八月八日 木曜日 午後

 兄と篤志はすぐに打ち解けた。もともと社交的な性格のふたりだ。車窓を過ぎる景色に見覚えがあるとか無いとか、変わらないとか変わったとか、そんなことを繰り返しながらふたりはずっと話をしていた。僕は助手席を兄に譲り、後部座席で広々と座っていた。車が揺れるたびにトランクのキャンプセットがガチャガチャと音を立てた。

 駅の近くの定食屋で昼食にした。兄は唐揚げ定食、篤志はカツ丼を頼んだ。ざる蕎麦を頼んだ僕は食べきれず、半分以上を篤志に手伝ってもらった。食事中もふたりは楽しそうに話を弾ませていた。僕は天井近くに取り付けられたテレビで高校野球を眺めていた。

 それからまた篤志の車に揺られた。兄は篤志の選曲に興味を持ったらしく、知らない曲が流れるたびにスマートフォンで検索していた。

「あれが神社か」

 鳥居が見えてきた頃、兄が尋ねた。

「そう、明後日が宵祭」

「久しぶりだな」

 ドアにもたれかかっていた僕は身体を起こした。

「兄ちゃん、来たことあるの」

「あるよ、涼弥もあるだろう、留守番だったか?」

「いつ」

「俺が小学二年生のとき、じいちゃんと一緒に」

「計算が合わない」

 僕の訝しげな声に兄は振り返った。

「何の」

「それだとハコが同時に複数存在することになる」

 口が滑ったと僕は思った。けれど、兄は前を向き直って言った。

「ハコが常にひとつしか存在しないという前提がそもそも間違っているんじゃないのか」

「……兄ちゃん、ハコのことを知っているの」

「摩耶さんから聞いたし、俺も色々と調べた。それで始まりが分かった」

「始まり?」

「涼弥がどうしてハコなのか」

 兄の声は冷えていた。冷え切った声だったが、僕を突き放す声ではなかった。僕は詳しい話を聞こうと口を開きかけたが、僕が言葉を発するよりも先に篤志の声が飛んできた。

「悪い止まる!」

 篤志が急ブレーキを掛けた。兄も僕もシートベルトを締めていたので身体が大きくつんのめっただけで怪我は無かったが、大きく揺れたトランクで段ボールが転げた。

「何」

 状況を飲み込めない僕は篤志に尋ねる。兄はじっと前を見詰めていた。

「何だ、あれ?」

 フロントガラスの向こう、道の真ん中に何かが居る。黒い何かに僕は目を凝らした。五秒ほど見詰めているうちに、それに見覚えがあるように思えた。

「……柏木さん?」

 僕の答えに、篤志は僕と前を見比べた。

「え、嘘だ、うわ、柏木さんだ」

 道の真ん中で何をやっているんだ、と篤志が窓を開けた。

「柏木さん!」

 名前を呼ばれた柏木さんはゆっくりと立ち上がった。黒いレースの日傘。黒いワンピース。墓参りか、と兄が呟いた。僕は兄に柏木さんが病院の看護師であることを手短に説明した。

「あら、どうも」

 柏木さんは軽く会釈をした。立ち上がったことで分かる。柏木さんの足下に何かが横たわっていた。柏木さんは僕たちのほうに歩いてきた。日傘を差していないほうの手には液体の入ったポリタンクを持っていた。

「あれ、何でしょう?」

 運転席側の窓の外で柏木さんが尋ねる。僕たち三人は前方に横たわる何かをじっと見た。それは蠢いていた。

「あれって……もしかして」

 篤志が気味悪そうに言った。僕にも心当たりがあった。

「僕が吐き出したあの黒いのと同じだ」

「同じじゃねぇだろ、リョウちゃんが吐いたのはもっと小さかった」

 確かに篤志の言う通りだ。僕たちの記憶よりもずっと大きい。柴犬よりももっと大きい。仔牛くらいあるのではないだろうか。そんな得体の知れないものの傍に柏木さんは立っていたのかと思えば、その度胸にはいっそ呆れる。

 とにかくそれは僕が吐き出したあの黒い生き物が成長したような姿をしていた。兄と柏木さんは僕たちがそれを知っていることに驚いているようだったが、今は説明している場合ではない。あれが僕たちの知っているものと同じであれば、そろそろだ。

