八月五日 月曜日
エデンの東が流れていた。
僕は車窓の向こうを流れる景色を横目に鈍い瞬きを繰り返していた。篤志は変わらず篤志で、やはりその清らかな魂は傷すら付かないのではないかと思うほどに篤志のままだった。中に入り込んでいた誰かは、昨夜以降、気配すら感じさせない。まだそこに留まっているのだろうか。それともようやく篤志の中から出ていってくれたのだろうか。
一夜明けてもなお、様々なことに安心できないままでいた。
あの座敷童だってそうだ。篤志の手の中で消えてから、僕の前に姿を見せないが、まだどこかに居て僕を監視しているのではないかと疑ってしまう。
昨夜の雨は霧雨になって、辺りをしっとりと包んでいた。少し肌寒い日だった。
朝、先に里見酒店へ寄ってから、昼前に本郷に着いた。雨の町は静かだった。静かな商店の静かな軒先で柴犬が静かに座っていた。本当にただ静かだった。
気が重い。車窓を滴り落ちる雨粒の中に小さな世界が映っていた。座敷童も、黒い箱も、篤志の中も。目で見えないから、手で触れられないから、確かめようが無いから、不安になる。もう大丈夫なのか確証が得られないまま、夜が明けて、当たり前のように今日が始まった。一時的に消えただけではないのか、まだどこかに潜んでいるのでは、機会を窺っているのではないか。明確な終わりが分からない以上、気分は晴れない。この霧雨のほうが余程、清々して見える。
けれど、僕の気持ちとは裏腹に、今日の体調は嘘のように良く、ぐずぐずとした微熱を引き摺るだけの穏やかな日だった。
「……篤志さ」
流れてひとつになり、また流れゆく雨粒を眺めながら僕は聞いた。
「どうして古い映画音楽が好きなの」
ベン・ハーのテーマが高らかに鳴り響いていた。ディスプレイに曲名が表示されなければ僕にはそれが何の曲なのか分からないし、知らない映画だってある。
「どうしてって言われてもなぁ」
篤志は首を少し傾げて考えていた。
「映画を観たことは?」
「ねぇな、音楽だけ知っている」
「観たいとは思わないの」
「うーん」
傾げた首がさらに傾く。篤志が困っていた。
「音楽だけ知っているのはなんだか悪いような気もするんだが、最初に聴いたときの印象を失いたくないっていうか……映画を観てから音楽を聴くと、映画の情景が思い出されるんだけど、ストーリーとか知らずに聴いていると、自分の想像が広がるような気がして」
答えになっているか、と篤志は僕に目配せして尋ねた。
「うん、分かる」
篤志の言いたいことは分かった。それが篤志の楽しみ方なのだろう。映画を観た上で聴けば良いのにという意見はもっともだが、たとえば予告編だけを観て本編を勝手に想像するようなワクワクとした気持ちが好きなのだ。想像は自由で、その答え合わせをしなくったって良いのだ。もちろん、自分の想像を誰かに押し付けてそれが正しいと主張するのは間違っているけれど、篤志は篤志の空想の中で翼を広げているだけだ。
それにしても篤志がそんな思いで映画音楽を流していたとは意外だった。これは発見だ。篤志の知らなかった一面を垣間見ることが出来て僕はなんだか嬉しくなった。
「どうした、リョウちゃん」
ふふっと笑った僕の吐息に、篤志は不思議そうな顔をした。僕は笑ったまま答えなかった。
それから郵便局に着いた。郵便局の壁にはたくさんの切手が飾られていた。僕はマヤさんと電話で話をしながら切手を眺めた。篤志は知り合いなのか、郵便局員のおじさんと世間話に花を咲かせていた。
『先生、原稿は小出しにすることで決定したよ』
マヤさんの声を聞くとどこか安心した。
「今後の原稿はどうするんですか」
