ピンクチャーム
田所米子
娘
ネットで買った流行りのブーツを履いて玄関を開けると、甘い早春の薫りに包まれた。三人親子には少し小さい家は、母と娘だけで暮らすには広すぎず狭すぎず丁度いい。父は仕事の都合で八年前からずっと、一人東京のマンション住まいを余儀なくされているから。
母の両親。つまり祖父母が家賃を出してくれている一軒家の、家と同じく周囲に比べれば見劣りする広さの庭は、風に揺れて甘い香りを漂わせる水仙に埋め尽くされていた。
一般的な水仙では黄色か橙色をしている筒状のでっぱりは、甘ったるいコーラルピンクに染まっている。いや、この色はコーラルではなくピーチピンクだっただろうか。どちらでも構わないし、今となっては訊いて確かめようもないけれど、少し気になる。
――あとで、あの子に聞いてみようかな。返事は絶対に返ってこないけれど。
この心の中での呟きは絶対に口に出してはいけないし、人に聞かれてもいけない。特に、薄汚い桃色で清潔な白を台無しにしている花に肥料をやる女には。
「ママ」
意識して絞り出した甘ったるい声につられてか。紺色の厚手のセーターに覆われた痩せた背が振り向いた。
「美沙ちゃん」
染みと皺がくまなく散った汚らしい笑顔が乗せられた顔は、それでも美沙が大好きだったママには変わりない。
「ピンクチャーム、今年も綺麗に咲いたね」
「そうでしょう? だってママ、今年も美沙ちゃんのために頑張ったんだもの」
――四月はもうすぐだけれど、まだ少し風が寒いのに、そんな薄着で外に出ちゃいけないわ。
くすんだ唇を尖らせた母は、いつかテレビで見たミイラそっくりに痩せた肩からショールを外し、
「明日からこの家に独りになるなんて、信じられないわ。ほんとうに、子供が育つのはあっと言う間」
馬鹿げたピンクごと涙ぐむ娘を抱きしめた。
「……身体、冷えてるよ、ママ。私よりひどい」
腕を回した背には、毛糸越しにすら分かるほど、はっきりと背骨が浮き出ている。これでは骸骨を抱きしめた方がまだましなのだが、突き放すことはできなかった。
「今日も具合悪いんでしょ? 晩御飯まで横になって、休んでたら? ご飯は私が作るから」
「でも、こんな日ぐらい、私が、」
半分はどうせ嘔吐され、トイレに流されると分かり切っている夕食だが、拵えるのは案外楽しい。来るべき大学生活のため。いつかできるかっこいい彼氏に、仕事で疲れて帰ってくる夫に、可愛い子供に褒められるために。
母は、八年前の夏から家事のほとんどを放棄し、水仙の世話に専念するようになった。その母の代わりを果たしてきた自分の料理は、美味しい方だろう。少し己惚れが入っているのかもしれないが、母も「このニラ玉、好きだわ」と褒めてくれる。
「……こんな日だからこそ、母親孝行させてくれてもいいでしょ? ……ほんとは、ママを残して東京の大学に行くなんて嫌。できればママも一緒に東京に帰って、パパと三人で暮らしたかったけど、」
「……ごめんね、美沙ちゃん」
「ううん。いいの。おじいちゃんたちと、お医者さまに止められちゃったなら仕方ないよ。環境が変わるの、病気に良くないんだもんね」
今日もニラ玉作るから、たくさん食べてねママ。
あの子がいた頃はダイヤを煌めかせていた耳元で囁くと、骸骨はようやく棺桶――もとい、ベッドに入る気になってくれた。
「じゃあ私、ちょっと買い物行ってくるから」
元々そのつもりだったのに、母のせいですっかり出発が遅れてしまった。
家から徒歩で十分ほどの一画に佇む、小ぢんまりとしたいかにも田舎のスーパー。その主人であり、たった一人の店員である木下おばあちゃんとは、世間話をする仲だった。夏の暑い日にはアイスをおまけしてくれる木下おばあちゃんはいい人だ。
「美沙ちゃん。その耳、どうしたの? 可愛いねえ。一足先に大学生になったみたいだよ」
