八月十日 土曜日 午後三時二十七分

 気が付くと僕は暗闇の中だった。

 いつのまにそうなったのかは分からない。だが、気が付くと周りは何も見えない闇で、膝を抱えるように、横になった身体の自由も利かなかった。縛られているわけではない。だが、身体を動かそうとしても感覚が曖昧で、ふわふわとしていた。酷い眠気と似た浮遊感だ。それに、暗闇でもなんとなく分かる。ここは狭い場所だ。裸足の足の裏が何かに当たっていたが、折り曲げられた膝も、背中も、下になっている右肩も、同じように何かと接している。箱だ、と僕はフラフラとする頭で思い当たった。箱の中に閉じ込められている。助けを呼ぼうにも声が出ない。

 僕は睡魔と戦いながら、どうしてこうなっているのかを思い出そうとした。あの地下室で桃を食べて、それからどうなった。しばらくの間、あの地下室で過ごしていた。何が出来るというわけでもなく、ただ考えていた。薄暗い地下室では考えることしか出来なかった。すべての考察は僕の想像でしか無い。たとえ真実に辿り着いてしていたとしても、それが本当に正しいか否かを確かめる手立てが僕には無かった。

 そうしていくつかの結論に達しては、自分で否定し、またひとつの考察を導いては、間違っていると投げ捨てた。そのあたりからの記憶が怪しい。今と同じような眠気を感じ始めた。強烈な眠気はたとえば酔い止めの薬を飲んだ時のように、あまりにも抗いがたいものだった。僕が口にするとも分からない桃に薬が入っていたとは考えにくい。おそらくは扉か通気口から催眠ガスか何かを嗅がされたのだろう。

 暗闇が揺れた。箱が動かされたのだ。規則正しい振動に、僕は箱が運ばれているのだと感じた。行先は神社だろうか。そうだとしたらもう正午を過ぎたのだろう。空腹は感じない。排泄の欲求も無い。それどころか自分自身の肉体があるという感覚が無かった。完全な暗闇では方向感覚を失い、自分がどんな格好をしているのか理解出来ない。感触はあっても、自分の思う通りに身体を動かすことが出来ない。よく言われる幽体離脱のような状態だ。

 僕は耳を澄ませた。箱を通して聞こえてくる音から状況を探ろうとした。話し声はいくつも聞こえたが、何を言っているかまでは聞き取れなかった。

 ごとん、と箱が大きく揺れて、それきり落ち着いた。僕は静かに息をした。静寂。やがて、天井がゆっくりと開かれた。眩しさに僕は目を開くことが出来なかった。

「そろそろ薬が切れる頃かな」

 弐羽先生の声だった。

「お目覚めかい」

 僕は返事をしなかった。それが癇にさわったらしい。僕の髪を乱暴に掴んで無理矢理に起こされた。僕は瞼を僅かに開けた。あまりにも眩しくて目が痛いほどだった。僕は呻いた。

「おいおい、口も無ぇのか」

 知らない声だった。僕の髪を掴む手と同じように粗暴な声だった。

「こら、乱暴に扱うのは止めなさい、まだ薬が抜け切っていないようだから」

 これは弐羽先生だ。チッという舌打ちのあと、僕の身体は箱から出された。僕はようやく目を開けた。視界が酷くぼやけていた。ぐったりとした身体を動かすこと出来なかった。

 僕は服を着替えさせられていた。儀式的な白装束。神聖さと同時に、死の匂いがした。床に横たえられて、ここはどこだろうかと僕は瞳だけを動かした。板張りの部屋は三方を障子に囲まれて、残る一辺の壁は木張りで、描かれた絵は色褪せていたが、中郷の山を削った天狗伝説のようだ。僕はここが神社の一角だと思った。

 弐羽先生の手が僕の下瞼に触れ、口を開けさせられて、脈も測られた・

「ふむ、悪くは無いね」

 手短な診察が終わった。部屋の中には弐羽先生と知らない大人が五人ほど居た。神社の氏子だろうか。聞こえてくる蝉時雨の中に太鼓の音とヒグラシの鳴き声が混ざっていた。

「涼弥君、君はまだ純潔なままかな」

 弐羽先生の手が僕の頬を撫でた。気持ちが悪かった。

「それとも篤志君と一線を越えたかい、それならそれで構わないのだがね」

 頬を撫でる指先は首を伝い、僕の胸へと滑った。手首を誰かが押さえつける。足首を掴まれて乱暴に脚を開かされた。服の下に幾つもの手が伸ばされる。僕は身体を捩ったがあまりにも無力だった。怖い。今から何をされるのか、それが分からないほど幼くはない。身体が強張る。声が出せない。僕は目をぎゅっと瞑った。怖い、助けて。

 助けて!

 ダァン、と弾ける音がした。次の瞬間、僕の足首を捕まえていた男が僕の方へゆっくりと倒れた。誰かの悲鳴が響いた。男は頭から血を流して事切れていた。続いて一発、二発と発砲音に崩れる大人たち。僕は男の死体の下から這い出た。白装束が真っ赤に染まっていた。

 僕は這いずってそのまま逃げようとしたが、足首を掴まれて引き摺り戻された。僕は振り返った。弐羽先生だった。弐羽先生の肩から血が流れていた。

「逃がさないよ」

 弐羽先生は不気味に笑っていた。その瞳は完全に正気を失っていた。弐羽先生は僕に覆い被さった。荒い呼吸が不快だった。弐羽先生の力は強く、僕が押し退けようとしても無駄だった。

