八月七日 水曜日

 篤志にどう説明すべきか悩んでいたが、そんな僕の心配を余所に、篤志は元気だった。あのあと、目を覚ました篤志と牛乳寒天を食べたが、別段変わった様子はなかった。夜もいつも通りに就寝したし、翌朝もまた、いつもの篤志だった。

「リョウちゃん、調子はどうだ?」

 僕たちは庭先で真っ白なシーツを干していた。朝に干せば昼には乾くだろう。太陽は今日も輝いて、気温もぐんぐんと上がりそうだった。

「平気だよ、むしろ普段より良いくらいだ」

 小鳥たちが戯れるように僕たちの近くを飛んだ。僕はシーツ越しに篤志を窺った。

 本当は、何もかも分かっているのではないか。けれどそれを僕には悟られまいとして、何も気付かないふりをしているだけではないのか。僕は篤志の大きな影を見た。実際には凉平の存在を認識しているけれど、黙っているだけかもしれない。それはなぜか。僕が心配するから? 不安にしたくない? それとも他に何か考えがあるのかもしれない。いや、何かあるのは分かっていて、それが何なのか分からないけれど、黙っておくことが得策だと考えているのかもしれないし、あるいは。

「リョウちゃん、そっち引っ張って」

 僕は慌ててシーツの端を引っ張った。

「やっぱり体調悪いんじゃねぇの? 大丈夫か?」

 シーツを捲って篤志が心配そうな顔を覗かせた。僕は首を振る。

「考え事をしていた。明日、兄ちゃんが着くからご飯は何にしようかって」

「あ、そっか。颯佑くん、明日か」

 篤志は神妙な顔になった。

「オレ、何と呼んでいたんだっけ、全然思い出せない」

「兄ちゃんのこと? だって四つ違いだから、一緒に学校へ通っていたわけでもないし、記憶に残っていなくたって仕方が無い」

「でもたとえば、ソウ兄ちゃんとか呼んでいたのに颯佑くんって呼んだら、よそよそしくならないか?」

「別に気にしないよ、呼び方なんて今更。僕の兄をどれだけ心が狭い人間だと思っているんだ」

 僕は呆れて笑った。篤志は落ち着かないらしかった。颯佑くん、ソウちゃん、颯佑兄ちゃん、とブツブツと繰り返していた。最終的にどうやって呼ぶのか、明日が楽しみだ。

「あとで兄ちゃんに連絡しておく。何時に着くんだろう」

「駅まで迎えに行くけど」

「ありがとう、それなら尚更、時間を確認しておかないと」

「昼なら本郷まで迎えに行って、何か食べても良いよ」

「いいね、それ」

 それから他の洗濯物も干した。最後になると僕はすっかりバテてしまって、篤志ひとりが庭に出ていた。僕は篤志の分も麦茶を用意して、日陰の縁側に座り、篤志を待った。洗濯物を干し終わった篤志はTシャツの裾を捲り上げて汗を拭きながら戻ってきた。引き締まった腹筋が覗いていた。

「終わり、暑い! 汗、絞れるんじゃねぇのこれ」

 そう言いながらも篤志は夏の暑さを楽しんでいるようだった。半袖のTシャツの袖を捲って、深緑色のハーフパンツには里見と刺繍が入っている。高校の体操服だろう。

「ありがと、助かる」

 僕は麦茶の入ったグラスを差し出した。篤志は立ったまま一息に麦茶を飲み干した。

「オレの分の洗濯物が増えているんだから」

「まあ、それはそうなんだけどね」

「そんなことよりリョウちゃん」

 篤志はグラスを縁側に置くと、タタタッと走っていき、すぐにまた駆け足で戻ってきた。手にはホースを持っている。

「水掛けて、水」

 僕の手にホースの端を持たせて、蛇口へとまた駆けていった。僕は庭に降りる。

「出すぞー」

 篤志が合図をしたので、僕は篤志にホースを向けた。すぐに水が勢いよくホースから飛び出す。井戸から引いている水は夏でも冷たくて、ホースを握る手が心地好い。篤志は弧を描く水に飛び込んできた。はしゃぐ姿は少年というよりも、大型犬を思い出させた。

