八月四日 日曜日

 台所に立つ篤志の後ろ姿を僕は畳の上から眺めていた。曇り空はぐずついて、もう少しすれば雨が降り出すだろう。灰色の朝だった。

「リョウちゃん、何なら食べられそう?」

 篤志が冷蔵庫を覗き込みながら僕に聞く。そろそろ買い足さないと、食料が心許ない。

「牛乳寒天」

 僕は頭の中に浮かんだ食べ物を答えた。

「牛乳が無いな。桃を剥くか」

「缶詰の蜜柑なら戸棚の中」

「だから牛乳が無いんだってば」

 篤志は桃を片手に僕を振り返った。

「今日は出掛けられそうにないな。まあ、雨だし。買い物は後日として、今日のところはネットスーパーだな」

 うんうんとひとりで頷いて、篤志は桃を剥いた。スルスルと桃の皮が剥がれ落ちるように、その手付きは、あまりに手慣れていて、僕は思わず後ずさった。

 気のせいだと頭の中で否定しようとしても、違和感を拭い去ることなど出来ない。

 篤志は。

 篤志はそんなふうに、綺麗に桃は剥けない。握力が強すぎて、手が大きすぎて。それなら、これは誰なのか。口調は篤志だ、雰囲気も。だけど、何かが違う。どこか僅かにずれている。

「リョウちゃん」

 均等に切り分けられた桃が皿の上に並べられた。熟れた桃の良い香り。それを篤志は僕に差し出したが、僕が呆けたまま篤志を見ていたので、困ったように笑って机の上に皿をコトリと置いた。

「そう怯えずとも取って食おうというわけじゃない」

 篤志が、篤志の顔をした誰かが、目を細めてそう言った。

「篤志から出て行ってよ」

「それはまだ出来ない」

 すまない。誰かはそう言うと台所に戻っていった。まな板や包丁を洗う音。誰かは、僕がその存在に気付いていることなんて承知の上で、涼しい顔をして篤志の中に入っているのだ。まだ出来ないなんて、いつになったら篤志は元に戻るのか。そのとき僕はまだ生きていられるのか。

 曖昧なまま晴れない心。僕は不貞腐れながら誰かが剥いた桃を食べた。

 僕が食べ終わる頃には篤志はいつもの篤志だった。だけど、篤志と誰かの境界線や入れ替わる瞬間が分からない。篤志自身に自覚は無くたって、そのうち身体に不調が出てくるだろう。

 座敷童より、黒い箱より、何よりも篤志の中に潜む誰かの存在が今は怖い。敵か味方か分からないことより、僕ではなく篤志に影響を与えていることが酷く恐ろしいのだ。どうしたって敵わないと挑む前から分かっている。

 これは、呪いよりもタチの悪いものだ。

 昼前に雨が降り始めた。


 篤志に自覚が無いことは、唯一の救いかもしれなかった。

「篤志」

 僕は雨戸を閉める篤志に声を掛けた。

「明日、郵便局へ連れて行ってほしい」

 霧のような雨だった。篤志の黒くて短い髪の毛がしっとりと雨に濡れていた。

「原稿?」

「うん」

「それなら本郷だな。中郷に簡易郵便局があるけれど、本郷まで出たほうが良いよ」

「任せる」

「行きか帰りに、家に寄っても良いか?」

「うん、勿論」

 雨戸が閉まって部屋が暗くなる。予報ではこれから雨脚が強まるらしい。戻ってきた篤志にタオルを放り投げる。

「原稿、出来上がったんだ?」

 篤志がタオルで髪を拭きながら僕に尋ねた。

「もう少し、今日中に仕上げる」

「そっか、本が出たら教えてくれよ」

「あげるよ」

「自分で買うから大丈夫。リョウちゃんだって印税は大事だろ。その代わりサインして」

「分かった、白岡夕凪のサインはレアだから」

「はは、家宝にするよ。店に飾ろうか」

 その新刊が出る頃、僕はここに居ないだろう。この約束は果たされない。篤志は新刊を手に取って、その中に、自分とよく似た人物が描かれているのを見付けるはずだ。

 今の僕に篤志を幸せにすることは出来ないけれど、白岡夕凪ならばそれが叶う。物語の中で篤志は救われて、そこに僕が居なくたって、平穏と幸福が訪れるのだ。こんなこと、口には出せない。きっと篤志は怒るか、拗ねるだろうから。

 けれど僕は、この弱い手で残せるだけのものを残して去りたい。僕のすべてをもって、僕を愛してくれるひとたちに、ほんの少しでも良いから返せるものがあってほしい。それがたとえ空想の幸福だとしても、大切なひとたちの幸福を願う気持ちは僕だって同じなのだから。黒岡涼弥に出来ないことは、白岡夕凪の世界に託す。現実を想像で塗り潰す。

 どうか幸せになってくれ。

 雨が少しずつ強まり始めていた。


 寒い。僕は布団を被って震えていた。時計は午後五時を過ぎたあたり。雨戸を閉め切った外がどうなっているかは見えないけれど、叩き付けるような雨になっているのは音で分かる。遠く雷鳴が聞こえる。夕立よりももっと激しく、雨が世界を包む。

「リョウちゃん、ほら」

 篤志が温かい飲み物を入れてくれた。湯気の向こうに暑そうな篤志が見えた。扇風機を前にして膝を抱えている。

「とりあえず焙じ茶」

 扇風機は時々、カカカッと変な音を立てた。

「少し酒を飲むか? 寒気がマシになるかも……リョウちゃんって下戸?」

 酒を殆ど口にしたことのない僕は曖昧に頷いた。

「そっか、そりゃ駄目だ、この案はナシだ。それにこの家には料理酒くらいしか置いていない」

 篤志が口ごもる。酒屋の息子には酷だろうけれど、僕の場合、酒は百薬の長にならない。刺激が強すぎるのだろう。

「風呂に入るのも体力が必要だし、ひとまず、焙じ茶と布団で堪えて」

 どうしたものかと篤志は扇風機の前で唸る。医学ではどうにもならないことをどうにかするためには何が必要なのだろうか。ありきたりな奇跡か、使い古された幸運か。篤志が不意に手を差し出した。

