八月九日 金曜日

 明くる朝、篤志は僕よりも先に起きていて、庭のテントを畳んでいた。

「おはよう、篤志」

「おはよ」

「あれ、兄ちゃんは?」

「颯佑くんなら近所を見て回ってくるって」

 自転車が無かった。兄は自転車に乗って出掛けたのだろう。朝早くから、一体どこへ。

 手伝えることはあるかと篤志に尋ねたが、朝食を食べてからにしろと言われた。僕は縁側で果物を食べながら篤志を眺めていた。朝八時の日差し。まだ気温は上がりきってはいないとはいえ熱を帯びた風が吹く。暑かろう。今日も真夏日になるだろう。

 スマートフォンが鳴った。兄からメッセージの代わりに画像が送られてきた。小学校と自転車が写っていた。兄は僕よりもこの町で過ごした時間が長い分、思い出の場所も多いはずだ。

 テントを片付けて汗だくになった篤志はまたホースを持ってきた。僕は篤志に水を掛けた。はしゃぐ姿はやはり大型犬のようだった。

 それから僕たちは洗濯物を洗って干したり、ついでに布団も干したり、庭の草木に水をあげたり、あるいは昼食の準備をしたり、ありきたりな時間を過ごした。時折、兄から画像が送られてくる。錆びた看板、大きな銀杏の木、カブトムシ、飛行機雲。あのふたりの少女に囲まれている写真もあった。きっと彼女たちは兄の姿を見て僕に似ていると思い声を掛けたのだろう。人懐こい子たちだ。写真の中の兄は笑っていた。

 昼になっても兄が帰ってくる様子はなかったので、僕は篤志とふたりで素麺を食べた。飾り切りに挑戦した不格好な人参と胡瓜。どちらのほうが不器用かと僕たちは笑い合った。

 畳に寝転がって昼寝をする。怠惰な午後は背徳的なほど心地好い。蝉時雨と風鈴、扇風機。僕たちは横になって堕落していた。夏休みの小学生のほうがずっと活動的だろう。悪い大人だ。晴れた空の青、鮮やかな山の緑、その端から覗く雲の白。夏のコントラストが広がっている。泣きたくなるほど鮮やかで、切なくなるほど遠い。

「篤志は」

 僕は隣で寝転ぶ篤志のつむじに声を掛けた。

「僕がハコだと知った時、どう思った?」

 我ながら狡い質問だと思う。曖昧でいて、けれど、悪い答えを認めないような、酷い質問だった。篤志は動かない。

「それはオレの信仰心を聞きたいのか」

 篤志の声が低く聞こえた。僕は質問を後悔した。もっと良い言い方があっただろう。けれど、質問したことは後悔していない。

「だって篤志はこの町の人間じゃないか」

「それを言うならリョウちゃんだって、生まれはこの町だろう」

 苛立った声が返ってきた。篤志のジレンマは察するに余りある。あるいは単に僕の自惚れに過ぎないかもしれない。だけど僕はハッキリさせておきたかった。今日のうちに、今のうちに。

「ハコは木箱みたいなものだと思っていたよ」

 振り向かずに篤志が答える。

「それが人間だと知っていたら、祭りなんか行かなかった」

 篤志は寝返りを打って僕に向き直った。

「そう答えたらリョウちゃんは満足か?」

 そう言って歪められた顔には苦しさや悔しさとともに怒りが滲んでいた。篤志は真っ直ぐに僕を見据えた。

「うん、満足した」

 僕は目を閉じた。

「ありがとう」

 その時、篤志がどんな表情をしていたか、僕は知る由も無い。怒っていたかもしれない、悲しんでいたかもしれない。けれど僕はそれを知りたくなかった。僕は僕自身の望む答えだけを抱いておきたかった。

 僕がそれ以上何も言わないので、篤志も黙ったままだった。息苦しい沈黙だった。だがこの苦々しさは僕が自ら招いたものだ。甘んじて受け入れるしかない。これくらいの代償、痛くなどない。

 ああ、明日は、祝祭だ。


 昼寝にも飽きた篤志は雑巾を持って廊下を駆けていた。僕は原稿に向かっていた。僕たちの間に会話は無かった。何を話せば良いのか分からなかった。僕はさっきの質問を謝るべきだっただろうけれど、蒸し返したくはなかった。

 兄は四時を過ぎても帰らなかった。どこまで行ったのだろうか。僕は兄に電話を掛けたが、応答したのは機械音で、電源が入っていないか電波が届かないところにいると無機質に告げられただけだった。

「篤志」

 僕は廊下で雑巾を絞る篤志に声を掛けた。篤志はバケツから顔を上げて僕を見る。

「兄ちゃんはどこまで行くって言っていた?」

 篤志は腕で汗を拭いながら答える。

「ちょっとその辺を見て回ってくるって」

「夕飯までには帰るとか、何か言って出掛けなかった?」

「いや、何も」

 僕の質問の意図が伝わったのだろう。篤志は険しい顔をした。僕はスマートフォンを確認した。兄から最後に届いた画像はどこだ。今から一時間前、どこかの生け垣、鮮やかなノウゼンカズラ。その前は、一時間半前、奥郷の駅前。朝八時に家を出て今まで、八時間。兄は本当にずっと近所を探索しているのだろうか。とてもじゃないがそうだとは思えなかった。兄が遠くへ行っているという嫌な予感があった。

 僕は家を飛び出した。すぐに篤志が追い付いて僕の首根っこを掴んで車の助手席に放り入れた。運転席に乗り込んだ篤志が車のエンジンを掛ける。

「最後の連絡は?」

「場所が分かるのは一時間半前、奥郷の駅前から」

「駅前? まだそこに居るとは思えねぇけど」

 行ってみるしかないと、篤志はアクセルを踏んだ。道中、僕はマヤさんに電話を掛けた。

「マヤさん」

『どうした先生、何かあったか』

「僕がこっちに来てから、兄の様子は普段と変わりなかったですか」

 挨拶もせずに僕は尋ねた。マヤさんは僅かに唸ってから答えた。

『ハコのことを伝えたとき、酷く動揺していたよ。とても思い詰めていた。結末を急ぐなとは言ったけれど、そんな言葉がどれほど届いたことか』

 マヤさんの言葉に、僕はやはり兄がこの町に来た目的が、僕に会いに来ただけではないと確信を持った。

 奥郷の駅前まで来た。僕は先に車を降りて兄の姿を探した。電車の時間ではない駅前はいつも以上に閑散としている。居ない、居ない。自転車も無い。

「リョウちゃん」

 駐車場に車を入れた篤志と合流した。

「見つからない」

「ちょっと写真見せて」

 篤志に言われて僕は兄からのメッセージを篤志に見せた。

「……リョウちゃん、これ」

 不思議そうに篤志が僕にスマートフォンを返す。駅前の写真だ。

「時間が違う、これ、午前中に撮った写真だ」

 僕は写真を見た。何を根拠にそう言ったのか、僕は篤志を見た。

「影の向きが違う、ほら」

 篤志の言うとおり、今の時間帯と兄の写真では明らかに光が射し込む方向が異なっていた。光源の方角が違う。時間が違う。兄はあらかじめ撮っておいた写真を少しずつ僕に送ってきていただけだった。僕は愕然とした。

「兄ちゃんは」

「麓へ向かったんだろう。自転車でどこまで行けるか分からねぇけど、とにかく追いかけるぞ」

 僕と篤志は車に乗り込んで上郷を目指した。

「歩きならまだしも自転車でさほど土地勘も無いんなら、表通りを行くはずだ。一本道だから追いつける」

 篤志は山道を走らせた。ヒグラシの声が降り注いでいた。鬱蒼とした林道を抜け、上郷に出る。ここまで兄の姿は見当たらない。

「まだ進むか、それとも上郷を探すか?」

 車を徐行させながら篤志が問う。

「進んで」

 僕の言葉通り、中郷へ向けて車を走らせてくれた。遊び終えて家に帰る子供たちとすれ違った。

 薄暗く翳り始めた景色の中に中郷の山肌が見えてきた。露出した岩が夕焼けの最後の光を受けて濃い影が出来ていた。なんとなく淋しい気分になった。兄とはまだ連絡が付かずにいた。

「電波が届かない場所に居るとしたら、道から外れたのかも」

 信号待ちで篤志が言った。確かに、電源を切っていないのであれば、兄は森の中へ入ったのかもしれないが、そうだとしても自転車のままとは考えにくい。置き去りにされた自転車が道沿いのどこかにあるはずだった。

「だが山の中に入ったところで何もねぇぞ?」

 篤志の言う通り、山の中には何も無い。兄が明確な意志を持って行方を眩ませているのであれば、そして自ら山に入ったのであれば、僕たちの知らない何かがこの深い森のどこかにあるということだ。兄を疑いたくは無かったが、ただ僕に会いに来ただけだとは思えなかった。それだけだと信じられる根拠が見当たらない。

「ひとまず、下郷へ向かうけど」

 信号が青になる。車はゆっくりと動き出した。

「自転車で下郷まで辿り着けるかどうか」

「下郷まで行って、それで見つからなければ、一度家に戻ろう」

 僕は少しずつ離れていく岩肌を横目で見送った。

「小学生ならを好奇心のままに森へ入って戻れなくなることもあるかもしれないけれど、兄ちゃんは大人だ。自分の意志でどこかに出掛けたんだ。遅くまで帰らなければ探されることなんて重々承知だろうし、無計画で出て行くほど行き当たりばったりな性格じゃないよ」

 このまま兄が戻ってこないような気がした。兄の目的を疑いながらも、兄を止めなければならないと思いながらも、けれど、それが本当に兄のためになるのか僕は自信を持てずにいた。すべて分かった上で居なくなるほど強い思いを抱いてこの町へ戻ってきたのだ。兄を止めて良いものか、僕にはもう分からなかった。