「おかえり、涼弥君、この日を何度、幾度夢見たことか。我々のハコが、戻ってきた。我々の期待以上に成長して。ああ、涼弥君。君の命で祝杯を挙げよう」

「ハコを人為的に生み出したのか」

「科学だよ、飽くなき研究の成果さ。実験はようやく成功した。この要領ならば、安定してハコを生み出せる。我々の安寧は約束されたのだ」

「凉平君を実験台に使ったの」

「ああ、黒岡凉平、君の祖父の兄にあたるのだったか。尊い犠牲さ。昔から黒岡家はハコを出しやすかった。黒岡凉平もそのひとりだ。大切に使わせてもらったのだと聞いている。今まではいずれも出来損ないばかりだったが、これでようやく完成というわけだ」

 僕の脳裏に座敷童の姿が過ぎった。あれは、大人になれなかった、彼らは。ひとり大人になった僕をさぞかし恨めしく思っただろう。どうしてお前だけが、と憎くて仕方が無かっただろう。尊い犠牲だなんて、そんなもの、そんなもの。僕の瞳には涙が滲んだ。

「悲しいのかい、どうして泣くのかね、もっと自分の存在を誇りに思うべきだ。なにせ、町のために命を捧げるなんてこと、そう容易く成し遂げられるものじゃない」

「うるさい、こんな、こんな町のために……」

 弐羽先生は僕を引っ張り起こすと、僕が入っていた箱に押し込んだ。それは黒い木箱だった。

「君はハコとしての使命を全うしたまえ。それが君の唯一の生まれた意味、死ぬ意味だよ」

 蓋を閉めようとする弐羽先生に僕は抵抗した。鈍い手脚を動かした。今、抗わなければ、こんな身体、あっても無意味だと思えるほどに、僕は力を入れた。

「死ね、さあ、死んでくれ。ハコとして、死ね!」

 次の瞬間、弐羽先生が弾け飛んだ。銃声が大きすぎて、僕の耳は処理しきれなかった。耳鳴りがした。

「医者を名乗るのもおこがましい。失望しましたよ」

 そこに立っていたのは、柏木さんだった。死体の中に立つ黒いワンピース姿は、死神を連想させた。

「涼弥さん、わたし、言いましたよね」

 柏木さんは僕に手を差し伸べた。

「医者ほど怪しい者はない、と」

 それから、と柏木さんは続けた。僕は柏木さんの手を取って立ち上がった。

「銃火器の扱いに長けた者は頼りにしなさい」

 柏木さんはしっかりと猟銃を握り締めていた。

「怪我はありませんか」

 僕はただ頷くことしか出来なかった。脚が震えていた。

「無事で良かったです。怖かったですね。しかし、まだ終わりではありません。さあ、行きますよ」

 柏木さんに導かれて僕は外に出た。眩しい。

 やはりここは神社の一角だった。奥にある祭殿か何かだろう。襲撃に気が付いた神社の人間たちが慌てて走ってくる姿が見えた。

「ほら、急いで」

 僕たちは鎮守の森に入った。森の中は涼しかった。

「柏木さん、あの、ありがとうございます」

「そういうのは無事に逃げ切ってからにしてください。あ、今のすごく映画みたいでした」

 黒いワンピースにも関わらず、柏木さんは軽やかに森を進んだ。

「それにしても、どうして」

「ああ、この猟銃ですか。わたしがこの町に移住してきたのはそもそも、狩猟のためですから。猟友会にも所属していますので、家の庭が害獣に荒らされてお困りの際にはご相談ください」

 僕たちは山を下っているようだった。

「女のくせにとあちこちで言われましたが、そんなに変ですか。わたし、危機的状況で生き残りたいだけです。たとえゾンビが発生しても、宇宙人が攻めてきても、戦いもせずに喰われるだけなんて、そんなのは耐えられません。わたしは、映画に出てくる彼女たちのように、強い女でありたい、それだけです」

 何も聞いていないのに、柏木さんは答えた。僕は、いつもクールで表情の変わらない柏木さんの、熱い一面を垣間見られたことが嬉しかった。

「あの、柏木さん。うちの兄と、篤志は」

「おふたりはこの先ですよ」

 追っ手の声が近付いてきた。僕は振り向こうとしたが、柏木さんがそれを諫めた。

「振り返ったところで良いことはありません。今はただ、前だけを見ていてください」

 鎮守の森がもうすぐ終わる。木々の隙間から眼下に道が見えたが、下までの高さはまだかなりある。飛び降りるのには少し勇気が必要だった。

「この先に」

 柏木さんは道の方ではなく森の中を指差した。

「もう少し行くと水汲み場があります。そこでおふたりと合流してください。それから、護身用にこれを」

 柏木さんから渡されたのは小さなナイフだった。

「身の危険を感じたら、情け容赦は必要ありません。涼弥さんが耐えてきた日々を思えば、たいていのことなど軽いものです」

 そう言われて、しかし、柏木さんが猟銃で仕留めた人たちのことを思い出した。

「柏木さんは」

「わたしは少々、手に掛けすぎましたね。ですが、わたしが間違っているのだと言うのならば、彼らだって間違っているはずです。」

 どうしてそこまで、と僕は戸惑ったが、柏木さんはいつも通り涼しげに答えただけだった。

「理由が必要ですか。そんなものは何とでも繕えるのですから、役には立ちませんよ」

 柏木さんは足を止めて、一緒に止まろうとした僕の背を押した。

「涼弥さんは行ってください。ここはわたしが引き受けます。ご縁があればまた他日、どこかでお目にかかれるでしょう」

 そう言うと柏木さんはワンピースの裾を手でつまんで、爽やかにお辞儀をした。すぐに猟銃を構える。その一連の流れるような動きはまるで、芸術とも呼べる、洗練された映画の一場面のようだった。

 僕は森を駆けた。

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