八月十日 土曜日 午後四時四十六分
僕は転がるように林道に出た。後ろで何度か銃声が響いたけれど、僕は振り返らなかった。木々に囲まれた小道を辿る。慣れない白装束は走りづらく、裸足の足の裏が痛かったが、気にする余裕が無かった。水汲み場の苔生した屋根が見えた。その屋根の下に兄が待っていた。
「涼弥!」
「兄ちゃん!」
僕は兄の元へ飛び込んだ。
「怪我は、お前、血が」
「僕のじゃない。柏木さんが助けてくれた」
「柏木さんは?」
兄が尋ねたその時に、また銃声が響いた。それが答えだった。森から鳥たちが飛び立った。僕は質問を返した。
「篤志は?」
「ここに来る」
僕は水汲み場の柱の麓に座り込んだ。息が上がって苦しい。兄は水汲み場の柄杓に水を汲んで僕に差し出した。
「大丈夫か?」
「平気」
水を飲んで目を瞑ると少し気分がすっきりした。目の前で人間が撃ち殺されたというのに僕は自分でも驚くほどに冷静だった。いや、冷静というよりもただ、冷めているだけかもしれない。血飛沫を撒き散らして事切れたのは、僕の命を呪っていた他人だ。そんな人たちを悼む心は僕に無い。そんなにお人好しではないし、博愛主義者でも聖人でもない。
「兄ちゃん」
僕は流れる汗を白装束の袖で拭いた。真っ白だった装束には血が飛び散り、薄汚れていた。
「昨日、どこへ行っていたの」
夏の陽射しが痛いほどに照り付けていた深く濃い緑の森が風に唸っていた。兄は答えなかった。
「ハコの始まりを知っているの」
湧き水は留まることなど知らずに流れ続けていた。烏たちが上空でざわめいていた。
「どうして答えてくれないの」
兄は何も答えずに遠くを見ていた。沈黙は五分くらいだっただろうか。あるいは、たったの数秒のことだったかもしれない。
「涼弥が生まれる前に」
唐突に兄は口を開いた。
「身重の母さんと一緒に弐羽醫院へ行った」
兄が何の話をしているのか分からなかった。分かりたくなかった。真実を知りたいと望みながら、知ることを恐れていた。兄の瞳は相変わらず遠くを見詰めていた。
「誰でも良かったんだろう。ハコになれるのなら、誰だって良かったんだよ。数撃って、一発当たればそれで万々歳。それに、たったひとつのほうが珍しくて好都合だろう。いずれにしても、成功を求めて何度も、何度も繰り返されてきた儀式だ。俺の時だって、そうだったんだろうな」
首筋を汗が伝った。兄の声は低く、冷たく、水の底に沈んだように暗かった。僕は兄の見詰める先に目を遣った。兄は何を見ていたのだろう、何も見ていなかったのかもしれない。何を思っていたのだろう、何も思い出せなかったのかもしれない。
「ああ、篤志だ」
兄が言ったのと同時に僕も篤志の姿を見付けた。篤志は下から続く道を駆けてきた。手を大きく振っている。その手は挨拶ではなく僕たちに森へ入れと促しているようだった。僕と兄は篤志に従った。
陽射しが遮られた森の中は少しだけ涼しく感じられた。篤志も追い付いた。
「ほら、図書館でコピーしてもらった。これだ」
篤志が取り出したのは紙だった。だが、ただの紙ではなく何かが印刷されている。
「これは?」
「中郷の坑道跡の地図」
地図を兄に渡して、篤志は先頭を歩いた。僕たちは森の中を歩いた。篤志は何も聞かなかった。僕が血塗れの理由も、柏木さんの行方も。聞かずとも分かっていたのか、聞きたくはなかったのか。知りたいけれど、待っていただけなのか。いずれにしても、その背中に迷いはなかった。
「どうして坑道に?」
僕は尋ねた。話が読めなかった。確かに、神社には天狗の伝説が描かれていたけれど、それがハコとどのように繋がるのか見えない。
「摩耶さんからハコの信仰について聞いてから、俺だって色々調べたんだ。資料を集めて読んで、疎遠になった親戚にも連絡して。それで、分かった。ハコの信仰の始まりは、天狗の伝説の成立と時期が同じだ」
僕の疑問に後ろを歩く兄が答える。
「神社で祀っているものと、ハコと、天狗の伝説が同じだってこと?」
「そうであってくれないと困る。他にもう導き出せる答えが無い」
兄は溜息のように言った。僕は口を噤んだ。僕を蝕むものが呪いだと知った兄は、どんな気持ちだっただろう。理不尽に感じただろうか。怒りは、絶望は、悲しみは、そこに何が存在しただろうか。僕を憐れんだのだろうか、それとも。
それとも、僕は兄の心に何を望むのだろう。
「何より、俺は」
兄が言葉を続ける前に、背後の茂みがガサガサと揺れた。僕と篤志は振り向いた。無数の黒影が木立に佇んでいた。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
僕は兄の手を引いた。兄は驚いた顔をした。僕は影たちを見遣った。兄は僕の視線を追った。僕は兄の視線を追った。
「……兄ちゃん」
その瞳は影を見ず、僕のことも見ず、ただ伏せられた。
「……あの影が見えないの……?」
兄の溜息は蝉時雨に掻き消された。
「見えない」
兄は答えた。僕は兄の手を強く引いた。篤志が僕の肩に手を置いた。
「陽炎のように景色が揺らぐから、そこに何かが居るということが分かるだけだ。それがどんな姿かたちをしているかなんて、俺には見えない。車で逃げたときだって、そうだった。俺には最初から最後まで、何に追われているのかなんて、分からなかった」
