八月十日 土曜日 午後五時三十二分

 森を抜けると坑道へ続く山道に出た。篤志は木陰に僕を降ろした。岩に手を付いて肩で荒い息を繰り返す。

「ごめん、篤志」

「いい、大丈夫、大丈夫だから、ちょっとだけ待ってくれ」

 大粒の汗がボタボタと滴り落ちていた。陽射しは強いままだったが、それが夜に向かっている光だと分かった。

「昨日、リョウちゃんとはぐれてから、颯佑くんと合流出来た。今日のことを話した。坑道の奥に御神体があるはずだと、颯佑くんから聞いていた。こうなる予感はあった」

 予感はあったんだ、と篤志は繰り返した。だから何だって言うんだ。予感があったところで、未来が分かったとしたって、訪れた現実を受け入れられるはずがない。

「信仰を断ち切ることに迷いはねぇよ、ただ、何も知らずに生きてきたことが悔しいし腹立たしいんだ」

 篤志は大きく息を吸って、深く吐いた。

「オレの靴で良ければ」

 篤志は履いていたスニーカーを脱いで僕にくれた。足を入れると大きすぎて、ぶかぶかと歩きづらかった。思わず笑ってしまった。僕はスニーカーを篤志に返した。

「行こう、リョウちゃん」

 差し出された手を僕は握った。

 アルバムの中の幼い僕は不貞腐れた顔で篤志に背負われていた。今、僕たちは手を繋いで同じ道を進んでいる。夏の香りがした。その中に、忘れがたい思い出はいくつあるだろうか。

 信仰の始まりは、どんな祈りだったのだろう。雨乞いだったのだろうか、疫病だったのだろうか、誰かの命と引き換えに祈られた願いは、何を守ったのだろう。誰を救えたのだろう。

 篤志が小さな声で歌を歌っていた。スカボローフェア。篤志の車の中で何度か聞いた。イギリスの古い歌。確か何かの映画の挿入歌だったはずだ。不可能な依頼を成し遂げればかつての恋人とまた結ばれるという、どうすることも出来ない歌だ。篤志がどうしてその歌を選んだのか分からないけれど、篤志の静かな歌声は、僕の歩みを前に進めた。

 僕は振り返った。眼下には夏に彩られた町が広がっていた。どこまでも広がる青空。光。僕は夏を見送った。

 坑道の入口には朽ちかけの看板があった。文字も読めなくなった看板を横目で見ながら篤志に手を引かれて坑道に入った。篤志はスマートフォンの懐中電灯を点けた。光は遠くまで届かない。闇の奥から冷たい空気が流れてきた。

 正直に言うと、足が竦んだ。一歩を踏み出せなかった。この先に待ち受けるのが、僕の望む結末ではないと分かっていた。分かっていたけれど、それでも進むしかなかった。もう戻れなかった。決着の時だ。もう、終わらせなければ。

 僕は篤志を見た。篤志も僕を見て、頷いた。

 繋がれた手は離れなかった。ぬくもりは消えなかった。だから僕は、終わりへと向かう一歩を踏み出した。

 祖父のことが好きだった。兄のことが好きだった。両親も、マヤさんも、柏木さんも、篤志も、凉平君も。僕を愛し、生かしてくれる人たちのことが、大好きだった。僕は祝福で満ち足りていた。それだけで良かった。愛だけで十分に息が出来た。呪いに穢されることなんてない。僕の愛は、確かに僕に命を授けた。

 地図を頼りに僕たちは進んだ。いつ記されたものか定かではない古い地図は、僕たちを奥へ、奥へと導いた。遠足で来るような整備された空間はすぐに終わった。長年、手が加わっていない道が闇の中へ続いている。灯りを消せば完全な暗闇だった。冷たい暗闇だった。狭い横道、低い道、広い空間。上へ、下へ。篤志の小さな歌声が反響した。水の音が聞こえるときもあった。曲がりくねった道程は長く、僕たちは何度か休憩しながらも、それでも黙々と進んだ。闇を進むのは怖かったが、足を止めるのはもっと恐ろしかった。

 次第に、何か、ひりつくような感覚が大きくなった。重圧。この奥に、何かがある。それがいる。僕は手を引っ張られて篤志を見た。

「リョウちゃん」

 凉平君だった。いつのまに入れ替わったのか、まったく分からなかったが、僕は呼んでいないのに、凉平君が表に出ていた。

「凉平君、どうしたの」

 問いながら僕は凉平君の答えが分かっていた。その時が来たのだ。

「オレはここまでだ」

 笑いながら、けれど泣きそうに、凉平君はそう言った。

「この先へ、一緒には行けない」

「うん」

「リョウちゃんなら出来る」

 ここから先は、神域だ。かつてそれに捧げられた凉平君にとっては、忌まわしい場所だろうし、死してなお漂う凉平君が触れられる領域ではない。凉平君は、夏の陽炎のようなもの。そこに見えても決して届かない、この世にはもう存在し得ない魂だ。

 凉平君と過ごした時間は短い。最初は小さな違和感、それが大きくなって。悪いものだったらどうしようかと思っていたけれど、その心配は必要なかった。凉平君はずっと味方でいてくれた。凉平君が現れてくれなければ僕はここまで辿り付けなかっただろう。

