

 道はもはや道だったものだ。なんとなくそこに道があると分かる程度だ。そんな静かな道をただひたすらに歩いて、ようやく、目的の場所に辿り着いた。

 傷んだ建物の壁の一部は剥がれ落ちて、庭先には屋根から落ちた瓦が割れている。生い茂る雑草の海。蔦が這う柱。外れた雨戸、破れた障子。人の手が加わらなくなれば、人工物はあっという間に命を失う。植物が蔓延り、やがて自然の中に飲み込まれていく様は不気味なほどに美しかった。

 俺は敷地へと足を踏み入れた。

 瞬間、世界が夏の香りに包まれる。

 ヒグラシの鳴く夕暮れ。西の空が茜色に染まり、鳥が群れを成して飛んでいく。花たちは萎み始め、熱の中に夜の気配が混じる。庭先に紺色のSUV。賑やかな声が聞こえる。

「いいよ、余ったら明日の朝に食べようぜ」

 庭先に佇んでいると、無邪気な笑い声とともに、家の影から篤志が出てきた。手に持ったホースから水が噴き出している。篤志は俺に気が付くと、あ、と口を開け、すぐにその口を真一文字に結んだ。

「よぉ」

「颯佑くん」

 篤志はホースで水を撒く。

「そっちは冬なんだな。もう何年?」

 水飛沫の中に虹が架かる。

「六年と五ヶ月。ああ、今年の冬は厳しいんだ。雪が積もっている」

 俺はマフラーに顔を埋めたまま答えた。じわじわと暑さに汗ばんでくるが、俺は防寒具を外さなかった。

「こっちは、相変わらずこんな感じだ」

「知っている、ここはいつでも、あの夏だ」

 風が凪いでいた。


 あの日、何があったのか。俺はついにその全てを知らない。涼弥を篤志に託したあと、見えない影たちは俺の意のままに動いた。涼弥を追いかけるのは、顔も知らない他人ばかりだったが、彼らには影が見えていたのだろう。無謀にも挑んでくる者も、恐れをなして逃げ出す者も、影たちは少しの躊躇もなく凪ぎ倒した。何が起こっているのか見えなかったが、それは相当恐ろしいことらしかった。甲高い悲鳴が、助けを求める声が、断末魔と似た絶叫が、耳の奥まで響いた。

 楽しくはなかった。清々しい気分にもならなかった。彼らが襲われ倒れていく光景を俺はただ淡々と眺めていた。呆気ないものだと、こんなことのためにと、虚しくなった。

 だが、突然、地面が揺れた。地響きは収まらず、何事かと辺りを見渡していると、涼弥たちが去った方向から、何かが迫ってきていた。

 それは俺の目にも映った。

 黒、真っ黒な闇。暗黒が津波のように押し寄せてきた。俺は走った。それに巻き込まれたら終わりだと思ったからだ。走って、走って、追い付かれて、足を掬われて流されて。けれど、闇の中で俺は息が出来た。

 そうして闇に飲まれたあと、目を開けているのか瞑っているのかも分からなくなっていたが、気が付くと俺は道に倒れていた。街灯が俺を照らす。

「お目覚めですか」

 顔を上げると、傍らに柏木さんが佇んでいた。黒いワンピースが夜風に揺れていた。すらりと伸びる陶器のような脚が泥に塗れていた。

「あの町は陥落しましたよ」

 俺は立ち上がろうとしたが、膝を立てるだけで精一杯だった。身体のあちこちが痛い。俺も柏木さんと同じく泥だらけだった。周囲を確認すると、どうやら町に続く道の入り口だった。上空をヘリコプターが飛んでいった。

「わたしたちは、ハコの外側の人間だったようです。こうして、弾き出されてしまいました」

 柏木さんはそう言って肩を竦めてみせた。街灯が点滅して心許ない。

「涼弥と篤志は?」

「確かめる方法がありません。この道の先、土砂崩れで、分断されましたから。朝になればニュースで上空からの映像が流れるでしょう。山崩れで消えた町として。しばらくは世間で騒がれて、悲劇は弄ばれて、すぐに忘れ去られます」

