八月十日 土曜日 午前

 僕は目を覚ました。湿っぽい薄暗闇だった。僕は木の板か何かの上に横たえられていた。時間の感覚は無いが、身体が痛いのは長時間同じ体勢で硬い木の板の上で寝ていたからだろう。僕は起き上がった。身体の自由は利いていた。

 身体を起こしてみると、この部屋の光源が片隅に置かれたランタンだと分かった。トルコランプと呼ぶのだろうか、色とりどりのガラスのモザイクに囲われた灯りがこの部屋の唯一の光源だった。僕はそのランタンを持ち上げてしげしげと眺めた。中で炎が揺れていた。ランタンが置かれていた木製のテーブルには水差しとグラスが置かれていた。僕はランタンを持って部屋を歩き回った。

 広さは二十畳くらいありそうだった。僕が寝かされていたのは壁際に置かれた木製のベンチだったらしい。大きめのベンチは布団を敷けばベッドにもなりそうだった。部屋の中にはそれよりも小さなベンチが幾つか無造作に置かれていた。部屋の入口は鉄製の扉だった。重厚な扉を押しても引いてもびくともしなかった。扉には小窓が付いていたが、向こう側からしか開けられないようだった。壁は石造りのようだった。レンガだろうか。壁の天井付近に小さな格子窓があった。どうやらこれが通気口らしい。

 ひとまず僕以外の誰も居ないことが分かった。僕はベンチに座った。服は昨日と同じだ。裸足なのは気になるが、怪我は無い。持ち物、と言っても財布とスマートフォンだけだったが、どちらも持っていなかった。

 篤志は無事に逃げられただろうか。いざという時には凉平君が助けてくれるだろう。

 兄はどこかから出られたのだろうか。篤志と連絡を取り合ってくれていれば良いのだけれど。

 熱は少しあるものの、体調は良いほうだ。空腹もちゃんと感じている。水差しの水を飲む気にはなれなかった。僕はベンチの上で膝を抱えた。さて、これからどうするべきか。答えはひとつ、考えることだ。

 まずここはどこか。恐らくは地下室だろう。僕は凉平君の日記を思い返していた。弐羽醫院の地下、礼拝室のような部屋、それがここなのだろうか。その仮定が一番しっくりくる。あの後、僕はどうにかしてここまで連れてこられた。体調の悪い僕を繋いでおくならば神社よりも病院が適しているだろう。そのうち弐羽先生か誰かが扉の小窓を開けて僕の様子を窺うだろう。

 次に何を考えよう。兄の言動を振り返ることにした。何か引っ掛かることはなかったか。そうだ、ハコが常にひとつしか存在ないという前提だ。僕はてっきり、ハコというのは唯一のものだと思っていた。ひとつのハコが失われて、次のハコが選ばれる。複数存在することは無いと、無意識のうちにそう思い込んでいた。だが、この思い込みは間違いかもしれない。兄は、小学二年生くらいの時に宵祭を経験している。僕が幼稚園の頃だ。僕にはその記憶は無いが、兄の記憶違いというわけでもないだろう。むしろ僕はすべての思い込みを捨てるべきだ。座敷童のことだってそうだった。

 幼稚園に入る前から虚弱だったことから考えて、僕が生まれてから最初の宵祭まで、ハコは少なくとも二個存在していたということになる。篤志は宵祭を十年に一度くらい、と言っていたことを考慮すると、僕がこの町を出てから戻るまでの二十年で、一度は宵祭があってもおかしくはない。もし僕の不在中に宵祭があったのならば、やはり僕以外にもハコが存在していたことになる。あるいは今も僕以外のハコはどこかに存在しているのかもしれない。しかし、仮にハコが他にもあったとして、それは認知されていないかもしれないと僕は考えた。根拠は弐羽先生の言動だ。僕が帰ってきたことをあんなにも喜んだのだ。もし、僕以外のハコが存在して、それが手の届くところにあるとしたら、弐羽先生はあれほど喜んだだろうか。

 あるいは、と僕は目を閉じた。

 僕のほうが、イレギュラーな存在なのではないか。

 凉平君の日記にあった、人工的にハコを生み出すという言葉。たとえば、僕の存在が、正統なハコの発生から外れたものだったとしたら。弐羽先生は僕の帰郷を、つまり人工的なハコの成功を喜んだはずだ。

 僕が作為的なハコだとすれば。兄は僕がどうしてハコなのか、その始まりを知っていると言った。兄が手にした真相を分かち合っていないことが、今はあまりにも歯痒い。

 扉の向こう側から足音が近付いてきた。僕は扉のほうに目を遣って耳を澄ませた。足音はひとつではなかった。ガタガタと鍵を開ける大層な音に続いて、重々しく扉が開かれた。

「やあ、具合はどうかな」

 弐羽先生が入ってきた。その後ろには弐羽醫院の看護師のひとりである中年女性が居た。僕は弐羽先生に返事をする気も起きなかった。弐羽先生と看護師も僕の感情など関係なしに僕の脈や熱を確かめた。弐羽先生は楽しそうだったが看護師のほうは事務的だった。

 僕はここに現れたのが柏木さんでなくて良かったと安堵していた。それは救いだった。柏木さんのことは信用しているし、信頼もしている。だから柏木さんが僕の味方でなくたって、少なくとも弐羽先生の仲間でないのであれば、それはとても嬉しい。

「今日はいよいよ宵祭だ。気分はどう、興奮しないかい?」

 弐羽先生はその言葉通り、興奮しているらしかった。僕は看護師がほくそ笑むのを見逃さなかった。やはり、このひともまた、信仰側のようだ。抵抗するだけ無駄だと思った。たとえ僕が篤志のように健康な肉体を持っていたとしても、この局面はどうにもならない。僕は悟っていた。

「そろそろ朝食にしようか、そうは言っても時間の感覚など、とっくに失っているかな。まあ、構わないけれど。ああ、正午なんてすぐだよ」

 そのあとも弐羽先生はべらべらとひとりで喋っていた。僕の様子をひとしきり確かめて、朝食のサンドイッチと桃がベンチに置かれた。ふたりは出て行った。扉が閉まる。僕はまたひとりになった。

 僕はサンドイッチに手を付けず、桃を食べた。何か食べなければ気分が悪くなると思ったからだ。桃なら食べられそうだった。薄暗い部屋に僕の呼吸と咀嚼だけが響いた。

 正午、と弐羽先生は言った。どうやら宵祭の準備は正午から行われるらしい。今は朝食の時間、たとえば朝の七時だとして、正午まで五時間。僕はここでひとりだ。あまりにも無力だった。

 兄は、篤志は、無事だろうか。それを確かめる手立てさえ無い。これが最期だとすれば、呆気ないものだ。だが、終わりはいつだって見えていた。他の誰よりも色濃く、僕の周りに付きまとっていた。今日という日まで生き延びられたのは、僕を生かしてくれた祝福のおかげだ。

 虚無感と同時に、僕は充足感を味わっていた。この夏が、僕の人生のクライマックスだろう。たとえまだ生きられたとしても、こんな日々はもう二度と巡らない。そうであるとすればここで幕を引くのが一番良いとさえ思えた。

 僕は終焉を思い浮かべた。祈りと似た呪いが僕を絞め殺す。器が壊れる。遠い夏の日。だけど僕はそう簡単に僕自身を渡すつもりなどない。諦めてなどいない。

 たとえハコが僕を殺そうとも、僕を自由に出来るのは僕自身だけだ。

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