八月六日 火曜日 午後
篤志を膝枕したまま、僕は少し居眠りをしていたようだ。気が付くと膝の上で篤志も寝息を立てていた。眠くないと言っていたのに結局、僕たちはふたり揃って眠っていたらしい。僕は篤志を起こさないようにと顔だけを動かして時計を見た。正午を過ぎた頃だった。そろそろ昼ご飯の支度をしないと。僕は篤志を揺り起こした。膝から下が痺れていた。
「篤志、お昼にしよう」
目を覚ました篤志は、凉平だった。言葉を発しなくとも、動かずとも、僕はその違いが感覚だけで分かるようになっていた。
篤志と凉平は雰囲気が違う。凉平が現れたときにはどこか空気が一瞬だけ張り詰める。世界を自分の存在に合わせて調整しているようだと僕は思った。目を開ければ、その瞳が違うことも分かる。同じ目でも、その奥に宿すものが異なって映る。篤志の優しさとは違う感情が凉平の瞳に揺れている。その炎は兄が僕の看病をするときの眼差しと似ている時もあったし、思いがけない高熱や吐血に険しい顔をする兄とも似ていた。そうか、凉平は兄ちゃんと似ているのか。あの座敷童にも兄の面影を見たが、それは一度記憶の底へ沈めておくことにする。
「リョウちゃんが作ってくれるの」
「足が痺れたから早く退いて」
僕は凉平を膝の上から転がして落とした。凉平は畳の上で肩を震わせて笑っていた。足が痺れて立てない僕は這いながら台所へ向かった。
「正体が分かった途端に冷たいんじゃないか」
すぐに凉平は僕に追いついて、僕の両脇を簡単に抱え上げるとそのまま台所の椅子に座らせた。
「オレがリョウちゃんを何度か助けていることを恩に着せるつもりは無いけれど、少しばかりオレの評価に加点してくれたって構いはしないのだが」
そう言いながら凉平は冷蔵庫を開けた。
「篤志から出て行ってくれたら考える」
「それはまだ出来ない相談というものだなぁ」
「じゃあいつになったら出て行くの」
僕が尋ねると、凉平はトマトを片手に肩を竦めた。
「リョウちゃんがオレを必要としなくなるその時まで」
答えた凉平の声が決して冗談を言っているようには聞こえなかったので、僕はそのまま黙って凉平の後ろ姿を見ていた。
後ろ姿だけならば、その雰囲気は篤志と似ているが、動作がやはり別人だ。似て非なるもの。違和感は僅かなものだが、僕はその微かな歪さに対して敏感になっていた。凉平は上機嫌に鼻歌を歌いながら素麺を茹でていた。それは篤志が今朝歌っていた白雪姫だ。
凉平は手慣れた様子だった。しばらく待って出されたのは、トマトが鮮やかな素麺だった。
「どうしてこんなものを作れるの」
「そりゃあ、かなり長い間ここに留まっているからね。色々と見てきたよ、色々と」
凉平は含みのある言い方をして素麺を啜った。僕はなんとなく敗北感を抱きながら出された素麺を食べた。
「本当に凉平なの」
「そうだよ、黒岡凉平。リョウちゃんのおじいさんのお兄さんだ、ご先祖のことは敬いたまえよ」
「それをどうやって証明出来るの」
「証明か、難しいな。鉄ちゃんは何か言っていた?」
凉平は祖父のことを鉄ちゃんと呼んでいたらしい。
「突然失踪したって、駆け落ちだとか神隠しだとか。でも親戚は誰もそのことに触れていなかったから、僕はじいちゃんから聞いた話しか知らない」
「へぇ」
僕はトマトを噛みながら、篤志と凉平は箸の持ち方が違うことに気が付いた。篤志はお手本のように綺麗な箸の持ち方をするが、凉平の持ち方は人差し指の先が箸に付いていない。それでどうやって掴むのか不思議だったが、凉平は難なく素麺を平らげた。
「リョウちゃんはどう考えているんだ」
先に食べ終えた凉平が皿を洗いながら僕に尋ねる。
「何が」
「オレがどうして居なくなったのか、思い付いている考えがあるのだろう」
「まあ、あるにはあるけれど」
凉平は振り向かずに言った。
「それが答えだよ」
その声は冷めたような、それでいて何かを惜しむような、不思議な響きをしていた。
本当のことを言うと、僕は凉平のことを少し可哀想に思っていた。この世を去ったのが何歳の頃かは分からないけれど、祖父や家族を残して去ったのは確かだ。先に逝く不幸が、不憫に思えた。僕の推測が確かならば、より一層、可哀想なひとだった。無念もあっただろう、悔しくて仕方が無かっただろう。だから今なお、ここに留まっているのだ。
「成仏しないの」
「リョウちゃんが成仏させてよ」
洗い終えた皿を布巾で拭き上げながら凉平が言う。