現に、木下おばあちゃんは、母などよりもよほど自分を見てくれている。
「ママに貰ったんです。生まれも育ちも都会の子に負けないぐらいオシャレしなきゃだめよ、なんて」
ピアスホールなんて最初からなかったかのような耳には、ピアスなんて必要ないだろう。だいたい、今の母にダイヤなんてもったいない。
こっそり母の宝石箱から抜き取ったピアスは、今は自分の耳にある。長く伸ばした髪に隠しているから中々分からないだろうけれど、褒められるとやはり嬉しい。気分が高揚すると店の売り上げに少しでも貢献したい気持ちになって、ついつい余計な物までカゴに入れてしまう。
「おっ、今日もニラ玉だね?」
玉子のパックが会計済みのカゴに移され、その下に隠れていた板チョコが露わになると、レジを打つ手が止まった。
「美沙ちゃんはほんとにいいお姉さんだね……」
千沙が好きなメーカーの、赤いパッケージのチョコが行き着く先を、この人がいい店主はずっと知らないままだろう。
「じゃあ、また来ますね」
「あ、ちょっとまっておくれよ、美沙ちゃん」
木下おばあちゃんとはまた会えるのだから、さよならは言わなくていい。あえて普段通りに店を出ようとすると、押し殺した声で呼び止められた。
「こういうこと、ほんとはあんまり言いたくないんだけどね」
――だったら口に出さずに、全部自分の胸の中に仕舞っておけばいいのに。私みたいに。
ふと過った苛立ちはほんの些細なものだったし、木下さんの表情からも何か大変なことが起きたのは察せられたから、足を止めざるを得なかった。
「美沙ちゃんのお母さんね、この間もここにタバコ買いに来たんだよ」
「……そうですか」
なんだ、そんなことか。
思わず緩んでしまった頬は、素早く伏せて隠す。そうすれば、木下おばあちゃんの目には母の不品行を恥じる娘として映るだろう。
未だどこかに男尊女卑のカビが生えているこの町では、女が喫煙するだけでも大事で、親類全員が赤っ恥をかくことになる。まして母は、身体ではなく心を病んでいるのだ。祖父母は恥の上塗りを知れば、今すぐにでも母を実家に連れ戻そうとするかもしれない。それはそれで構わないが、今日ぐらいは母と二人きりにしてもらわないと困る。
「ママの楽しみはタバコだけなんです。だから、おじいちゃんたちには黙っていてくれませんか?」
頭を下げると、木下おばあちゃんは困ったような声で応えてくれた。
――東京でも頑張ってね、美沙ちゃん。
木下おばあちゃんは、美沙が大好きだった苺味のチョコをおまけしてくれた。その善意にもう一度頭を下げると、今度は温かな笑い声が聞こえてきた。
はやる心のままに足を動かし、一応の用心のためにかけていた玄関の鍵を開け、水色で整えられた部屋に飛び込む。
小学校五年生の女児が好みそうなキャラクターグッズがいくつか置かれた部屋には、少女の好みには決してそぐわないインテリアが一つだけある。だが、ここにいると安らげるし、本当の自分になれた。居るだけで頭が悪くなりそうなピンクで、ごてごてと飾り立てられた部屋とはやはり違った。
「これ、木下さんから貰った、あんたが好きな苺のチョコだよ」
自分にそっくりな――もっと正確に表現すれば、八年前の自分と瓜二つの少女が微笑む仏壇に、ピンクのチョコを投げつける。
「大好きなピンク貰えて良かったね、お姉ちゃん」
赤いパッケージを剥ぎ取りミルクの板チョコに被りついても、泣きじゃくって自分からチョコを取り上げてきた双子の姉――美沙はもういない。
昔は地元一の美人と呼ばれていたという母に似た千沙と姉は、見た目だけは鏡に映したようにそっくりだった。一卵性の双子だから、当然のことではあるけれど。でも中身は正反対で、男子たちに混じってサッカーも楽しむような千沙とは、美沙は全然違った。
