八月六日 火曜日 午前
郵便局の古い切手を見たとき、自分の中で何かが腑に落ちる音がした。それは、切手を飾る額縁の下に取り付けられた年代が、祖父の子供時代と重なっていたからかもしれない。あるいは、ずっと前から気が付いていたのに気付かないふりをしていたものを自覚したからもしれない。いつ、どのタイミングで気が付いていたのだろう。
きっかけのひとつ、あるいは、自分の中に芽生えていた仮説が確証に変わった瞬間は、やはり篤志の中に潜んでいた凉平が座敷童を捕らえたあの時だっただろう。
オレの大切な者に手を出した、君たちの負けだよ。
篤志の声で、凉平はそう言った。だからそれが、僕に愛情を与えてくれる側の人間だと悟った。幽霊を心から信じていたわけではないが、座敷童にハコに、もうここまで来れば何だって有り得ると思える。たとえば僕が幽霊となってなお、誰かを守りたいと強く願ったとして、そのときに叶うのであればきっと、篤志のような人間の肉体を借りるだろう。決して僕を見捨てない人、僕の傍を離れない人。僕を庇い、守るだけの力と体力があって、悪意を悪と認識する人。篤志は凉平にとって好都合な人間だ。好都合すぎるほどに。
柏木さんの言葉もヒントだった。弐羽家がハコの信仰と無関係なわけがないと柏木さんは言った。弐羽先生は箱庭症候群について何も知らないわけがない。むしろ僕よりもずっと真実に近いものを知り得ているだろう。だから、僕がこうしてこの町に戻ってきて嬉しいのは、弐羽先生もまた僕と同じように答え合わせをしていたのだろう。
昨日の霧雨が嘘のように、からりと晴れた青空が広がっていた。目映い夏の光が山の木々の緑を色濃く照らし、熱気を運ぶ風が軒先の風鈴を乱していた。
弐羽先生は信用ならない。だが、僕よりもずっと多くのことを知っている。だからその知識をうまく利用したい。出来るならばハコの呪いから解き放たれたい。僕が悪だとしてそれを責める資格が誰にあると言うんだ。
僕は台所に立って牛乳寒天を作っていた。缶詰のフルーツを入れる。バナナも。昨日、僕の点滴中に篤志がスーパーへ買い物に行ってくれた。牛乳を手に入れた僕は、自分で牛乳寒天を作ることにした。篤志は風呂掃除をしてくれていた。聞こえてくる鼻歌が白雪姫で、僕は少し笑った。
凉平の話は祖父以外から聞いたことが無い。黒岡家のタブーだったのだろう。どれほど輝かしいひとであったとしても、その最期が謎に包まれていれば話題にすることさえ躊躇われるかもしれない。それは酷く身勝手で悲しい話だが、そうしなければ進めなかっただろうというのも想像出来る。愛しているからこそ、色褪せるより先に、穢れてしまう前に、遠く彼方へ葬り去ることもまた、愛の選択なのかもしれない。そう願いたいのは僕の我儘だ。
冷蔵庫に容器を入れて冷えるのを待つ。出来上がった牛乳寒天は今日のおやつになるだろう。
「リョウちゃん、終わった。そっちは?」
タオルで汗を拭きながら篤志が戻ってきた。僕はちょうど後ろで結んだエプロンの紐を解こうと手を伸ばすところだった。篤志のおばさんが持たせてくれたこの紺色のエプロンには、里見酒店の文字が茜色で刺繍されている。
「あとは冷えるのを待つだけ」
「あ、リョウちゃん」
紐が縦結びになっていると篤志に指摘された。僕はすぐに紐を引っ張って解いた。
「意外と不器用」
貸してみ、と篤志が紐の端を持つ。
「リョウちゃんは腰が細いから紐も長く余るな」
そう呟くように言うと、篤志は僕が後ろで結んだ紐を前に持ってきた。スルスルとあっという間に紐が結び終わる。蝶の羽が二重になっていた。なんて器用なんだ。
「なぁ、リョウちゃん」
結び目を見下ろしたまま篤志が言う。
「妙なことを聞くけどさ、オレ、最近何か変なこと言ったりしてねぇ?」
僕はあっと思ったがその動揺を態度には示さず、平静を装う。
「変なことって?」
「いや、自分でも分からねぇけど……」
顔を上げた篤志は困ったような顔で僕を見た。
「近頃さ、記憶が曖昧になっていることが多いんだ。昨日だってそうだ。リョウちゃんが点滴をしている間のこと、あんまり憶えてねぇんだよ」
「そうは言っても、スーパーへ行くまで寝ていたじゃないか」
「それだよ、それ」
はぁ、と篤志が溜息を吐き出した。
「いつの間にか寝落ちするなんて、今まで無かったのに。そんなの、車の運転をしているときに寝落ちたりしたらどうするんだ」
「それは、困るね、うん」
原因を知っている僕としては、どう答えて良いものか分からず、まるで篤志の相談に興味が無いような相鎚になってしまった。僕は慌てて言葉を続ける。
