八月八日 木曜日 午前
朝早くに目が覚めた。ようやく兄と会える期待からだろう。隣の布団で篤志はまだ眠っていた。タオルケットが足下でぐちゃぐちゃになっていた。まだ日が昇りきっていない庭で雀が遊んでいる。扇風機のタイマーは止まっていて、台所の方から冷蔵庫の唸り声が聞こえた。白さの残る空に烏の鳴き声が響く。
僕は篤志を起こさないようにそっと起き出して、濡れ縁に座った。まだ涼しい朝の風は爽やかで、大きく伸びをして深呼吸すると綺麗な空気が肺いっぱいに満ちるようだった。
しばらくの間、朝の庭を観察していた。雀たちが懸命に地面を啄んでいる。開き始めた朝顔。トカゲが草陰を這う。座敷童も黒い箱も見えない。ありきたりな庭があった。
目を瞑れば、瞼の裏に祖父の姿が映る。幼い思い出の中の祖父は、おおらかで、いつも微笑んでいる。
ずっとこの町で暮らしてきた祖父がハコの存在を知らなかったはずもない。だが、ハコが人間さえもその器と成すことを知っていただろうか。恐らくは知らなかったはずだ。知っていたならば僕のことをこの町から遠ざけて二度と戻らないように手を尽くしただろう。きっと、凉平君がハコだと知っていたならば、祖父はどんな手段をもってしても、その結末を避けようとしただろう。
祖父は知らなかったのだ。知らされていなかった。逆に考えてみる。誰ならば知っているのかを。
弐羽先生、代々の先生たちは知らないはずが無い。凉平君で確信したはずだ。人間もハコになるのだと。それでハコを人工的に生み出すことを研究しようとした。
神職も無論、ハコが人間となることを認識していたはずだ。そうでなければ信仰が成り立たない。
歴代の町長たちもあるいは知っていたかもしれないが、そのあたりになると直接的な関係というよりも裏で何かを采配している関係者だろう。
ひとまず町の有力者たちは何らかの形でハコが人間の場合もあるということを認知していたはずだ。信仰を維持するために暗躍し続けてきたのだろう。
残念ながら僕には町のためならばこの身を供物として捧げたいと思うような思い入れは無い。自分の命がずっと呪われてきたのだから、むしろ忌むべき対象でさえある。ただ、滅んでしまえなんてことは考えない。凉平君が生きた、祖父が生きた、篤志が生きていく、この町だ。どうなったって構わないとは思えなかった。
最後に残るのは情なのだろうな。
「あー……リョウちゃん、早くねぇ?」
篤志が起きた。おはよう、と言った寝起きの顔はまだ眠そうに目を細めたが、朝日が眩しかっただけかもしれない。僕の気配で起こしてしまったらしい。
「おはよう。まだ眠っていても良かったのに」
「んー……」
起き上がろうとした篤志はうつ伏せになって、そのまま寝息を立て始めた。二度寝。僕は篤志をそのまま寝かせておくことにして、庭の鉢植えに水を遣った。
それからしばらくして篤志は起きてきた。いつも通りの朝だった。
「良いことを思い付いたんだ」
篤志がそう言って半熟の目玉焼きを美味しそうに食べた。
「ちょっと早めに出て家に寄って、それから本郷でも行きたい店があるんだけど」
「全く構わないんだけど、何を思い付いたの」
「まあ、見てろって。リョウちゃんもきっと喜ぶ」
唇の端から垂れる黄身をペロリと舐め取った。篤志はニヤリと笑った。
時間に余裕を持って家を出て、里見酒店に立ち寄った。篤志が戻ってくるまで僕は散歩中の少女たちと話をしていた。自転車を修理に出した時、熱を出した僕を看病してくれたふたりだ。
「リョウちゃん、げんきになったのね」
「リョウちゃん、げんきなのだわ」
少女たちは僕の額や頬に触れて熱が出ていないか確かめていた。小さくて柔らかい手は僕の体温よりも高く感じられた。僕は元気だった。篤志は店の中と車を行ったり来たりして段ボールを数箱、運び込んでいた。僕は少女たちと他愛も無い話をしていた。
「モテモテだな」
篤志が大きな袋を抱えて帰ってきた。
「あ、キャンプなのね」
「リョウちゃん、キャンプするのね」
少女のどちらかが高い声で言うと、ふたりはきゃあきゃあとと笑い合った。篤志の持ってきた袋にはテントが折り畳まれていた。篤志はテントをトランクに積み込んだ。少女たちと別れて僕たちは本郷を目指した。