「俺の体温、リョウちゃんにあげるよ」

 篤志の手が僕の手を握った。

 その瞬間、ぶわりと寒気とも悪寒とも異なる風が僕の身体を突き抜けた。いや、何も無い、だが、確かに貫かれるような、通り抜けるような、見えない何かを感じたのだ。痛みも無く、音も無く、その感覚は確かに僕に刺さった。

 僕は声も出せずに繋がれた手をただ見詰めていた。言葉が出てこない、この感覚を正しく間違いなく表現する言葉が見当たらない。

「リョウちゃんはあたたかいよ」

 篤志は、僕の体温を確かめるように目を閉じた。それが一瞬、篤志の中の誰かかと思ったが、そこに居て僕の手を握るのは紛れもない篤志だった。

「こんなにあたたかい命が、呪いなんかに負けるわけがないだろ」

 篤志はそう言ったが、それは違うと僕は思った。僕の命のあたたかさは、篤志や家族がくれたものだ。僕を生かすすべては、周囲からもらった愛情だ。僕はただの器に過ぎない。そこに愛情が溜まる。湛えられた愛情が僕の命を形作る。

「やりたいことがたくさんあって仕方がねぇよ。リョウちゃん、はやく良くなれ」

 目を開けて、篤志は僕を見据えた。慈しむような眼差し。どれほど真っ直ぐに育ったのか。深い愛情が、澄んだ友情が、里見篤志という人間のすべてが、眩しくて愛しくて、僕は自分自身の幸福に眩暈がした。

 ここに居るのが篤志で良かった。僕と一緒に居てくれるのが、篤志で本当に良かった。心の底からそう思える。

 心の底から、篤志を救いたいと、そう願える。強くなりたい、強くなりたい。座敷童も黒い箱も寄せ付けないほど強く、誰かの気配を消し去れるほどに強く。

 夏の雨が雨戸を叩いていた。


 雨音がうるさい。

 僕は薄暗闇の中で目を開けた。玄関の灯りが廊下から漏れて、部屋をぼんやりと照らしている。篤志の手は繋がれたままで、すぅすぅと小さな寝息が繰り返されていた。

 雨音がうるさい。

 僕は空いた手でスマートフォンを探り寄せた。画面の明るさに目を細める。午後十一時二十七分。両親からのメッセージと、兄からの着信。僕は眩しさに顔を顰めながら片手で不器用に返信した。

 雨音がうるさい。

 部屋の奥の暗闇を見詰め薄い呼吸を繰り返す。寒さは遠のいて、熱も無さそうだ。僕は解けない篤志の手を引っ張った。

「篤志」

 どれほど強く引いても篤志が起きない。僕は背筋がぞくりと震えるのを感じた。この感覚は篤志が気を失ったときのものと似ている。僕は部屋中に座敷童の気配を探した。しかし、この闇の中では何も見えない。

 雨音がうるさい。

「篤志」

 僕は篤志を抱き寄せた。呼吸はある。心臓が動いている。身体もあたたかい。本当にただ眠っているだけのようだ。

 背後の廊下が軋んだ。僕は篤志を強く抱えた。一歩、一歩。踏みしめて歩く音。やるならひとおもいに。痛みも無く、苦しみも無く、一瞬で息の根を止めてくれ。僕は諦めにも似た溜息を吐いた。

 クスクスと嬉しそうに笑う幼い声。ああ、座敷童だ。僕は顔を伏せた。座敷童が僕の背後に立った。はじめはこの存在がどれほど心強かっただろうか。ひどく昔のことのように思い出される。とうとう、この時が来たのか。僕は暗闇の中で笑った。

 ああ、座敷童。お前の勝ちだよ。

 座敷童が後ろから僕の顔を覗き込んだ。僕の絶望を心待ちにしていたのだろう。期待と悪意に満ちた笑顔が喜びを堪えきれずに歪んで笑う。

 次の瞬間。

 篤志の片手が座敷童の顔を掴んだ。

「やっと」

 僕の腕の中で篤志は起きていた。違う、この気配は、篤志ではない、誰かのほうだ。

「捕まえた」

 篤志も座敷童に負けず、憎悪の溢れた笑みを浮かべていた。篤志がこんな顔をするはずがない。強い意志の宿る眼差しが座敷童を強く射抜く。篤志の手が座敷童の顔をギリギリと締め上げる。その手から逃れようと座敷童が足掻く。僕を挟んで篤志と座敷童の攻防が続いていた。

「君たちはオレが居る時には寄ってきてくれないからな」

 低く唸るような篤志の声。喚く座敷童の甲高い声。

「それでもようやくこうして捕まえられた。この子の頑丈さと、君たちの早計さには感謝しないといけない」

 篤志の中の誰かは、ずっとこの瞬間を待っていたのだ。座敷童が僕の元へ来る瞬間を。その手が届く距離を。篤志の肉体を使って座敷童を捕らえる時を。

「オレの大切な者に手を出した、君たちの負けだよ」

 座敷童は言葉にならない悲鳴をあげていた。それは呪詛にも聞こえた。叫んで、喚いて、そうして弾けるように消えた。

 暗闇に静けさが戻った。

 腕の中の篤志がガックリと力を失った。

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