まさか、と僕は思った。それと同時に、僕が目にならなければならないと感じた。兄を危険から遠ざけるために、僕が今、兄の目にならなければ、と。
だが、僕たちの思考を遮るように、突如としてサイレンが鳴り響いた。流れる甲高い音は世界の終わりを思い起こさせた。
「何」
「防災無線だ」
篤志が僕と兄の手を引いて駆け出す。
「追ってくるぞ。こうなったらもう、町中が敵だ」
「どうしてそんなことが分かるの」
「大雨でも地震でもない。ハコが逃げた、それ以外にどんな理由でサイレンが鳴るんだ」
僕たちは先を急いだ。時々振り返ると、影たちはジリジリと迫ってきていたが、捕まるほどの勢いではなかった。兄の目にはやはり、あの影が映っていないらしい。しかし、兄は前だけを見据えていた。
「う、わっ」
木の根に足を取られて僕は転んだ。すぐさま篤志に抱きかかえられる。裸足で走るのもそろそろ限界だった。膝から血が出ていたし、足の裏にも血が滲んでいた。
「リョウちゃん、裸足」
「仕方が無いだろ、僕のせいじゃない」
マヤさんが来たときと同じことを篤志は言った。あの日々がもう、ずっと遠い昔のことのように感じられる。篤志は僕を抱えたまま走った。木々の隙間から呆れるほど青い空が見えた。
「後ろ、追ってきているか?」
篤志が僕に聞く。僕は首を伸ばして追っ手を確かめた。黙って付いてくる影たち、その後ろに怒号を纏う気配が分かった。
「来ている、町のひとたちだ」
町のひとたちが僕たちを追ってきた。柏木さんはどうなったのだろう。無事を信じたいが確かめるすべが無い。
「あっ」
唐突に篤志が向きを変えた。僕は篤志の服を掴んだ。
「前からも来た」
篤志の言葉通り、影が前からもやって来た。
「あと少しで坑道なのに」
僕たちは森を縫い、影を避けて進んだ。次第に篤志が疲れてきているのが分かった。僕を抱えている分、負担は大きいはずだ。兄も、疲労が顔に表れていた。
「篤志」
兄が篤志を呼んだ。
「お前、先に行け」
横に並んだ兄が僕の手に地図を握らせる。
「俺は記憶したから。後で追い付くから」
僕は兄を見た。苦しそうな兄は、しっかりと僕を見ていた。
「ハコのこと、調べているうちに、思い出したんだ。この町で過ごした日々を、思い出した」
木々の間から飛び出した影が篤志に手を伸ばした。篤志は間一髪で手を躱したが、兄を避けたのはその手のほうだった。影が、兄を避けた。
背後から追ってくる影が距離を詰めてこなかったのは、僕の後ろに兄が居るからだ。僕を狙いたくても、兄が邪魔で手出しが出来ないのだ。凉平君を避けた座敷童と同じだ。この影たちは兄に敵わない。
違う、と僕は自分の考えを否定した。凉平君は言った。兄は別の魂に干渉されることは無いと言っても良い。
兄は急に立ち止まって振り返った。僕と篤志はつられて振り向く。僕たちを囲む影たちの視線が一斉に動いたのを感じた。
「幼稚園の遠足で、坑道で、俺は、それに会った。あまりにも現実離れしていたから、今まで結びつかなかった。だが今なら理解出来る。ハコは、器と、願いによって成立するんだ。涼弥が器として生まれたのなら、それを信仰として成り立たせるための願いは? ハコをハコとして存在させるための、祈りは?」
それ。兄の言うそれという存在が説明されずとも何か分かる気がした。篤志は進むべきか留まるべきか躊躇していた。僕は篤志のシャツの胸元を握り締めた。縋りたかった。
「願ったのは、俺だ。でも、呪いたかったわけじゃない。本当だ、こんなことになるなんて思わなかった」
兄がスッと手を伸ばした。影たちの視線が兄の手の動きと同じように移動した。
「俺はただ、ただ、弟が無事に生まれてきてほしいって。四歳の子供だぞ。そのためなら何を犠牲にしても構わないかと問われて、犠牲の意味も知らない子供が、嫌だなんて言うわけがない。俺はただ! 弟を守りたかっただけだ! それなのに、それだけなのに、どうして! どうしてなんだよ!」
兄は叫び声とともに腕を振り下ろした。それを合図に影たちが一斉に動いた。後ろから迫る町のひとたちに向かって、蠢く影たちが襲い掛かる。兄にはそれが見えない。兄には、呪いが見えない。いつだって兄は祝福していた。僕の命を、僕のすべてを。自分の願いにひとつの疑問も抱かずに、僕の命にひとつの疑いもないままに。
「欲しけりゃいくらでもくれてやる。これが俺の願いだ」
この町の信仰が、兄の願いを呪いに変えた。
篤志は僕をしっかりと抱いて走った。僕は戻ってくれと言えなかった。
向きを変えるほんの一瞬、僕の視界はゆっくりになった。一秒にも満たない刹那が永遠にも思えた。
兄が泣いていた。祖父の葬式でも唇をキュッと噛んで涙を堪えていた兄が、泣いていた。
僕は篤志の胸に顔を埋めた。耳鳴りのような蝉時雨の中に、叫び声。怒りと痛みに満ちた、呪いの声。鬱陶しいほどに晴れた空が、爽やかな夏風も、揺れる木漏れ日さえも、すべてが煩わしく思えた。
今、確かな悪意が僕の中で花開こうとしていた。
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