篤志によると、ふたりの少女は近所の小学生らしい。同学年の子供が奥郷にはあの子たちふたりしか居ない。さらに言えば、奥郷には小学生が五人しか居ないらしい。
「オレの同級生も少ないよ。中学まで一緒だったけど、高校は私立に行ったり、高校を卒業して進学したり。それっきり帰省しない奴も多い」
田舎の学校ではそんなことなど珍しいことでも無いと篤志が言う。次第に減っていく人口の中で、伝統を守るのはどれほど大変なことだろうか。ハコもまた静かに受け継がれ、やがて潰える信仰なのだろうか。
車の中にはシャンソンが流れていた。音源が古い。これもきっと往年の名曲だろう。僕にはフランス語の心得が無いけれど、甘く切ない女性の声に、これが恋の歌だと思った。
「ああいうの、良いよな」
篤志が何のことを言ったのか分からずに僕は首を傾げた。
「友情」
木漏れ日は斑にアスファルトを照らしていた。
「ふたりきりの世界って、きっと何歳になっても壊れない。記憶の片隅に残って離れない。色褪せない。誰にも邪魔されない。友情がいつまで続くかは分からねぇけど、友情があったということは消えないんだよな」
篤志の言葉に僕はただ、そうだねと返すので精一杯だった。僕がそのとき何を考えていたのか、僕自身でさえ定かではない。在りし日を瞳の奥に焼き付けようと、瞬きも忘れて夏を見詰めていた。
山道を走り、上郷、中郷と下り、下郷を抜けて、本郷へ入る頃にはシャンソンがいつのまにかジャズに変わっていた。僕たちは話をしたり、黙ったり、また話したり、ふたりきりの世界だった。
兄の到着まで時間があった。篤志とホームセンターに寄った。
「炭はあったけれど着火剤が無かったんだよな」
そんなことを言いながら篤志はホームセンターの白い床を歩いて行く。僕は物珍しさにキョロキョロしながら篤志の後に付いていった。無機質な空間に篤志と僕の足音が響いた。
「クーラーボックスに氷を詰めてきたから、肉も買っちまうか」
ホームセンターのあと、僕たちはスーパーにも寄った。焼き肉用と書かれた肉を買い物カゴに放り込む。会計を済ませて店の外に出る。青空が広がっていた。
駅前の駐車場は古いアスファルトに描かれた白線がほとんど掠れて見えなくなっていた。篤志はそこに車を駐車した。スーパーで買ったアイスを半分に割ってふたりで食べながら兄を待った。駅前の通りを高校生たちが歩いて行く。補習授業か、部活か。楽しげに笑いながら通り過ぎる。木陰で談笑しているひとたち、駆けていく子供、店先の犬。蝉の声が降り注ぐ夏の日は穏やかだった。
「颯佑くんにハコのこと、伝えるのか?」
アイスのチューブを咥えたまま篤志が僕に聞いた。
「そのつもりではいるけれど」
「けれど?」
「うまく伝えられるか不安だ」
僕は兄にハコのことを話すつもりだった。座敷童のことも、黒い箱のことも、そして凉平君のことも。どう説明しようか。兄はきっと真剣に聞いてくれるはずだ。兄はいつだってそうだ。だからこそ、悩む。凉平君が迎えた結末がどのようなものであったのか、僕の想像を話すべきか、黙ったままでいるべきか、僕は躊躇っていた。兄は僕の言葉を信じるだろう。その後、兄がどのような行動に出るのか、僕にはそれが分からなかった。分からなくなっていた。
「たとえばさ」
篤志がアイスのチューブを膨らませて、萎ませた。
「オレとリョウちゃんは今、同じアイスを食べている。だけど、同じ感想を持っているわけじゃねぇだろ。まったく同じアイスのはずなのにさ。そんなもんじゃねぇの」
篤志の言わんとすることは理解できた。僕が百を説明しても、兄が百を理解するとは限らないし、その理解が間違いなく同じものであるという絶対は無い。
それはきっと、僕も同じで、篤志も同じだろう。僕は篤志に凉平君のことを伝えていない。篤志の中に宿っているというのに。凉平君がそこに居るということや、その目的を正しく伝える言葉が見当たらなかった。
兄を乗せた列車が駅に着いた。帰省客の中に、兄の姿を見付けた。スーツケースを転がしていた兄は、僕たちに気が付くと軽く手を挙げた。
降り注ぐ真夏の中に薄らと、夏の終わりの気配が滲んでいた。
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