「ハコを終わらせてくれたら、きっと、オレも自由になれるのだろう」
そう言うと、凉平は僕の向かいに座った。
「なぁ、リョウちゃん。ひとつお願いがある」
「何」
「オレのことは凉平君って呼んでよ」
「どうして」
「そのほうが落ち着く」
篤志の身体の中で落ち着かないでくれと思ったが、もはや呼ぶ人も居ない名前だ。僕はその願いを叶えることにした。その名を憶えている人の方が少ないだろう。
「凉平君」
「うん」
「凉平君が出てくる前後で篤志が眠りに落ちるの、どうにかならない?」
「それはどうにも」
凉平君は残念そうに首を振った。
「霊媒体質というやつだろうなぁ」
「他人の身体だからって扱き使って」
「いいや、とても感謝しているよ。この子が強くて頑丈なおかげだ。精神がしっかりしている。だからオレが入っていても、この子の自我が崩壊することなく続いていられる。幸運だ」
篤志が褒められると悪い気はしないが、それでも長時間に渡って凉平君が外に、篤志が内に居るのは良くない。篤志自身、自分の変化として凉平君の存在を察しているようだった。だからあまりここに長居してほしくはない。
だけど、想像する。失踪し、死んでからも行き場を無くし、この家に留まっていた凉平君は、自分の両親や弟である祖父の葬式を、この家のどこかから見ていたのだろう。それはあまりにも救いのない話だった。
僕はゆっくりと食事を終えた。食器を洗って拭いて片付ける。凉平君は柱にもたれて僕を見ていた。
「さあ、リョウちゃん」
僕が片付けを終えると凉平君はパンッと両手を合わせた。
「ついておいで。オレが黒岡凉平だという証明を見せてあげよう」
言葉だけならば豪語しているが、凉平君自身は少し自信が無さそうに思えた。僕は凉平君に従ってあとに続いた。
家の奥、祖父の部屋のほうへと凉平君は向かった。床の黒い跡は、なぜか凉平君が歩くと足跡の形に黒が消えた。それはまるで黒い跡が意志を持って凉平君を避けているようだった。僕はその足跡を辿った。
凉平君に連れられてやって来たのは、祖父の部屋ではなく、その手前の祖母の部屋だった。
「オレが使っていた部屋。もし、リョウちゃんが知らないことをオレが知っていたら、それはオレが凉平だという証拠にはならないだろうか」
祖母の部屋の襖を開けた凉平君が僕を見返る。
「見てから判断する」
「そのほうが賢明だ」
埃っぽい空気に僕はくしゃみをした。
凉平君は畳を捲った。その下の板も手慣れた様子で取り去った。床にポッカリと穴が開く。床下の地面が薄らと見えた。
「灯りと掘るものはある?」
そう言われて僕は懐中電灯と小振りな鍬を持ってきた。
「これで見つからなければオレは法螺吹きだな」
「そのときはすぐに篤志から出て行ってよ」
「そうすることにする。まあ……何も見つからなければきっとオレはあまりの失望に消えてしまうだろうなぁ」
床下を掘り進める凉平君のことを僕は窓枠に腰掛けて見ていた。今までのどんな時間よりも長く、篤志と凉平君が入れ替わっている。それが篤志にとって悪いことだと分かっていた。こうしている間、篤志の精神はどうなっているのだろう。自我は眠っているのだろうか。また記憶が曖昧になっていることに篤志はショックを受けるだろう。何と言って誤魔化そう。本当のことなど伝えようがない。
「あ」
凉平君が小さな声を上げた。僕は凉平君を見た。土にまみれた凉平君は同じように土にまみれた小箱を取り出した。
「開ける?」
僕は尋ねた。凉平君は汗を拭って僕に小箱を渡した。木製のハードカバーの本ほどの大きさで、厚みは親指ほどもない。軽いものが入っているようだった。
「開けて」
凉平君に言われて僕は小箱を開けた。砂埃が舞い上がる。中に入れられていたのは一冊の本だった。題名のないそれが日記だとすぐに分かった。
「三月十五日、晴れた空」
唐突に凉平君がそう言った。僕は慌てて日記を捲った。古く乾燥したページは捲りづらかった。僕は三月十五日と書かれたページを開いた。
「朝から喀血。弐羽醫院を訪ねる。原因不明との診断。定期的に検診を受けることとする。鉄平に草餅を買って帰る」
凉平君が言う通りの言葉が日記に書かれていた。僕の読み進める文字を凉平君が音読しているような、妙な心地があった。
「五月二日、晴天、西に飛行機雲。五月四日に思い返して書き記す」
僕は五月二日までページを捲った。