「アンタは随分と冷静なんだな」

 少し嫌味になってしまった。ただの八つ当たりだった。

「ええ、あなたよりも先に目覚めたので、考える時間があったのです。おそらくこれが、涼弥さんの出した結末なのでしょうね」

「涼弥が道連れを望んだとでも?」

「それでもなお、ご自分の命を差し出してでもあの町を救いたいと、あなたならそう思うのですか? 随分とご立派なことですね」

 柏木さんは皮肉で返した。俺が何も言い返せずに黙っていると、柏木さんは言葉を続けた。

「道連れと呼ぶのは簡単ですが。涼弥さんは自分に与えられた呪いを返しただけではないかと思いますよ。町が救われるということの反対は、町が救われないということですから、この結末はハコの信仰の自業自得。祝福が呪縛に打ち勝っただけのことかと」

 俺は柏木さんを見た。涼しい横顔は、まるで世界には喜びも悲しみも存在しないかのようだった。

「アンタはともかく、どうして俺まで助かったんだ。俺だってこの町の出身だ」

「さて、どうしてでしょうね。巻き込まれたかったのであれば、助かってしまって残念ですね。そこの崖から飛び降りますか、それもまたひとつの選択でしょう。しかし、あなたは最初からハコの外側に居たのではないでしょうか。まあ、わたしには信仰など分かりかねるのですが。あなたはきっと、外側の人間ですよ」

 サイレンの音が近付いてきた。振り返ると、幾つもの赤色灯がこちらへ向かってきていた。

「保護していただきましょうか。これから色々と聞かれることでしょうけれど、少なくとも今夜の宿はありますよ」

 病院ですけれど。そう言って柏木さんはほんの僅かに笑った。あの町で過ごした日々を懐かしむように笑った。

 翌朝のニュースでは滅茶苦茶になった町の映像が流れた。俺はそれを病院のベッドの上で点滴に繋がれて眺めていた。道路も線路も寸断されてしまい、上空からしか町に入ることが出来ないために調査はまだ始まっていないが、神社周辺の被害が酷く、祭事で集っていた町民は不幸にも生存が絶望的だとされていた。俺と柏木さんのことは報道されなかった。

 昼過ぎに両親が病室に到着した。両親の悲壮に染まった顔を見ると、途端に、堪えきれなくなった。俺は弟を喪ったのだ。永遠に。

 警察や消防から色々と尋ねられた。俺たちはあらかじめ話を合わせていた。暗黒に飲み込まれたとは説明出来なかったからだ。一瞬のことで何が何だか分からないと言えば良かったし、それが本当のことだった。同じ事を繰り返し話すこともあったが、苦ではなかった。多分、心が折れていたのだろう。何もかもが色褪せていた。遙か遠い土地の出来事のように、自分の身に起きたことだとは感じられなかった。

 思ったよりも長く入院した。自覚が無いだけで、身体のあちこちにヒビが入り、中には折れている骨もあった。それはそうだろう。俺が居た場所から、町の入り口まで闇に流されたのだ。生きているほうが奇跡だった。

 柏木さんは俺よりも先に退院したが、幾度も俺を見舞ってくれた。

「今日、捜索が打ち切られました。わたしたち、ふたりきりの生き残りでしたよ」

 秋の風が吹く、昼下がりのことだった。柏木さんの腕はギプスで固定されていた。

「詳細は、それこそ闇の中ですが、中郷の坑道の辺りが最も衝撃が大きいので震源地、そこから麓に向かって山々が連鎖的に崩れていったような形だそうですよ。その規模から遺体の回収は絶望的ですが、これって」

 柏木さんは悲しそうに微笑んだ。

「人柱みたいですね」

 俺は口を噤んで窓の外を見遣った。季節は移り変わっていた。冬が来る前に俺も退院した。

 世間は悲劇的に報道していたが、捜索が打ち切られる頃には熱も冷めて、冬にはもう忘れられようとしていた。柏木さんの言った通りだった。そんなものだった。関心が薄れることは俺にとっても好都合だった。涼弥を喪っても、俺の人生は続いていた。馬鹿な話だ。願った俺が生き残って、願われた涼弥が奪われるなんて。笑えない。