 徐々に夜が迫る。黄昏の中、僕たちは下郷へ向かった。


 朱色の鳥居が見えてきた頃には日が落ちて、車のライトだけが頼りだった。対向車も後続車もほとんど通らない。時折、コウモリのような小さなものが羽ばたいた。

「あ」

 ハイビームになったライトが少し先にある何かを照らした。声を漏らしたのは篤志だ。僕は黙ってそれを見詰めた。黒い人影。左右にゆらゆら揺れながら、脚をずるずると引き摺るように歩いている。様子がおかしいのは明らかだった。

「またかよ。戻っても……?」

 篤志がスピードを落とす。人影がどちらを向いているのかよく分からない。あれは僕が吐いた黒い生き物の仲間だろうか。僕は目を凝らした。

「待って」

 僕は心臓がギュッと痛むのを感じた。それが何か、いや、それが誰なのか分かってしまった。

「……兄ちゃん」

 車から飛び出そうとした僕を篤志が止めた。篤志の逞しい腕が僕を抑える。

「あれは本当に颯佑くんか?」

「兄ちゃんだよ、間違えるはずがない」

「颯佑くんのように見える何かとかじゃ」

「違う」

「だけどどう見たってオレの知っている颯佑くんと違ぇよ! 颯佑くんはあんな影みたいな姿かたちじゃねぇだろ!」

「でも」

「分かる、分かるって。リョウちゃんの言いたいことは分かる。それでも、親しい人の形を真似るってのは常套手段だ」

 僕は人影を見た。それがこっちを向いてニタッと笑ったのが分かった。人影が溶けた。溶けるように形を変えた。兄だったその姿は、異常なまでに伸びた四肢でアスファルトに立った。四本脚のナナフシのような不自然さだった。もはや何とも呼べない怪物が、それでもかの輪郭は兄のまま、僕たちをせせら笑っていた。

「リョウちゃん」

「ま、待って」

「待てない! 引き返す!」

「兄ちゃんは、兄ちゃんはどこへ行ったの」

「そんなもん分かるかよ! でもどう考えたって、あれじゃねぇよ!」

 篤志はバックで車を発進させた。すぐそばにあった待避所でうまく車の向きを変えて、そのままアクセルを踏む。篤志は前を、僕が後ろを見る。置いてきた影はボコボコと内側から膨らんだかと思えば、ものすごい勢いで僕たちを追いかけてきた。

「来た!」

「しっかり掴まれ」

 僕は振り返りながら助手席にしがみついていた。

「篤志、あいつのほうが速い」

 影の脚は速い。いつのまにか手脚が無造作に増えて、ムカデよりももっと得体の知れない形になっていた。篤志はスピードを上げる。木々があっという間に通り過ぎる。

「このまま中郷まで突っ切る」

 篤志はそう言ったが、僕は、それは出来ないと思った。そのとき僕はなぜだか、こいつからは逃げられないと感じていた。その嫌な予感を振り切るように僕は前を向き直った。僕は兄に電話を掛けた。

 コール音。一秒、二秒、三秒。

『涼弥!』

 兄が出た。兄の声には焦燥感があった。

「兄ちゃん、今どこ! どこに居るの」

 僕も慌てて尋ねる。

『わか、分からない、けどもう、すぐ出る』

 兄は走っているらしかった。息切れが伝わってくる。ガサガサと草を掻き分けるような音も聞こえた。やはりこの山々のどこかに入っていたのだろうか。出るとは、どこからどこへ。聞きたいことは幾らでもあった。

『涼弥、家か』

「ううん、今は篤志の車で下郷から中郷へ向かっているところ」

『家じゃないのか』

「兄ちゃんが帰ってこないから! 探していたんだよ!」

 僕はサイドミラーに目を遣った。大きさを増した影がすぐそこまで追い付いていた。捕まると思ったし、捕まりたくないと思った。

「篤志」

 視線を篤志に向ける。篤志は前を見ていた。噛み締めた唇から血が流れていた。

「もう逃げられない」

 僕は静かに言った。篤志はチラリと僕を見た。泣きそうな顔をしていた。

「直線で急ブレーキを掛けて。それであいつを追突させて。そうすれば」

 篤志は何も言わなかった。カーブを二つ、それから直線の下り坂。篤志はアクセルとブレーキを同時に踏んだ。僕たちは衝撃に備えた。

 タイヤの音、衝突音、弾かれた車が回る。なぜだかエアバックは作動しなかったのは、影に質量が無いからかもしれない。僕たちは何ともぶつかっていないのだ。いずれにしても、スピンした車が止まって、ライトの先に横たわる影が見えた。痙攣している。効果はあったらしい。篤志はハンドルを握り締めた手に額を付けて、肩で息をしていた。

 僕は車を降りた。

 息も絶え絶えになった影に近付く。

 直線で急ブレーキを掛けて。それであいつを追突させて。そうすれば。

 そうすれば、篤志だけでも逃げられるから。

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