 そろそろ飛び掛かってくる。

「柏木さん、乗って!」

 僕は後部座席のドアを開けた。柏木さんが素早く乗り込む。それが姿勢を低くしているのが分かった。篤志がギアを変えた。

「しっかり掴まれ!」

 篤志が身体を目一杯に捩じり、アクセルを踏み込む。車が山道を猛スピードでバックする。けれど、それもまた猛スピードで僕たちを追いかけてきた。

「埒が明かない。篤志、突っ込め!」

 兄が言った。篤志は嫌そうな顔をした。怖がっているときの瞳だ。

「突っ込むって、あれに?」

「どちらにしても後ろから車が来たらアウトだ、前にしか道は無い」

 兄の言葉はもっともに聞こえた。今は幸運にも後続車が来ていない。篤志の運転技術がどれほど優れているといっても、見通しの悪い山道のバックで車が来てしまえばどうすることも出来ない。

「私がカウントしますので、そのタイミングでどうぞ」

 柏木さんが落ち着いた声で進言した。

「三」

「え、待って待って」

「二」

「前と後ろのどっちを見れば」

「お前は後ろだけ見ていろ」

「一」

「あー、もう!」

「今です、進んで!」

 パニックになりながらも篤志はギアをドライブに切り替えた。踏み込まれたアクセルにエンジンが唸る。

 篤志の叫び声は言葉になっていなかった。こんな状況でも柏木さんは愉快そうだったし、兄はただじっと前を見据えていた。

 ドンとも何とも無く、篤志の車はそれを轢いた。轢いたのか弾き飛ばしたのか定かではないけれど、確かに衝突したはずだった。だが衝撃は無い。その代わりにフロントガラス一面に墨汁のような黒い液体が広がる。篤志はほとんど泣きそうだった。ワイパーを動かして視界が開ける。

 僕と柏木さんはすかさず背後を振り返った。黒い水溜りが道に残っていた。

「まだ来るぞ」

 兄が低い声でそう言った。雑木林が不自然に大きく揺れる。黒い影が木立の間を縫う。木漏れ日が乱れる。

「嫌だ、もう嫌だぁ」

 泣きべそをかきながらも篤志はハンドルを切った。次々と襲い掛かってくる黒い影を避け、轢き、撥ね飛ばして、車は山道を駆ける。後続車も対向車も無かった。篤志の腕だけが頼りだった。

「ところで柏木さんはあんなところで何を」

 僕は柏木さんに尋ねた。柏木さんは淡々とした口調で答える。

「湧き水を汲んだ帰りでした」

 急カーブに耐え切れず柏木さんの身体が傾いて僕を押す。柏木さんが汲んだ水がチャプチャプと弾んだ。

「木曜日は本来、弐羽醫院も休診日でして」

 反対側へのカーブで今度は僕が柏木さんを押す。シートベルトを締めていても後部座席は滅茶苦茶だった。トランクはもっと悲惨なことになっているだろう。

「あそこからもう少し下ったところに森の中へ続く小道があるのですが、そこに町営の水汲み場があるのです、天然水の。春には山菜が採れます、今の季節は蝉時雨、秋には紅葉が」

「アンタ、いい加減、舌を噛むぞ」

 兄が口を挟むと柏木さんは喋り過ぎましたねと口を閉じた。

 そうして篤志の頑張りによって車は中郷に入った。影はもう追ってこなかった。

「一回、止まっても良い?」

 ヘロヘロになった篤志の望みを誰も拒まなかった。篤志は車を空き地に駐車した。僕は外に出た。足元でバッタが何匹もピョンピョンと飛び跳ねて草むらに消えた。紺色だから目立たないけれど、車のボディには黒い液体が飛び散っていた。手で触れるのは躊躇われた。洗えば落ちるだろうか。

「篤志、トランクを開けてくれ」

 兄も車から降りてきた。トランクを開けて、ひっくり返った荷物を積み直す。僕は篤志を労うことにした。篤志はハンドルに突っ伏すようにして疲弊していた。

「お疲れ様」

「べちゃって、べちゃあってなった」

 小さいものなら素手で触っていたくせに、と思ったけれどそれは口にはしない。普段は気にせず触っているものが突如として巨大になったら、僕だって触るのを拒むだろう。たとえば足元を飛んだバッタも、あの大きさでなければきっと捕まえたくはない。