 本当に、笑えなかった。


 都会に戻って、会社にも復職して、年の瀬にカフェで摩耶さんと落ち合った。摩耶さんは気丈に振る舞っていたから、俺も、出来る限り強くあろうと思った。

「先生は」

 ホットのアップルティーから湯気が立つ。

「速筆で有名でしたから、しばらくの間は原稿があります。世間は白岡夕凪を喪ったと気が付かずに過ごせるでしょう」

 俺はホットココアのカップを握り締めた。

「作家、白岡夕凪の終幕をまだ思い描けません。心の中にはまだ先生が居ます。もう言葉は紡がれないなんて、もう会えないなんて、そんなこと、信じたくないのに」

 甘いはずのココアが苦かった。

 柏木さんから連絡が入ったのは、正月明けのことだった。

『奥郷に行きませんか』

 電話口の柏木さんの声は澄んでいた。

『かなり険しい道を徒歩で向かうことになりますが、奥郷までの道がまだ、残っているそうです』

 本郷とは反対側から奥郷へ向かう道も断絶していた。線路も廃線になった。それでもなお、奥郷まで行けるのだと柏木さんは言う。

『あなたは行くべきです。ですが、あなたをひとりでは行かせません。わたしがご一緒します、行けるところまで共に参りましょう』

 春の雪解けを待って、俺と柏木さんはまず中郷を目指した。本郷から中郷までは捜索活動の際に仮設の道が敷かれていた。それももう使われなくなって半年が過ぎていた。レンタカーを借りて中郷までは車で向かった。

「あ、あそこ」

 本郷があった辺りを走っていると、助手席の柏木さんが前方を指差した。

「あれ、町立病院ですよ」

 周囲よりも立派な廃墟を柏木さんは指し示した。

「だから、あの辺り……」

 柏木さんの声が小さくなる。

「弐羽醫院のあった場所です」

 そこには瓦礫だけが残されていた。柏木さんにだって思うところがあっただろう。俺たちは跡形もなくなった町を走り続けた。

 地形さえも変わっていた。神社があった山も見事なまでに滑り落ちて、仮設道路は崖に渡されていた。下は奈落の底だった。あの土砂の中にまだ誰かが埋まっているかもしれないが、もはや、引き摺り出すことも出来ない。

 中郷に着いた。そこが中郷だと言われても、俺たちの知っている中郷とはもう別の場所だった。剥き出しの山肌だけが名残だった。

 あの山のどこかに、まだ、涼弥が居る。きっと篤志も一緒に居てくれいるはずだ。ふたりは手を繋いで、駆け回っているだろうか。もう望みを制限する呪いも無いのだ、今は自由に走り回れる。終わってようやく、命が涼弥のものになった。何だって出来るだろう。お前はもう、自由だ。俺の祝福も、呪縛ももう、断ち切られたのだから。

 そこから先は、本当に険しい道だった。道路を進むことは出来ず、俺たちは歪曲した線路を歩いた。崖っぷちを何度も歩いた。下を見ると眩暈がした。恐怖心と共に、今ここで飛び降りれば涼弥と同じところへ辿り着けるのではないかという思いを抱いた。だが、そんな気持ちが過ぎるたびに、俺の後ろに続く柏木さんの存在が気掛かりだった。だから柏木さんは、俺をひとりでは来させなかったのだろう。

 上郷まで辿り着いた頃には日が暮れようとしていた。電線も切れた町は真っ暗になる。夜が来る前に俺たちは持参したテントを準備した。テントを張っていると、あの夏の日を思い出した。この町に戻ってきて、涼弥は少しでも望みを叶えられただろうか。そうであれば、俺も嬉しい。

「信じていただかなくても結構ですが」

 柏木さんはそう前置きをした。

「わたし、この町のことは好きだったんですよ。皆さん優しくて、水も美味しいし、暮らすのに不自由はなくて。それが表面だけだったとしても、居心地の良さを感じていたのは本当です」

 本当なんです。柏木さんの声は春の闇に消えた。

 朝、俺たちは上郷を発った。明るくなると、上郷にはまだ面影が残っているということが分かった。見覚えのある景色だった。だが、輝きは失われていた。

 森を抜け、崖を歩き、途中からまた線路を歩いた。春の空は薄い青で、どこまでも広がっていた。世界の果てを目指しているようだった。

 そのまま線路を辿って、奥郷へ着いたのは昼過ぎだった。無人の駅舎で昼食を取った。それから少し休憩して、また歩き始めた。

 駅前から続く商店はどれも無人だった。まだ一年も経っていないのに、誰も住まなくなった町はこれほど早く息を止めるのか。何とも言えない無常を味わった。田んぼには刈り取られなかった稲穂の波が朽ちていた。畑の作物も、ひっそりと絶えていた。だが、また巡りくるかもしれないと思った、それが自然の摂理だから。