『そのあたりはまた会議になるだろうけれど、皆、白岡夕凪の現状は理解しているよ。きっと連載形式にせず大々的に新刊を打ち出したほうが、売り上げとしては良いかもしれないね。だけど、私たちは白岡夕凪を遠い所へやってしまいたくはないんだ』
古い切手が並ぶ。見たことのないデザイン。もう使われていないものも、かつて使われた消印の入ったものも。切手の収集家が在籍しているのだろうか。それとも誰かの寄付だろうか。
『先生。先生はあるいは一瞬の輝きであれと願っているのかもしれないが、私たち、いや、少なくとも私は白岡夕凪が一瞬ではなく、弱くとも深く、細くとも長く、人々に愛され記憶に残ってほしいと願っている。もし、先生の気持ちが私と同じであれば、これほど嬉しいことは無いのだがそれはまあ、先生の自由だ』
マヤさんの声は相変わらず凛として、その心の芯の強さを届けてくる。
『夕凪は一度の現象ではないよ、日が昇り沈み、夜が巡るたびに、そこに夕凪が訪れる。何度でも巡り来る。幾度も繰り返される一瞬というものは、なかなかどうして永遠と似ているね』
ははは、とマヤさんは高らかに笑った。僕は郵便局を歩き回る足を止めた。
「また連絡しますね」
『ああ、待っているよ。私も原稿を受け取ったら連絡を入れよう。息災でな、先生』
「マヤさんも」
僕は電話を切った。そして一枚の切手から目を離せずにいた。
古い切手だった。インクは薄くなっていた。けれど、掠れて見えづらくなっているその絵柄が、僕には何を表しているのか理解できた。
黒い箱。
四隅に立てられた青竹に細い注連縄が幾重にも巡らされ、その奥で厳重に祀られるような黒い箱が、その小さな長方形に描かれていた。僕はそれをスマートフォンで写真に収めた。
僕は篤志を振り返った。胸騒ぎを訴える心臓が痛い。視線に気が付いた篤志が慌てていた。僕の顔面は蒼白だったことだろう。篤志は僕を椅子に座らせ、残りの手続きは篤志が代わりに終えてくれた。僕は抱えられるようにして郵便局を出た。
車の後部座席に寝かされる。全身に力が入らずに、僕は篤志に身を任せていた。
「大丈夫か、リョウちゃん」
篤志は僕の額に手を当てた。熱は無い、と篤志が呟く。
「弐羽先生のところへ行こう? リョウちゃんは嫌かもしれないけど、このまま帰れねぇよぉ……」
語尾が弱い。篤志が不安を感じている証拠だ。
「行く、連れて行って」
僕は篤志の腕に縋った。僕の言葉が意外だったらしく、篤志は少し驚いた顔をしてすぐに運転席へ座った。車が動き出す。
弐羽醫院に行かなければならない。もっと正確に言うならば、弐羽醫院で保管されているカルテに用事があった。あれを見直さなければならない。そこに僕が探している答えの手掛かりがあるという予感があった。
すぐ近くのはずなのに、弐羽醫院へ着くころには僕はすっかり弱っていた。寒いし、怖いし、苦しいし。それでも僕は自分を奮い立たせた。ここまで来て引き下がれない。自力で歩けないほどなのに、意志だけは一人前にしっかりとしていた。
今度こそ篤志に抱えられて僕は弐羽醫院に担ぎ込まれた。受付は柏木さんではない別の女性だったみたいだが、顔を見る余裕はなかった。待合室にも患者さんが何人か待っていたようだけど、それもまたよく分からなかった。意識ははっきりしているのに、頭の中がグラグラと揺れていた。多分、鼻血も出ていたと思う。
「あら、ごきげんよう」
いつも通りに無機質な柏木さんの声。冷徹なまでに落ち着いた声が今はむしろ安心できる。弐羽先生もそうだ。診察台で息も絶え絶えになっている僕の体中を愛しそうに触れて確かめていた。だけど、この変わらない態度がいっそ、変わらずに在れと願うほどの平穏に思えた。
「熱は無いね、一般人の平熱よりは高いけれど、心配するほどじゃあない。ひとまず少し点滴をして、様子を見よう」