「篤志のおかげで助かったんだよ、ありがとう」

「オレ、大丈夫? 免停になったりしない?」

 狼狽える篤志の肩を叩いて、僕は後部座席の柏木さんを見遣った。柏木さんは涼しい顔をしていた。

「柏木さん、大丈夫ですか」

「大丈夫に見えますか」

 僕を見て柏木さんはゆっくりと瞬きをした。

「実に良かったです、ハリウッド映画のようで大変興奮しました。今夜は良い夢が見られそうです。この高揚感をどう表現すれば余すこと無くお伝え出来るのでしょう」

 柏木さんはいつも通りだった。変わらない態度が今は安心できる。

「ところで」

 不意に柏木さんはシートベルトを外して車から降りた。車の後ろに回って兄の傍に立つ。

「自己紹介がまだでしたね。申し遅れました、私、弐羽醫院の柏木と申します。どうぞお気軽にカッシーとお呼びください」

「え、カッシー?」

 無表情のまま言われた言葉に、流石の兄も戸惑いを隠しきれずにいた。

「俺は黒岡颯佑です、弟が世話になっているそうで」

「それはどうでしょう、救われているのは私のほうかもしれません」

 柏木さんがそう言ったので、兄はその言葉の真意を尋ねようとしたが、そんな隙を与えずに柏木さんは車の中に戻ってしまった。

「さて、私はこれからどうしましょうか。成り行きとはいえ怪物から逃げた仲間として、あれらが何であったか、バーベキューをしながら教えていただいても?」

 そういうわけで僕たちは柏木さんも乗せたまま僕の家へ向かうことになった。少し休憩した篤志はいくらか元気を取り戻した。白黒映画の名曲が流れる道を走って帰った。山は森も風も穏やかで、空も変わらず青い夏空だった。


 家に着いたのは夕方で、夏の太陽はまだ高く強かったが、それでもそれが夕方の陽射しだと分かった。兄と柏木さんが庭でバーベキューの準備をしている間、僕はみんなの分の麦茶を入れて、篤志は車を洗っていた。僕は兄と柏木さんのグラスを縁側に置いてから篤志の元へ向かった。ホースの水に虹が架かっていた。

「篤志、どう」

 僕が声を掛けると篤志は首を傾げて答えた。

「一応、水で落ちたけど」

 けど、というその言葉のあとは続かなかった。僕は篤志の車をぐるっと一周見て回った。あの怪物たちがぶつかった痕跡は無い。傷もへこみも残っていない。

「僕があれを吐き出したとき、あれに襲い掛かられていたらどうなっていたんだろう」

 僕の呟きに篤志は嫌そうな顔をした。

「怖すぎんだろ」

「だけど液体だ」

「そうだとしたって水じゃねぇんだから。有害かもよ?」

「素手で触ったくせに。足で踏ん付けたし」

 篤志は身震いした。

「でも篤志は大丈夫だよ」

「根拠は?」

「んー……守護霊が強そう……?」

 凉平君のことを伝えられずに僕は曖昧な表現をした。なんだそれ、と篤志は呆れたように笑ってホースの水を止めに水栓まで駆けていった。僕は傍に置いてあった布で車を拭いた。篤志の車は綺麗な色だった。青の深さは篤志の情の深さと似ていた。

 戻ってきた篤志は慌てて僕を担ぎ上げて縁側に連れ戻った。縁側に座らされた僕の顔に篤志は躊躇もなく着ていたシャツを脱いで押し付けた。僕が訳も分からず、けれど顔面のシャツをどうすることも出来ないままジッとしている後ろで、バタバタと篤志は忙しなく動き回り、すぐに戻ってきた。今度はティッシュを持っていた。僕の手からシャツを取って、代わりにティッシュが渡された。篤志に返したシャツには僕の鼻血が付いていた。

「柏木さん、リョウちゃん、鼻血出した!」

 上半身が裸になった篤志は兄と一緒にテントを組み立てている柏木さんに声を掛けた。

「診療時間外です」

 そう言いながらも柏木さんがやって来た。ひとり残されてテントに苦労している兄の姿が見えた。

「張り切りすぎましたか、それとも浮かれすぎましたか。いずれにしても、のぼせたようですね。水分を摂取して暫く涼んでいてください」

 柏木さんはテントへ戻っていった。鼻血の付いたシャツを洗濯機に放り込んできた篤志も合流して三人で組み立てるとすぐにテントは完成した。柏木さんの言った通り、僕は浮かれているのだろう。庭先のキャンプ場にはしゃいでいた。まだ準備の段階で、僕はたいした手伝いも出来ていないというのに、それでもなおこの光景は瞼の裏に焼き付いて離れないだろうと思った。きっと走馬燈の一場面として登場するに違いない。

 完成したキャンプ場を縁側に座って四人で眺めた。

「様になったな」

 篤志が満足そうに笑う。裸のままの上半身が引き締まっているので健康さが一層強調されている。団扇を片手に柏木さんもご満悦だ。ただひとり兄だけは、どこか遠くを見ていた。その横顔が何を見詰めているのか分からない。庭にはもう座敷童の姿も黒い箱も無い。兄の瞳の奥に何が映っているのか僕には知る術が無かった。

「それで」

 和やかな時間を終わらせたのは柏木さんだった。

「あの黒いものが何だったのか、そろそろ教えていただけますか」

 空気が一瞬だけピリッと張り詰めたのを感じた。視線が僕に集まる。

「僕自身もあれが何だったのか……」

 そう前置きをして僕はあの黒い物体について話した。僕が吐き出したこと、篤志が潰して消えたこと。兄と柏木さんは終始表情ひとつ変えなかった。篤志は居心地が悪そうに足の裏を自分のふくらはぎで擦っていた。

「それを吐き出した後、特別気分が悪くなったり、体調が悪くなったりはしなかったのですね?」

 僕は曖昧に頷いた。吐いた後も僕は存外に元気だった。

「ある種のデトックスでしょうか」

 良く言えば、と柏木さんは付け加えた。僕の頭の中にはハーブや果実の入ったお洒落な水が思い浮かんだ。

「涼弥さんという器に溜められている禍々しいものが出されたのでは」

「どうして」

「この仮説でまず、涼弥さんのハコとしての器の大きさが決まっているとしましょう。様々な呪いが器の中に溜まります。恐らく呪いというものは個数ではなく、濃度ではないかと思うのですが、その仮説はさておきまして、たとえば器の八割が呪い、一割が祝いで、残りの一割は余白だとしましょう。そこに新しく残りの一割では収まりきらない量の祝福が込められ、器から溢れた分の呪いが黒い塊と化して吐き出された。これはそういう仮説です」

 なるほど、と言いながら篤志は首を捻った。僕もいまいち腑に落ちない。

「だが、それだと俺たちが出会ったあの大きな黒い塊の説明が付かない。涼弥が吐いた分を篤志がすべて退治したならば、何匹も襲い掛かってきたあれらは一体何なんだ」

 兄が僕の疑問を言葉にしてくれた。柏木さんは足を組んだ。

「器に入りきっていない呪いではないかとわたしは推測しています。先日、本祭があったでしょう。そして宵祭は明後日。今の時期はハコに掛かる呪いの負荷が最も大きい期間ではないかと思うのです。本祭で満杯に願われた祈り、つまり本来ならばすべて涼弥さんに収まるはずだった万感の呪いが、入るべき器が満たされていることで行き場を失っているのではないか、と」

「柏木さんの仮説が正しいとしたら」

 僕は思考がスッと冷めるのを感じた。

「僕のところへ他にも来るってこと?」

「ええ、そうなりますね」

 柏木さんは薄らと笑った。僕は深い息を吐いた。篤志は渋い顔をしていた。兄は。

「向こうから来てくれるなら話は早いな」

 兄はそう言って歪んだ笑みを浮かべた。背筋が凍った。兄でいて兄ではないような誰かが、そこに座っていた。篤志の中の凉平君とは違い、僕はこのひとが確実に間違いなく自分の兄であると分かっている。分かっているからこそ、目の前の兄が僕の知らない顔を持っていることを心が拒んでいた。

 黒岡颯佑は、こんなふうに笑うひとであっただろうか。

 六時過ぎにバーベキューを始めた。兄と篤志が懸命に火を付けようとしているのを僕と柏木さんは遠巻きに眺めていた。

「わたし、思うのですが」

 柏木さんは抑揚の無い声で言った。

「篤志さんが信仰側の人間だと考えたことはありませんか」

「篤志がスパイという可能性?」

「ええ、親切なふりをして、あなたをここから逃さないようにしようという鎖の役割を担っている、そんなことを考えたことはありませんか」

「それは……」

 僕は篤志を見遣った。団扇で炭を扇いで火を大きくしようと頑張っている。

「ありますよ。篤志にもハコの信仰があるんじゃないかって、考えたことはあります。信じていたものと実際のものが同じかどうか分からないけれど」

 火の粉が舞った。兄が網を乗せた。

「たとえこの友情が偽りで、この時間がすべて、ただの友情ごっこに過ぎないとしても、僕は最期にそれを手に入れられて良かったと思えるんです」

「それは果たして本当に良いことでしょうか」

「まやかしの幸福にさえ縋り付きたくなる。そんな人生を送ってきたのです」

 僕の言葉に柏木さんは横目で僕を見ただけだった。篤志はトングで肉を掴んで網の上に並べていく。肉が焼けるのを待つ間にはトングをカチカチと鳴らしていた。兄が野菜を並べていく。僕は焼き肉のタレを小皿に注ぎ、柏木さんはグラスに飲み物を注いだ。うっかりを装って柏木さんは篤志のグラスにアルコールを注いだ。僕はバーベキューを堪能した。相変わらず途中で具合が悪くなって縁側に座ってばかりいたが、僕にはこの時間が特別に思えた。

 偽物かもしれない。篤志の友情も、柏木さんの助けも。僕はこの町という大きな箱の中で、用意されたシナリオ通りの日々を送っているだけかもしれない。だけど、この時間は僕が都会で得ることの無かったシナリオだ。まがい物の平穏だとしても、それでも僕はこんな日々に焦がれ続けてきたのだ。篤志がもたらしてくれる時間は、僕が欲しくて仕方の無かった時間だ。

 この時間を最良の日々とは呼べないのだろうか。

 柏木さんは食後、アイスを食べながら帰って行った。駅まで送ると言いたいところだったが、肝心の篤志は柏木さんの策略で飲酒し、兄はペーパードライバー、僕は免許を持っていない。

「こんな時のための人脈ですよ。では、ごめんあそばせ」

 珍しく高笑いしながら柏木さんは黄昏の道を戻っていった。せっかく汲んだ湧き水のタンクを置いて帰ったのは故意だろう。僕は台所に食器を運び、兄がそれを洗い、篤志が庭先で網を洗った。兄は調子外れの口笛を吹いていた。その姿は普段と変わらない兄に見えた。

 それから三人でテントに入った。成人男性が三人寝転ぶと流石に狭かった。僕たちは暫くの間テントを楽しんだ。幼い頃の話をした。兄はこの町で過ごした日々を僕よりも明確に記憶していた。兄の記憶は篤志の記憶も思い起こさせ、ふたりであんなことがあった、こんな店があったと笑い合っていた。僕はその様子をにこやかに眺めていた。

 やがて兄の言葉が少なくなった。長い瞬きを繰り返す。

「兄ちゃん、長旅で疲れたでしょ」

「疲れた。風呂は明日の朝に入るから、今日はもう先に寝ても良いか?」

 僕と篤志は兄にテントを譲った。僕と篤志も順番にシャワーを浴びて布団に入った。

「篤志」

「んー?」

 虫の声が響く。篤志は眠そうな声で答えた。

「兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとう」

「別に気を遣ったりしてねぇんだけど」

「いいんだよ、僕がお礼を言いたかっただけだから」

 僕は目を瞑った。風鈴が揺れた。少し明るい闇の中に篤志の寝息が聞こえてきた。僕は身体を起こした。

 ひとつ試したいことがあった。これを試すのは少し気が引けたが、ほかに手立てが思い付かなかった。僕は隣で眠る篤志を見遣った。

「凉平君」

 僕は凉平君を呼んだ。三秒程で篤志が目を開けた。凉平君だった。

「どうした」

「凉平君から見て、僕の兄ちゃんは、本当に兄ちゃんだった?」

 そう問うと凉平君は寝返りを打って庭のテントの方を見た。

「この子みたいに、別の誰かが入っているんじゃないかと疑っているのか?」

「疑ってはいないんだ。僕は間違いなく自分の兄だと思っているけれど、僕の知っている兄とは少し違って見えるんだよ。だから、後押ししてほしい。間違いないって言ってほしい」

「……あの子は紛れもなく黒岡颯佑だよ。たとえリョウちゃんの知らない一面を持っていたとしたって。あの子は、リョウちゃんやこの子とは違って、別の魂に干渉されることは無いと言っても良い」

 凉平君はまた寝返りを打って僕に向き直った。

「言っていたじゃないか、ソウちゃんには始まりが分かっているんだ。リョウちゃんがハコになった経緯を知っている。始まりを知ったのなら、次に選ぶ道は、終わらせることだ。あの子は迷い無く揺るぎなく、終わらせる道を選び取る。そういうところ、鉄ちゃんに似たんだな」

 どこか懐かしさと悲しさの混じる声で凉平君はそう言った。僕は項垂れた。

「ありがとう、凉平君」

「オレは役に立てた?」

「うん、ありがとう。納得した」

 僕がそう答えると、凉平君ははにかんで目を瞑った。それからすぐに篤志の寝息が薄らと闇に響いた。


 僕は気付かされた。兄は僕に会いに来ただけではない。そんな兄弟の悠長な話ではない。兄は僕の知らない真相に辿り着いているようだった。いつも慈しみに満ちていた眼差しが違って見えるのは、その瞳の奥に憎悪を宿しているからだ。落ち着いた声がいつもと違って聞こえたのは、その心の内に復讐を秘めているからだ。

 兄は、ああ、兄ちゃんはこの町の信仰を壊しに来たのだ。

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