「高熱の後、嘔吐。弐羽醫院に運ばれる。暫く入院し詳しい検査を実施することとなった。端午の節句を祝えず無念」
凉平君の声は風鈴の音のように澄んでいた。
「五月十一日、嵐、稲光が空を覆う。血清を打つも効果は見られず。頭を抱える弐羽先生を見ていることしか出来ない」
「五月十五日、曇り空に燕が低く飛ぶ。母に連れられて鉄平が見舞いに来た。弐羽先生の許可を貰い周辺を散歩する。羊羹を買って持たせる」
「五月二十九日、曇天のち雨。古い診療記録より、過去に幾つかの報告例がある症状と酷似していることが判明。弐羽先生はこれを箱庭症候群と名付ける」
「六月二十日、薄雲と晴れ。未だ家に帰れず。微熱が続く」
僕は凉平君が諳んじる通りにページを捲った。次第にその手が震え始める。真相に近付いている感覚があった。それを知ることが正しくとも、目を逸らしたい現実だという予感もあった。
「七月九日、連日の雨。食欲が無い。慢性的な眠気。浅い眠りの中に珍しく見舞客があった。神主が弐羽先生と何かを話していたが聞き取れず。あまりにも眠い」
開け放った窓の向こうには当たり前のように夏があった。僕はページを捲るのを躊躇っていた。
「七月十八日、空の端までの快晴。一時的な帰宅が許可される。家で両親を手伝い、鉄平の面倒を見る」
「七月十九日、終日床に臥す。天気不明」
「七月二十日、晴天のち夕立。庭に黒い箱を見る」
僕は日記から顔を上げて凉平君を見た。凉平君は僕に背を向けて畳を元通りにしていた。
「七月二十二日、霧深し。東雲、弐羽醫院より迎えの車。準備も儘ならず弐羽醫院に戻る」
七月二十二日の日記は他の日よりも長く綴られていた。
「醫院地下の部屋に通される。古い礼拝室と推察。弐羽先生より箱庭症候群の説明を受けるも理解不能。オレより採血した血液を使って人工的にハコを生み出すとのこと。永続的なハコの信仰を繋ぐとは何か。反抗虚しく地下に監禁となる。せめて鉄平に草餅を送るよう頼む。その中にこの日記を紛れさせ、床下に隠すよう手紙を書く。鉄ちゃん、君は生きよ」
そこで日記は終えられていた。凉平君は畳の上に跪座して、俯いた表情は見えない。
「凉平君」
僕は呼び掛けた。凉平君は顔を上げなかった。
「……リョウちゃん、これでオレが黒岡凉平だと信じてはくれないだろうか」
「信じるも何も……」
答えを言い淀んでいると、凉平君が顔を上げた。泣くのを堪えて無理に笑っているような、つらそうな笑顔だった。
「……このあと、どうなったの」
「オレが辿った顛末なんて知らなくて良い。リョウちゃんは自分自身の結末を迎えるべきだ」
「そうは言ったって」
あなたは悔しくはなかったのか。怒りに震えはしなかったのか。無念ではなかったのか。救いようのない絶望の底に、突き落とされたのではないのか。
「リョウちゃん、君の怒りは尤もだ。その嘆きも当然のことだろう。しかし、君は君自身の置かれた状況に対して深い感情を抱くべきだ。そこに、オレに対する想いなど無くたって構いやしないさ」
けれど、と凉平君は続けた。とても静かで穏やかな声だった。あらゆる悲しみや苦しみが、僕の抱いた怒りさえも、凉平君を置き去りにして通り過ぎるような、そんな淋しい音をしていた。
「もし、少しばかりオレの末路に心を砕いてくれるのであれば、どうか、オレにリョウちゃんを守らせてほしい。この子の心根の優しさが徒となって、あるいは恐怖心に足を竦めて動けなくなった時に、オレの名前を呼んでくれ。それだけで良い、それだけで良いんだ。頼む」
凉平君は深く頭を下げた。切実な願いがそこにあった。
「オレからもう何も奪わないでくれ」
「凉平君……」
僕がその身体に触れようと手を伸ばした瞬間、凉平君はそのまま畳の上に突っ伏した。慌てて揺すり起こそうとしたが、穏やかな寝息を立てていた。篤志が戻っていた。僕は篤志を引っ張って居間に戻り、小箱と日記を仕舞って、何事も無かったかのように、篤志の頭を膝の上に乗せた。
篤志が起きたら牛乳寒天を食べよう。僕はタオルで篤志の身体中の土埃を拭った。どうしてこんなに汚れているのか、どう説明したものか。
外にはのどかな時間が流れていた。鳶がピョロロロと鳴いて、追いかけ合うように小鳥たちが飛んで、僕の心の奥で凉平君の切望が波のように寄せては返した。
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