 祖父の家が見えた。俺も幼い頃はここで暮らしていたし、名義は涼弥になっていたが、やはりここは俺にとって祖父の家という印象が強い。

「着きましたね」

 まだ冷たさの残る春風が吹いていた。立ち尽くしていた俺は柏木さんに背中を押されて一歩を踏み出した。

 瞬間、風が凪いだ。

 あの夏が、そこにあった。


 篤志は蛇口を閉めた。

「ちょっと待って」

 そう言って篤志は玄関から家の中に入った。縁側から入れば良いのに、いつだって律儀に玄関へ回る。篤志は家の中をうろうろして、また玄関から戻ってきた。

「はい」

 篤志は俺に原稿用紙を渡した。

「この前っていつだったっけ、あれはもう本になった?」

「ベストセラーになったよ、賞も貰った。ほら」

 俺は預かった原稿用紙をリュックに仕舞い、代わりに本を取り出して篤志に渡した。健康的に日焼けした篤志の腕の中に本は収まった。篤志は笑った。夕映えに照らされた笑顔が眩しくて、俺は俯いた。

「篤志」

 俺は篤志の名前を呼んで顔を上げた。

「ごめん」

「いつも言っているけどさ、謝らないでくれよ」

 篤志は困ったように言った。

「颯佑くんが生き残ったのも、オレがここに居るのも、全部オレたちが受けるべき罰だよ。そうじゃねぇのなら、これがリョウちゃんの願いだ」

 篤志は家の中を見遣った。台所に立っている涼弥の姿はここからは見えない。

 あれから、六年と五ヶ月が過ぎた。だが、今でもまだこの家はあの夏のままだ。涼弥はこの家に閉じ込められた。それがせめてもの抵抗で、最後の願いだったのだろう。最良の日々は、篤志と共に、この家に封じられた。もう誰にも邪魔されない。誰の手も届かない。涼弥にとっての楽園が、ここにあった。

 涼弥は俺を認識しなかった。それどころか、自分たちが夏に閉じ込められているという自覚も無いのだと篤志は言う。ふたりの世界で、篤志だけがこの歪みを認識していた。つまり、篤志はここで夏を過ごしながら、この季節に終わりなど訪れないことを知っている。それはあまりにも不憫に思えた。篤志がどう思っていようとも、俺にはそれが、どうしようもなく可哀想で、やるせなかった。それでいて涼弥を恨む気持ちなど抱かないことが、余計に苦しかった。

 流れた汗がマフラーに染み込む。ここは暑い。長居することは出来ない。永遠を望んでしまうから。俺はリュックを背負った。

「涼弥をよろしく頼む」

「ああ、任せて」

 またな、と手を振り合って、俺は敷地から出た。途端に冬の凍て付く風が吹き付ける。振り返るとそこには廃屋が残っているだけ。俺は歩き始めた。粉雪が舞い遊ぶ。次にここを訪れるのは春の終わり頃だろう。山を越え、森を抜け、崖を渡り、線路を歩いて、また俺はここに来る。マフラーの中の汗が冷える。それはまるで冷たい手のように俺の首筋に留まっていた。

 歩き慣れてしまったこの道も、最初の頃と比べればずいぶんと早く往復出来るようになった。だが年々、道は傷んでいく。いずれ辿り着けなくなる時が来るだろう。だが、その時が来るまでは、俺はあの家に行くつもりだった。それが俺の義務で、宿命で、俺だけの権利だった。

 中郷まで戻ると、薄暗がりの中、車にもたれかかって柏木さんが待っていた。今はもう柏木ではなく黒岡なのだが、姓が変わってもまだ、柏木さんと呼ぶ癖が抜けなかった。

「ただいま」

「おかえりなさい。篤志さんには会えましたか」

「ああ。相変わらず、仲睦まじく夏のまま」

 俺は振り返った。鈍色の空に夜が迫る。

 風の吹かない夕暮れ時。朝と夜の僅かな狭間。閉じ込められた黄昏の儚い世界。遠い夏の日。一瞬の永遠。夕凪の錆びた箱庭。

 そこに今もまだ俺の弟がいる。

「そろそろ帰りましょう、ここは冷えます」

 雪雲で覆われた空には星のひとつも見えなかった。

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錆びた箱庭 七町藍路 @nanamachi

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