八月三日 土曜日

 朝、起きた篤志は普段通りで、別の何かの気配は無かった。けれど、出て行ったはずもないだろう。篤志の身体の、意識のどこかにまだ留まっているはずだった。気分が重い、でもそれを悟られるわけにはいかない。

 僕は縁側に座って柱にもたれ、中庭で布団を干す篤志を眺めていた。あの健康な肉体の、健全な精神の一体どこに、得体の知れない存在の入り込む余地があるというのだろう。座敷童も遠巻きに見ることしか出来ない、あの篤志のどんな隙間に。

「思えば布団が残っていたのも奇跡だよなぁ」

 白いシーツの向こう側で篤志が言う。

「布団はどんな家庭にもあるから、わざわざ持って帰らなかったんじゃないの。炊飯器とか扇風機とか、古いし。それに二階にはまだ荷物が少し残っているよ」

「それでもちょっとひどすぎるだろ」

 篤志は不満そうだった。

「俺が配達に来たときは鉄平さんだってテレビを見ていたぞ、大相撲。あと本を読んでいた」

「そういえばじいちゃんの蔵書、どこへ行ったんだろう」

 僕は空っぽになった祖父の部屋を思い出していた。本棚も空になっていたが、あの本棚には本がギッシリと隙間無く並べられていて、その中に僕の本もあったはずだ。僕の知る限り、親戚の中に熱心な読書家はいない。兄が持ち帰っていないのだから、本もまた売りに出されたのだろう。

 家を残せただけでも幸運だった。そう慰めるしかない。思い出は心の中に残るからなんて、笑えない。親戚たちにとってここは退屈な田舎だったのだろう。選択肢を求めて都会に出て戻らない気持ちも理解出来る。だが、それでもやはり、薄情にしか思えなかった。恐らくは誰も、二度とこの家には戻ってこないだろう。盆や正月に集まることもない。こちらから歩み寄るつもりもない。家の中を見れば分かる、祖父の葬式を思い出せば分かる。どうせ、その程度の関係だったのだ。

 ただあまりにも、圧倒的に、淋しい。

「何かひとつくらい残っているだろう、探してみるか。よし、今日は家の探検だな」

 シーツの向こう側から顔を覗かせて篤志はニッコリと笑ってみせた。その底の無いほどの、濁りの無いほどの、心の名前は何だろう。僕は傍にあったタオルを篤志に放り投げた。

「どこから探検する?」

 篤志は汗を拭きながら、小学生のように尋ねた。

「まずは、ばあちゃんの部屋。僕も入ったことなんて片手で数えられる程度だ」

 僕と篤志は祖母の部屋を訪れた。昼間の家は日光が射し込み、明るく、奇妙な気配は感じられなかった。どうせ行くなら、と篤志は濡れた雑巾で廊下を拭いてくれた。廊下に続く黒い筋が何の汚れなのかは説明せずに、埃か何かだと思うなんて適当に誤魔化した。

 祖母の部屋の入り口は襖で、下側だけに花の咲く水辺が描かれていた。それはきっと祖母の名前がいづみだったからだろう。襖はガタガタと開いた。

 部屋の中は空っぽだった。

「何も、無いな」

 僅かな期待が音も立てずに潰えた。篤志もどこか落胆した声で呟いた。

 僕は、祖母がどんなひとだったのかを知らない。遺影が飾られていた仏壇も叔父が引き取った今、写真もまた記憶の中だ。この調子だとアルバム一冊さえ見つからないかもしれないと、僕は希望を抱くのを止めた。

 部屋の奥のカーテンを篤志が開けた。南向きの窓からは幾筋もの光が射し込んだ。舞い上がった埃がキラキラと漂う。青々とした山が見えた。篤志が屈んだ。

「ここ」

 篤志が色褪せた畳を指差した。長年、重たいものが置かれてあったらしい跡が残っていた。

「ミシンがあったんじゃないか」

「どうだろう」

「明るい窓辺だから何か、趣味のことを楽しんでいたのかもしれないな」

 そう言って篤志はカーテンを閉めた。

 物が無くなってもなお、名残はあるのか。僕は少し気分が晴れた。そこにあった暮らしや、積み重ねた歳月は、部屋が空っぽになったくらいでは消えない。無かったことにもならない。祖母は、祖父は、その先祖もまた、この家で暮らしていた。たくさんの思い出があった。それらが僕には見えずともきっと、ずっとこの家に宿り続けるだろう。

 僕たちは二階へ向かった。

 何も無くなった一階とは違い、二階には物が散らかっていた。扇風機や懐中電灯を探したときにも入ったが、古かったり壊れかけていたりと、雑多な物があれこれと詰め込まれた物置になっていた。僕がこの家で暮らしていた頃は、この部屋で生活をしていたように思うが、それももう二十年も前のことだ。何もかも同じままではいられない。

「何が見つかったら良いなって思う?」

 風変わりな置物や取っ手がひとつ無くなった棚を押し退けて、篤志が奥へと進んでいく。埃っぽいので僕は出来るだけ窓の近くに立っていた。篤志の姿はすぐに見えなくなった。声だけが届いてくる。

「何だろう、家系図とか? 出てきたらびっくりするかも」

「あるかぁ?」

 それから暑さに音を上げるまで篤志は二階を探検してくれたけれど、結局見つかったのは、家系図ではなく、里見酒店の古いチラシだった。篤志はそれを満面の笑みで僕に見せた。

「こんなもの、うちでも見たことねぇよ」

 手書きのチラシはいつのものか定かではなく、色も茶色に変わっていたが、篤志はとても満足そうだった。

「見てみろよ、ここ。うわばみ大会だって。大酒飲みよ集えって書いてある」

「里見家は酒豪の血筋なんだな」

 篤志がとても上機嫌だったので、僕もなんだか嬉しくなった。

 午後からはまた僕は原稿に向かい、篤志は帳簿と向き合っていた。先日までのお中元と、これからのお盆の影響で、里見酒店も色々と金品の出入りが多いらしい。

 僕は篤志との日々を書くことにした。祖父と同じく、篤志のことも書き残しておきたいと思った。きっと、篤志と僕にしか分からない暗号のような物語だ。誰の手も届かない、夏の話だ。

 俯き加減の篤志をじっと見詰める。案外細い睫。文字を書くときに唇を噛む癖がある。字は右肩上がり。首の左側にホクロ。瞳の色は黒に近い焦げ茶。

「リョウちゃん」

 伏せ目のままで篤志が言う。

「照れる、やめてくれ」

 僕が観察していたことに篤志は気が付いていた。

「篤志、好きな色は?」

「色? 紺色とか藍色とか、群青とか」

「深みのある青か」

 なるほど、確かに篤志の車も紺色だ。僕は原稿用紙を裏返して、物語に登場する篤志の人物像を書き込んだ。

 たとえ、そう遠くない日に僕が死んだとしても、篤志がいつか僕を忘れたとしても、あるいは何十年も先、篤志が旅立ったとしても。白岡夕凪の世界で篤志は生き続ける。里見篤志とは異なる名前で、同じ魂で。

 そんな言葉を紡ぐことが出来れば僕は、どれほど幸いなことだろうか。


 三時半頃、例の如く僕の熱が上がって座敷で横になっていると、近所の渡辺さんがやって来た。

「若いのに祭りへ行かんのかと思って見に来たら、大丈夫かい」

「いつものことなので」

 僕が曖昧に笑って答えると、はぁ難儀だねぇと渡辺さんは肩をすくめた。

「乗り合いのマイクロバスで神社へ行くんだが、その調子だと無理そうだな」

「僕にはお構いなく、どうぞ皆さん、楽しんできてください」

「いやぁ、病人を残して行くのも心配だ。どれ、人を呼んで来よう、足の悪いじいさんばあさんでも居ないよりはマシだろう」

「あ、それには及びません」

 僕は庭先の篤志の車を指差した。

「ああ、里見酒店の倅のほうな、そりゃ安心だ」

 渡辺さんはホッとした様子で何度も頷くと去っていった。渡辺さんの姿が見えなくなった頃、篤志が台所から戻ってきた。

「マイクロバスで行くの、この辺の住民」

「え、何が?」

 タオルを交換する。篤志が持ってきてくれた冷やしタオルが心地好い。今まで使っていたほうはすっかりぬるくなっていた。

「お祭り。さっき渡辺さんが来てくれたよ」

「ああ、そうだな。列車の時間が無いから、奥郷や上郷からはマイクロバスとか大きめの車とかで乗り合わせて行くけど」

「篤志、行きたかったんじゃないの」

「俺はいいよ。何度も行っているし、行ったところでどうせ、力仕事を手伝わされるだけだから」

 リョウちゃんこそ、と篤志が僕の傍に腰を下ろす。

「本当は行きたかったんじゃねぇの」

「あの神社に? 嫌だよ」

 僕が答えると、それもそうだなと篤志が笑った。

「でもさ、気分だけでも味わえるように、今度、家から浴衣を持ってくる」

「着付け出来るの」

「まあ、それなりに、見様見真似ってやつ?」

 その言い方から察するにあまり得意ではないようだったが、僕は篤志の厚意に甘えておこうと思った。

「ありがとう、楽しみにしている」

 僕が答えると、篤志はおおらかに笑って団扇で僕を扇いでくれた。

 しかし、六時を過ぎた頃から、次第に僕の体調が明らかに悪化しはじめた。熱が高く目の焦点をうまく定めることが出来ない。呼吸をするだけでもつらく、苦しさに僕は丸まっていた。

「リョウちゃん」

 篤志が僕を呼ぶ。氷枕は冷たさを感じて楽になるが、それも一瞬のことで、すぐに熱が上塗りしてくる。近所のひとたちはこぞって祭へと出掛けて、この辺りには僕と篤志のふたりだけが取り残されている。まだ明るい外の風景にも確かに夕暮れは迫っていて、僕は庭に座敷童を探す気力も無かった。

 胸が痛い。痛みのあまり止まってしまうのではないかと思うほどだ。シーツを握り締めて痛みを堪えようとする。痛いと口にすることさえ出来ずにいた。

「リョウちゃん、しっかり息をしろ」

 篤志が背中をさすってくれても、僕はうまく呼吸が出来ない。喉が閉ざされたようで、肺が詰まっているようで、強く押し込まれるような圧迫感が僕の息を阻む。

 マヤさんが泊まりにきたあの夜に感じた痛みとどこか似ていた。同じかどうかは分からない。とにかく、痛みが感覚のすべてで、息苦しさで視界が滲む。

「息を」

 篤志の手が僕の背中に触れた。僕よりも低い体温は冷たいとさえ感じられた。

「小さな隙間から送り込むように、細い筋を想像するんだ」

 落ち着いた声が僕に降り注ぐ。僕は食いしばった歯の隙間から息を漏らすように吸って吐いた。

「空気を揺らさないように、僅かな息を絞り出すように。波が静かに寄せて、引くように。そよ風に柳がわずかに揺れて、また、戻るように」

 僕は目を固く瞑って何度も静かな呼吸を繰り返した。そうして呼吸をするうちにやがて痛みが引き始めた。

「そう、いい子だ」

 その言葉が僕の全身を凍らせた。楽になった息も止まる。痛みに隠されて気が付かなかった違和感が、今、僕の身動きを封じていた。

 いい子だ。そう言って僕をあやす声は、背中に添えられた掌は、一体誰のものなのか。僕は、この口調を知っている。篤志ではないと、知っている。

 今、僕の背後に座っているのは。

 ざわざわとした悪寒に、僕はシーツを掴んでいた手を伸ばして枕を手繰り寄せた。そしてその枕に顔を突っ伏す。見ない、聞かない、話さない。拒絶だけが今の僕に出来る精一杯だった。

 背中に触れた手は、ぐしゃぐしゃと僕の髪を乱して、そして離れた。

 そして、静寂。

 僕はゆっくりと枕から顔を上げた。熱はあるが、痛みは消えていた。虫の音、星空、風鈴、ぬるい風。ただの夏の夜だった。僕は寝返りを打って篤志を振り返った。

 篤志は膝を抱えて座っていた。遠く、庭を見詰めている。その視線の先には夏の庭があるだけで、他には何も見えない。

「篤志」

 僕が呼び掛けると、篤志は僕を見た。

「どうした、リョウちゃん」

 そう首を傾げた篤志は、いつもの篤志で、僕は安堵とともに、言いようのない不安を覚えた。誰かはまだ、篤志の中にいる。外に出てきていないだけで、篤志の奥の、どこかにまだ潜んだままだ。

 座敷童とも違う、黒い影たちとも異なる、その正体は何なのか。篤志に害を加えているのか。どこから来たのか、どうすれば篤志の中から出て行ってくれるのか。

 篤志を呼んで、何も言えずにいた僕は、けれども何か言わなければならないと、一度視線を外してから、再び篤志を見た。

「君は、幸せか」

 僕の口から零れたのは、そんな言葉だった。篤志はキョトンとした顔で瞬きをした後、ふふっと笑った。

「本当にどうした」

 篤志が僕の頭に手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと髪を乱した。その手つきは、やはり先程の手とは異なっていた。

「心配しなくても、俺は幸せだ」

 慈しむような、その手が声が、瞳が、僕を救ってくれる。僕の立つ場所に光を与えてくれる。

 いつか、そのすべてを手放さなければならないときが来るだろうと、僕は篤志を見据えた。その時、きっと僕は、自らこの手を解くだろう。

 遠くの空がいつもより明るいのは、夏祭りの光だろう。町中のひとがあの光の下に集っている。祭囃子が聞こえるだろうか。祝っている、望んでいる。

 僕の命を呪っている。


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