猛烈な吐き気に襲われトイレに駆け込む。卵とニラだったものの残骸は、溶岩のようにどろどろと指の間から便器へと滴った。

 理香は作るのも食べるのもオシャレな洋食が好きで、娘たちが小さな頃にはほとんど洋食しか食べさせなかった。なのに、どうして娘がニラ玉なんてものを作るようになったのかは分からない。

 ――同じ卵料理なら、オムライスでも作ればいいのに。あんたって、ほんと気が利かないわよね、千沙、、

 鬱に悩まされる母親への気遣いが足りない娘への罵詈雑言が、何度唇を割りかけたかは分からない。理香はこみ上げる苛立ちを、オイスターソースが少々利きすぎた炒め物と一緒に、何度も何度も嚥下した。

 私は娘の事故死を悲しむあまり、心を壊した愛情深い母親なんだから、全然好きじゃない娘の手料理も笑顔で完食しないと。と、自分で自分に言い聞かせながら。

 そういえば、千沙は昔から、盆と正月に夫の実家に連れて行くと、義母の煮物を嬉しそうに頬張っていた。つまり、千沙の舌は義母に似たのだから、自分と味覚が合わないのも道理である。



「ママ。おばあちゃんのごはん、美味しくない。美沙ちゃんはこんなの食べたくないから、今すぐミートスパゲッティを作って。お願い、ママ!」

 娘たちが小学校四年生の時の正月。他の親戚も集まっている最中に、大声で義母の料理を貶してぐずった美沙を宥めるのに必死で、その時は千沙なんかを気にしてはいられなかった。

「ねえねえ。美沙ちゃんおなかぺこぺこなんだよ? なのに、どうしてごはん作ってくれないの?」

 ――もう十歳だってのに、自分のことをちゃん付けで呼ばないでって言ってるでしょ。恥ずかしい。

 頬を赤くした理香と同じことを思ったのか。義母によく似た義妹は、似合ってもいないのに流行りのルージュを塗った唇を歪めた。

「……もうすぐ高学年だってのに、〝美沙ちゃん〟って。まだ小学生にもなってない明奈だって、自分のことはわたしって言ってるのに」

 ――理香さん、一体どんな教育してるんですか? いくらお勉強ができても、これじゃあねえ。

 義妹の嘲りと義母の視線に耐えきれず、理香は美沙の手を引っ張ってマンションへと急いだ。買い置きしていたミートソースをかけただけのスパゲッティを、美沙はニコニコ笑顔で「ママの手作り、美味しいね!」と完食した。

 帰宅してから十分も経ってないのに、ミートソースを作れるわけがない。そんなことも分からないなんて、この子の頭は大丈夫なんだろうか。この子、学校で虐められてやしないだろうか。

 満腹になった後、呑気に昼寝を始めた娘の頭を殴りたい衝動が入り混じった不安は、的中した。学年が上がってから、美沙は学校に行く時間になると、頭痛や吐き気を訴えるようになったのだ。熱を測ってみても、全くの平熱なのに。

 美沙は折角クラスで一番頭がいいのに、ズル休みなんかしたら授業に遅れて、一番ではなくなってしまう。そう説得して無理やり学校に送りだした娘を迎えに来てくれと、担任の先生から電話がかかってくることも度々あった。そして理香はある日の迎えの際、唇を噛みしめた美沙の担任から、衝撃的な事実を打ち明けられた。

「……美沙が、いじめにあってる?」

 クラスでアンケートを取ってみると、「喋り方がウザい」「トロい」と美沙が揶揄われている所を目撃した、との回答が幾つか寄せられたのだという。美沙とはクラスが違う、男子たちとも仲良く遊んでいる千沙は、全く気づいていなかったけれど。

 クラスで起きた問題は、親ではなく担任の責任だ。どんなことがあろうと、美沙がクラス一の秀才でなくなるようなことはあってはならない。だから理香は、美沙が学校に行きたくなさそうにしていたら、無理に来させなくてもとの担任の意見は無視し、美沙がどんなに嫌がっても登校させた。だって、一番じゃなければ私の自慢の美沙じゃないから。娘が学校で虐められているなんて知られたら、マンションのお隣さんたちになんて馬鹿にされるか分からないから。