弐羽先生の指示に従って柏木さんがテキパキと僕を空いたベッドに移動させ、点滴を用意していた。雨の日のステンドグラスの光は弱く、曖昧な虹色が浮かんでは消えていた。篤志は心配そうに、うろうろと落ち着きなく診察室を歩き回っていた。僕は見た目よりも元気だったので、その様子がどうにもおかしく愛しく思えた。
「涼弥さん、笑っていますね」
柏木さんにそう言われて僕は自分が笑っているのだと気が付いた。
「楽しそうで何よりです。死相が出ているよりずっと良い」
さほど興味もなさそうに柏木さんはそう言った。しばらく休むと体を起こせるようになった。僕は柏木さんに頼んでハコのカルテを持ってきてもらった。
点滴の管を繋いだまま、僕はカルテを読んだ。柏木さんは他の患者さんの応対に戻り、篤志はいつのまにか僕のベッドに突っ伏して寝息を立てていた。箱庭症候群。その名前の由来は定かではないが、与えられている手掛かりは限られている。ひとつとして見逃すことなど出来ない。
「……あった」
僕は思わず声を漏らした。これが僕の求めていたものだ。
古い記録の、その奥。前回は見落としていた記述。先々代の書き残した医療記録の、ほんの数行。
『凉平ノ血ヲ得ルコトニヨリ、ハコヲ恒常的ニ生ミ出スコトガ可能デハナイカ』
僕は心臓がギュッと締め付けられるような心地を覚えた。僅かに息を吸って、僅かに吐き出す。動揺を静めようとした。僕の足元で眠っていたはずの篤志が、僕のことを真っ直ぐに見詰めていた。
「篤志」
その瞳は、篤志のものではなかった。別の誰かのもの。篤志の中に入り込んだ、誰かの瞳で篤志は僕を見ていた。僕は唾を飲み込んで、呼び掛けた。
「凉平」
僕の声に、篤志は目を細めて笑った。心底嬉しそうに笑ってみせた。
その名前に心当たりがあった。
祖父の年の離れた兄の名前だった。
年の離れた兄がいたと、祖父の背中で聞いたことがある。僕と兄の関係に、自分たち兄弟の姿を重ねていたのかもしれないと、今になって思えば祖父の切ない心がそこにあったのではないかと思う。
「凉平兄さんは、しっかり者だった。年下の者たちは皆、凉平兄さんを慕っていたし、年上の者たちからも一目置かれていた」
瑞々しい稲穂の隙間でシロサギが佇んでいた。あれは、いつの夏だっただろう。
「涼弥の涼という字は、凉平兄さんから貰った」
祖父は実の兄のことを心から尊敬していたように聞こえた。だが、実際のところ、凉平というひとを巡っては穏やかな話だけではなかったらしい。
「凉平兄さんは忽然と姿を消して、皆で探したが、ついに見付からなかった。神隠しだとか、駆け落ちをしたという噂も流れたが、果たして今なお真相は分からない。あれは祭の夜のことだった」
祖父はそれ以上のことを語らなかった。
篤志の中から凉平が気配を出したのは僅かな時間で、すぐに篤志はまた突っ伏して眠り始めた。どうやらあまり長時間は出てこられないらしい。僕は篤志を指で突いてみたが、もぞもぞと動いただけだった。
これでひとつ、点と点を繋ぐ線が見えた。
悲しい過去が滲んで見えた。そこに手を伸ばしても良いのだろうか。凉平の辿った結末を知っても良いのだろうか。それは僕が触れても赦されるものなのだろうか。
僕の心は揺れていた。このまま進めば僕は、自分がハコとして生まれた理由を知ることになるだろう。そこに隠されてきた痛みも切望も。
夕方、弐羽醫院を後にした僕は自分の足で歩いていた。また時間を掛けて奥郷に戻った。古い映画音楽に篤志の想像は広がっていたし、霧雨も晴れて東の空の低いところに星が見えた。
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