「凉平君、ありがとう、色々と」

「礼を言うべきはオレのほうだ。オレを信じてくれてありがとう。オレの名前を呼んでくれて、ありがとう」

 凉平君は長い瞬きを繰り返した。篤志の中から抜け落ちた凉平君がどうなるのか、僕は尋ねることが出来なかった。輪廻というものがあるのだろうか、それとも、そんな円環からは外れてしまったのだろうか。いずれにしても凉平君の行方を僕が知る手立ては無い。

「また会える?」

「もう会えない」

「そう……元気でね」

「ああ、リョウちゃんも」

 達者でな、とそう言って、凉平君の気配が消えた。別離はそれだけだった。死者の息災を願うのも変な話だったが、どこか遠い場所で凉平君が祖父と再会出来ることを僕は心から望む。

 次に目を開いたのは、篤志だった。

「篤志」

 僕は篤志を呼んだ。篤志は少し首を傾げて僕の言葉を待った。

「進もう」

 僕は篤志の手を引いて歩き始めた。もう二度とこの道をふたりで通ることはないと知っていた。

 たとえば、何かと引き換えにどんな願いでも叶うとすれば、僕ならどんなことを願うだろうか。今の僕は、過去の僕は、そして、未来の僕は。誰のために何を選ぶだろう。今、この手に篤志の命がある。僕は篤志の命と引き換えに、自分の命を願うことだって出来るだろう。だが、僕はそれを望まない。いつの僕も、それだけは絶対に望まない。

 兄は、僕の誕生を願った。その代償が僕の寿命だった。きっと、何を犠牲にするのか、あらかじめ分かっていれば、きっと願いは変わっていただろうし、そもそも願うことすらなかったかもしれない。だが、実際に四歳の兄は弟の命を祝い、結果的にそれが呪いを授ける形になった。それだけだと言ってしまえば、それだけのことだった。兄が悪いわけではない。あのとき、兄が僕の命を祈っていなければ、僕は生まれることなく死んでいたかもしれない。あるいは、兄が願っていなくても僕は生まれていたかもしれないし、そうであればもしかすると、健康に生きていたかもしれない。だが、仮定をいくら考えてみたところで現実は、兄が願い、僕はハコで、僕は今日まで生きてきた。多くの人に呪われて、愛する人に祝われて、愛するひとたちを傷付けて。

「寒いね」

「ああ、冷える」

 どちらともなく手を強く握った。暗闇の中、心許ない灯りひとつ、繋がれた手だけが確かな感覚だった。光の届かない坑道は、夏とは思えないほど涼しくて寒いくらいだった。本当はもう、地図の通りに歩いているのか分からなくなっていた。坑道はあまりに複雑で、地図にはない道がいくつもあった。曲がり角を間違えたかもしれない。もうひとつ前の細い道だったかもしれない。けれども一歩ずつ進むたびに、身にのしかかる重圧が次第にハッキリと濃くなっていた。

 この重苦しい空気は篤志も感じていたことだろう。だが、僕たちはどちらもそんなことを口にはしなかった。代わりに、他愛も無い話をした。一緒に暮らした日々のこと、離れて過ごした月日のこと、僕たちに訪れることのない遠い未来のこと。暗闇の中に、ひとつ、またひとつと、思い出の花が咲いて、闇を空虚に彩った。

 きっと、ひとりでは歩けなかった道だ。僕は共に歩く篤志に感謝した。変わらない友情が、何よりも嬉しかった。これが、僕のずっと望むものだったのだろうか。この夏が、僕の理想だったのだろうか。そうであるとすれば、僕のとりとめのない万感はすべて叶っている。

 不意に灯りが消えた。暗闇、完全な暗闇だ。僕は篤志の手をギュッと握った。

 けれど、この手が握り返されることはなかった。僕の腕がグッと下に引っ張られた。篤志が倒れたのだ。

「篤志」

 僕は手探りで篤志の身体を揺さぶった。返事は無い。反応が無い。

「篤志!」

 何が起こったのか分からなかった。けれど、篤志は音も無く崩れ落ちて、僕の呼び掛けにも応じない。息をしているのか、脈はあるか。僕は篤志に縋り付いた。

「篤志」

 暗闇の奥で、何かが笑っていた。人間の欲望の深さを嘲るように。思慮の浅ましさを慈しむように。愛情の強さを蔑むように。暗く、黒い闇のその奥で、何かが僕を笑っていた。僕は泣きもせず、叫びもせず、暗闇の奥を睨み付けた。

「ああ、そう、分かった」

 僕は幸福だった。たとえ僕を不幸だと憐れむひとがいても、僕は僕自身の人生を幸福に生きた。与えられた舞台の上で、決められた台本の中で、それでも僕はこの魂に有り余るほどの幸福を得た。

 それが全てだ。

「僕の命を清算する時が来たんだな」

 僕は篤志の身体を抱き寄せた。ぐったりと力無く、まだ温もりがそこに残る。

「持っていけば良い、そんなに欲しいのなら、こんな命くらい、持っていけば良い」

 低く唸るように僕は言った。闇よりもずっと暗い闇。光の届かない闇。どれだけ足掻いても、希望はもう無い。

 ここはハコ。

 ハコの中だ。

「だけど、これでお前の望み通りになったなんて思うなよ」

 繋いだ手は離れない。この手は離さない。

 僕は笑った。

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