 あの夏休み、二人では怖いからママも川に付いてきて、と目に涙をためた美沙は、正直鬱陶しかった。五年生にもなって泳げないのは自分が悪いのに、理香をこれ以上煩わせないでほしい。

「ごめんね。ママ、今忙しいから、二人で行って来てちょうだい」

理香は、美沙の「お願い」を断った。それからもしばらく美沙はぐずついていたが、理香はテレビで芸能ニュースを見ていたから、何を言っていたのかはまるで覚えていない。

「……ねえ、ママ。ママは、ほんとは美沙ちゃんのこと嫌いなの?」

 ただ、最後の一言だけは、僅かながら耳に残っている。それが、理香が聞いた美沙の最後の声だった。

「……美沙が、足を滑らせて川に落ちたの。わたし一人じゃ美沙を助けられそうにないから、大人のひとを呼びに行ってたら、その間に……」

 千沙はわたしが泳ぎに行こうなんて誘わなければと泣いていたが、理香は美沙の死は虐めを苦にした自殺ではないかと考えている。つまり美沙は自殺することで、理香に復讐したのだ。理香は、このしみったれた田舎で朽ち果てるのが嫌で、何としても東京に進学して、東京の男と結婚するために、死ぬほど努力したのに。

 理香の頑張りや我慢の全ては、美沙のせいでパーになってしまった。本当に可哀そうなのはつまらない理由で死んだ美沙じゃなくて、娯楽も何もない故郷に、気が利かない可愛げが無いもう一人の娘と一緒に閉じ込められた理香だ。

「……お母さんが川遊びについて行ってれば、こんなことにはならなかったでしょうにね。可哀そうにね」

 なのに周囲は、皆一様に美沙ではなくて理香を責める。だから理香はある日我慢の限界に達して、遠巻きに自分を見つめる千沙の新しい小学校の保護者たちの前で、こう叫んだ。

「……死んだのは美沙じゃなくて千沙よ! あの子は泳ぎが上手だから、私が危ないから止めなさいって言ったのに無視して、川に行って溺れて死んだの!」

 そしたら、周囲の自分を見る目はがらりと変わった。「子供を亡くして、心と体を病んだ、可哀そうなお母さん」として周囲から扱われるのは思いのほか快感で、理香はその設定と演技に次第にのめり込んでいった。それらしく見えないと気づいてからは、東京にいた時と同じようにしていたメイクはやめた。眩暈や吐き気に襲われ、どんどんやせ細っていく身体を見せびらかしたくて、外出する際はあえて露出が多い服を選んでいるけれど。

 理香は、不遇に置かれてもたゆまぬ努力を重ねている。だけど、近所の田舎者たちは皆頭が悪いし目が節穴だから、理香を本当の意味では評価しない。

「賢太郎さんのお孫さんは、本当にエライよね……」

 千沙がいるから。千沙のせいで、理香は一番になれない。体調を崩すほど一人で頑張っているのに。

 ――千沙さえいなければ。

「はい、ママ。冷めないうちに、早く食べてね」

 こみ上げる嫉妬の念を抑えながら見つめたニラ玉を運んでくる娘は、顔も背格好も昔の自分そのものだった。その時理香は、自分が一番になる方法を、東京に戻るための、とっておきの手段を思いついたのだ。

 上京前夜の娘を殺し、庭に埋めて、自分が千沙として上京する。そうすれば、理香は夢にまで見るようになった東京に戻れる。

 よく手入れされた包丁に映る顔は、数キロ太って今風のメイクを施せば、十分に十八歳で通るだろう。長年の食欲不振のため、理香は今でも若い頃と変わらない体型を維持しているから、今時の服も似合うはずだ。夫とはもう五年以上顔を合わせていないから、余裕で誤魔化せるに決まっている。そして理香は、若くてカッコいい男にちやほやされる、夢のキャンパスライフをやり直すのだ。

 月明かりに照らされた台所でくつくつと笑う理香は、ふと三角コーナーに目を留めた。どうしてこんなところに水仙の花なんかが捨てられているのだろう。しかし生ごみに紛れたピンクチャームに注意していられたのは一瞬で、理香はもうすぐそこに待ち受ける輝かしい生活を夢想し、足取りも軽く階段を上がっていった。二階の、ピンクで統一された千沙の部屋へと。

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ピンクチャーム 田所米子 @kome_yoneko

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