「一度、思いっきり眠ってみるのはどう」
「今は全く眠くないのに?」
「やってみよう、はい、横になって」
僕は篤志の手を引いて居間へ向かった。畳の上に正座して、膝をポンポンと叩いてみせた。篤志は明らかに戸惑っていた。
「えぇ、リョウちゃんの膝枕ぁ?」
「嫌なら別に構わないけど。あ、マヤさんに言わせれば白岡夕凪は美少女だから大丈夫だよ」
「何も大丈夫なことねぇよ」
そう言いながらも篤志は横になって僕の膝の上に頭を乗せた。硬いと篤志は呟いたし、重いと僕も呟いた。エアコンの無い家では古びた扇風機と団扇だけが頼りで、僕たちは汗を滲ませていた。それでも僕たちは膝枕のまま、夏を見渡していた。蝉の声がよく響いていた。たぶんアブラゼミだ。庭先を弾むように飛んでいる小鳥は何と呼ぶのだろう。
「ねぇ、篤志」
僕は篤志の額に滲んだ汗をタオルで拭いた。
「もしもの話をしても良い?」
夏の庭はあまりにも鮮やかに照らされて、まるで別の世界のようだった。
「もしもの話?」
「そう。篤志は嫌がるだろうけれど、ひとつだけ」
僕は膝の上の篤志の顔を見下ろした。僕の声の中に、隠しきれない切迫感があったのだろう。篤志は神妙な面持ちで僕を見ていた。
「もしも、このハコの呪いをどうすることも出来なかった時には、僕のこと、時々で構わないから思い出してね」
篤志は一瞬だけ目を見開いて、すぐに眉間に皺を寄せて目を細めた。その表情は泣くのを我慢しているように思えて、僕も泣きたくなった。
「どうしてそんな……悲しい結末を言うんだ。言葉にしたら本当になるぞ」
「僕だってそう易々と死ぬつもりなんてないよ。だけどね、篤志」
言葉に出来ない思いをどうやって言葉で表現しようか、僕は少し迷ってから口を開いた。
「みんなの願いが平等にすべて叶うことなんて、有り得ないんだよ」
僕の言葉に篤志は口を噤んだ、
ずっと考えていた。僕がハコの呪いに打ち勝った時、僕に掛けられていた呪いはどうなるのだろうか、と。恨みや憎しみは、どこへ行くのだろう。呪いが返されて持ち主たちのもとへ、あるいはこの町に蔓延するのか。
僕は生き残ることを望む一方で、それが全員にとってのハッピーエンドにはなり得ないことを自覚していた。誰もが皆、幸せな結末を迎えることなど出来ないのだ。絶対に。何かが失われ、二度とは戻らないもの、手離さざるを得ないもの、それらの代償が待ち受けているだろうと、そしてそれらの反動が僕の大切な人たちにも降り掛かるのではないかということを恐れていた。
「……だけどリョウちゃん、オレは……」
篤志の視線が庭に向けられた。僕もそちらを見た。コントラストのはっきりとした夏の景色。あまりに青い空、あまりに深い緑。心躍るはずの夏が僕たちから遠い所に存在しているような気がした。
「この町にとって……たとえそれが正しいことじゃないのだとしても、オレは……それでもやっぱりオレは、リョウちゃんに生きてほしいよ」
そう言うと篤志の目尻から涙が一筋、静かに流れた。
きっと、ずっと、篤志の中にも葛藤があったのだろう。この町で生まれ、この町で育った。そしてこれからもこの町で生きてゆく。そんな篤志がハコという信仰に対して何も思っていないわけがない。僕というハコに対して思い悩んでいなかったわけなどないのだ。それを決して僕には見せなかっただけだ。僕は距離を測ろうとして、篤志の抱えるたくさんのことをどれだけ見落としてきたのだろうか。今更になって思い知る自分の高慢さには呆れるほどだ。
地面を焦がすような熱も、噎せ返るような風も、その風に揺れる風鈴も、高らかに木霊する蝉の声も、すべての温度、感覚、ぜんぶ。
ぜんぶ切り取って、遠くへ放り投げて、このままふたりだけ、何事も無かったかのように暮らせはしないのだろうか。
どうしてそれが、叶わないのだろうか。
「泣くなよ、リョウちゃん」
泣くな、と篤志の手が僕の頬に触れて、僕の涙が篤志の指先を伝った。
「頼む、泣かないでくれ」
僕の未来を望んで、僕の命を祝って、僕と迎える明日を喜んでくれる篤志。
けれど、町のひとたちを、その信仰を、裏切ることに心を痛める篤志。
僕と町の間で板挟みになっている篤志の置かれている立場はどれほど息苦しく、脆く危うい場所なのだろう。町も、僕も、どちらも望んだ通りにならないのだというのなら、等しく叶えられる願いなど無いのであれば、何が篤志の献身に報いて、どうすれば篤志は救われるのだろうか。
そんなもの、そんな結末。
白岡夕凪にだって書けない未来じゃないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます