08 最後の夏をとじこめて

 無慈悲にも時計は回って、時刻は昼前の十一時。時計をちらりとみながら、ひとみはため息をついた。昨日の今日で美術室に来てくれるかはわからないが、あと一時間もすれば萩本がやってくる時間になってしまう。冷房の中火照った頬が存在を主張する。

 昨日は、なんとなく全てうやむやのまま、萩本とひとみは別れてしまった。よく見れば、昼食を持っていなかった萩本は、また明日だかなんだかといって、そのまま帰ってしまったのだ。自分が何を言ったかも萩本が何を言ったかも最早曖昧。本当になにかに酔っていたのではないかとひとみは思った。あのとき飲んだサイダーが酒だったのではないかなんて、ありえないことを考える。高校に設置された自販機で買ったサイダーが、ラベルもちゃんとサイダーだったそれが酒だったなんてことがもしも本当にあったなら、それは全国ニュースになって良いレベルの事件である。ひとみは現実逃避がてら、どうでもいいことばかり考えていた。

 実際、雰囲気に酔っていたのかもしれないけれど、とひとみはため息を吐いた。夏休みに入ってからずっと制作していたお城の絵は、集中できないにもほどがあるからと今日は書いていない。学校に来ているのに、二日間も作業を進めないなんてちょっと前のひとみには考えられなかった。スケッチブックを開いてざかざかと様々なものを書き殴り、やり場のない気持ちを発散させる。

 2回、だ。

 その場の勢いで2回もキスしたなんて誰に言えただろう。付き合ってもいない男子と、まだ仲良くなって1週間程度の男子と、キスだなんてと思い出す度顔が赤く染まる。昨晩はもちろん寝付けるはずもなく、ばっちりと目の下に隈ができていた。女子高生にしてはさっぱりお洒落に気を使っていないひとみでも、これはまずいと母親に隠してもらった。

 昨日と今日のトータルで、何十回目かのため息を吐いた。

 まさか昨日の今日でここに来るとは思えないけれど、もしも顔をあわせてしまったらなんと言おう。

(今日はいいお天気ですね、………なんて。これじゃまるで馬鹿にしてるみたい)

 今日は、生憎の雨だった。もしかしたら、そもそも部活動自体が中止されて学校にいないかもしれない。そう思うと、少しだけ安心した。顔を合わせたくないわけじゃないが、心の準備が、


「杉村さん!」


 がらりと扉が開いて、同時に声が飛び込んでくる。驚いてがたりと椅子から落ちたひとみは床に背中を打ち付けた。パレットを持っていなかったから良かったものの、これが絵の具を扱っているときだったら大惨事待ったなしである。ひとみはとりあえず、画材に被害がないことに安堵した。

 起き上がろうと片手を動かしたとき、その手が萩本に取られた。ぐいと引っ張られ、思わず女子らしくもない悲鳴があがってしまう。軽々と持ち上げられてその場に立たされたひとみは、目をぱちくりとまたたく。萩本は、ばつの悪そうな表情だった。

「あり、がと……」

 ひとみが細々とそういうと、我に返った様子で首を振った。「今、いいか」と端的に問われて、ひとみはためらいながらも頷いた。


 昨日と同じ場所に、ふたりで体育座りした。

 ふたりとも口を開こうか迷っているようだったが、先に声を出したのは萩本だった。昨日よりははきはきと、真っすぐな声色だった。諧謔を含んだその喋り方も、勢いも戻ってきている。

「杉村さん、昨日のこと覚えてる?」

「………覚えてるよ」

 寝ぼけていたと思われたのだろうか。もっとも寝ぼけていたことに変わりはないが、まさか本当に酔っぱらいでもあるまいし記憶くらい残っている。

「とりあえず、ごめん。嫌な思いさせた」

「………嫌、だった、わけじゃ」

 ない、と言いかけて、喉に言葉が張り付いた。嫌だったわけじゃない。それはつまりどういうことなのだろうか。ひとみは頭がまた混乱してきた。ようでもないことを考えすぎるのはひとみの悪い癖だ。

 萩本は、ひとみが言葉を詰まらせたのを見てか、口を挟む。

「それでさ」

「……はい」

 そこで、萩本はまるで何かの覚悟を決めるように深呼吸した。つられたひとみは、無意識に緊張して息を止めた。

「俺さ、夏休みの前からさ、………絵に、まっすぐな、杉村さんが好きだったんだけど。………杉村さんは、どうかな」

 あんな最低なことした後に言うことじゃないんだけど、と萩本は付け足した。昨日とは別の色のリストバンドに額を押し付け、体を縮こまらせるように俯く。言葉尻がどんどんと小さくなっていく萩本の言葉に、ひとみは思わず萩本をじいと見つめ返した。

 ____すき、スキ、……好き。

 その言葉は、ひとみのこころにすとんと落ちた。好きの意味がなんだかわからないほどお子様ではないつもりだ。ふわと羽が生えたような心地と、早鐘を打つ心臓。隣にいる萩本に心音が聞こえてしまうんじゃないかと心配になるくらい、どきどきと鳴り響く。

 夏休みの前から、というのは本当だろうか。どこで絵を描いているところを見られたのだろうか、絵に真っすぐだなんてどうして知っているのだろうか。どうして、私なのか。聞きたいことは山ほどあふれ出したけれど、今言うべきはそれじゃない。正直、そんなの関係ない気もしていた。一週間でここまで、人を好きになるのもおかしな話だ。なんでと問われれば、ひとみにはわからない。そしてそれでいい気もしていた。惹かれ合ってしまったのなら仕方ないような、そんな気もしているのだ。

 そして今は、そんなことよりも大切なことがある。

 胸の痛みの正体も、キスが嫌じゃなかったのも、すべてこの言葉にまとめることができるのだ。




「………私、も」


 すきだとおもう。 



 その言葉に、萩本が顔をあげた。

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最後の夏をとじこめて 深瀬空乃 @W-Sorano

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