「冷たいなぁ!」

 篤志が気持ちよさそうに笑う。水飛沫が光をキラキラと反射して綺麗だった。

「ほら、リョウちゃんにもお裾分け」

 掌に水を溜めて、僕に浴びせようとする。僕は笑いながら避けた。水の中に虹が架かった。

 これが最後かもしれないという予感は常に付きまとう。これが最後の朝かもしれない、これが最後の夏かもしれない、これが最後の出会いかもしれない。ずるずると生き長らえて、それでもなお他の人たちよりもずっと終わりの瞬間は鮮明に見えている。

 見えている、分かっている。これが最後の夏だ。

 篤志と過ごす時間も、もうすぐ終わる。


 何時に着くのかと、兄にメッセージを送ってみたら、すぐに電話が掛かってきた。

『涼弥、調子はどうだ』

 兄の声は少し疲れているように聞こえた。

「これから昼ご飯。今日は鶏そぼろ丼。兄ちゃんは、今電話いいの」

『兄ちゃんも今から昼休み、日替わり定食はササミのフライだ』

 ガヤガヤと賑わうオフィスの食堂。大きなテーブルの片隅で、日替わり定食を食べている兄の姿を想像した。スーツ姿の兄の首から提げられた社員証。大きな窓から見える都会の景色。狭い夏の空。

「美味しい?」

『まあ』

「普通が一番だよ」

『飯は美味いほうが良いよ』

 そう言って僕たちは笑い合った。良かった、兄は疲れているもののちゃんと笑えるようだ。

「兄ちゃん、篤志が駅まで迎えに車を出してくれるから、何時に着く列車かなって」

『そっか、悪いな』

「本郷で降りて何か食べても良いし、奥郷まで来てくれても、どっちにしても迎えに行くから」

 うん、と言って兄は暫く黙った。

『それなら、本郷で降りることにするか。ドライブだな。兄ちゃんも町のことはちゃんと憶えていないから案内してもらおう。列車の時間は決めていなかったんだ。でも、迎えに来てくれるのなら昼前に着く列車に乗る』

 兄はそう答えた。

「分かった、明日は迎えに行くから、予定の列車に乗ったら連絡して」

『そうする』

 それからまた兄は黙った。僕は何も言わずに兄の言葉を待った。電話を切りたくない、兄の心が伝わってくるようだった。

『涼弥』

 兄は静かに僕を呼んだ。僕は時々、兄の声が風の音に似ていると思う。それは響きではなくて、もっと感覚的な話なのだが、兄の声は遠くから何かを連れてくるような声だと感じるのだ。

『お前は幸せか』

 いつか僕が篤志に尋ねた問いと同じことを兄は僕に聞いた。僕は頷いて答えた。

「幸せだよ」

『そうか、それなら良いんだ。妙なことを聞いたな、笑ってくれ』

 電話の向こうで兄が溜息のような笑いを零すのが分かった。それから僕たちは電話を切った。

 兄の様子がおかしい。僕は胸騒ぎを覚えていた。疲労の奥に何か、切羽詰まった感情が滲んでいた。けれど、それを兄に問い質すことも、篤志に相談することも出来なかった。僕の思い過ごしであれと否定することも出来ない。

 僕の不安など気にも留めず、相変わらず世界に夏は広がって、色濃く鮮やかな景色が嫌でも目に焼き付く。兄は、どんな思いで僕をここに送り出しただろうか。手が離れることを喜んだのか、淋しく感じたか。ハコについて何か知っているだろうか。祖父から聞いた凉平君のことを憶えているだろうか。

 聞きたいことはいくらでもある。一ヶ月も過ぎていないのに、僕は兄の真意が分からなくなっていた。

 何を見て何を感じ、何を望んでいるのか。

 兄ちゃん。

 僕はスマートフォンを置いて、台所へ向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る