おとなしくて聞き分けがよくて、塾に行っている子なんていくらでもいた東京の学校でも、クラスで一番頭が良かった双子の姉。美沙は、学校ではいつも一人で本を読んでいた。大好きなピンクのフリフリのワンピースを着て。
秋だったか、それとも冬だったか。もういつのことだったかぼんやりとしか思い出せないある日。昼休みになり、友達と一緒に一目散に校庭にかけていく途中にすれ違った美沙は、いつも通り馬鹿に仕切った目で千沙を見下してきた。
「千沙ちゃんてさあ、いつ見ても猿みたいだよね。男子たちと一緒になってギャーギャー騒いでて」
その暴言が鼻にかかって妙に間延びした、いわゆる「ぶりっ子」の口調で言われたからこそ、腹が立って仕方がなかった。だから千沙は、つい美沙を平手で殴ってしまった。
「先生、助けて! 千沙ちゃんが美沙ちゃんを虐めるの!」
そしたら、家で二人きりの時にとっくみあいの喧嘩をする時は五発殴っても泣かない姉は大粒の涙を流し、通りすがりの女性教員の腰にしがみ付いた。自分は、その時持っていた分厚い花の図鑑で、千沙のみぞおちを殴ったくせに。
結局その喧嘩は、たわいもない姉妹のいさかいということで終わりにされた。でも最初に手を出した千沙は、担任の先生にこっぴどく叱られて、その日は結局サッカーをできなかった。それに、しょんぼりしながら家に帰った千沙は、母にも叱られた。美沙は先回りして帰宅して、自分に都合がいい証言を母に吹きこんだのだ。
「どうしてお姉ちゃんみたいにいい子にできないの⁉」
「……ごめ、」
「女の子は運動なんてできなくていい。女の子は勉強さえできればそれでいいのよ。なのにあんたは、ちょっと運動できるからって、得意になって美沙を虐めるなんて! 頭だけじゃなくて性格も悪いのね!」
最初にちょっかいを出してきたのは、美沙のほうなのに。痛い思いを沢山したのは、千沙のほうなのに。
「一体誰に似たのかしら! 美沙は私に似て女の子らしい、いい子なのに。……ああ、そうだ。お義母さんだわ。あの人の、私を田舎者って馬鹿にする時の目と、今のあんたの目そっくりだもの」
母は千沙の言い分なんて聞こうともしないで、千沙の顔や体を何発も殴った。
「あんたみたいな悪い子に食べさせてあげる夕飯なんてないわ。美沙、千沙の分のハンバーグも食べちゃいなさい」
「ありがとう、ママ!」
仕事が忙しく早くても八時にしか帰宅しない父と、部屋に籠った千沙がいない、母と美沙だけの食卓の会話は楽しそうだった。
「ねえ、ママ。美沙ちゃん、またテストで百点取ったんだよ! すごいでしょ? だから、ご褒美ちょうだい!」
「……本当? だったら、何がいいかしら? ママ何でも買ってあげるわ」
「そしたら、あのね、本で見かけたんだけど……」
その晩美沙がねだったものは、程なく家にやってきた。
「千沙ちゃんは、こんな花があるなんて知らなかったでしょ?」
「そりゃそうよ、美沙ちゃん。千沙はお外で遊んでばっかりで、本なんて教科書以外は一冊も読まないんだもの。でもそれにしても、美沙は何でも知ってて偉いわね。実を言うと、ママもこんな綺麗な水仙があるなんて知らなかったわ」
ピンクチャームなんていう、馬鹿馬鹿しい名前の水仙の球根。小学生なのだからチューリップでも育てればいいのに、母に褒められるためにわざわざ水仙なんて花を選んだ双子のあざとさが、千沙は心底嫌いだった。
「美沙ちゃんは本当に頭がいいわね。美沙ちゃんならきっと、将来はお医者さんか弁護士さんになれるわ。そして、沢山お金を稼いで、ママに楽をさせてね」
「うん、ママ」
「美沙ちゃんは頭がいいだけじゃなくて私に似て可愛いから、きっとお金持ちと結婚できるわ。でも、お金持ちだからって、見た目がイマイチな人は選んじゃダメよ。ママ、ブサイクな孫は欲しくないから。だって、そんなの生まれたら、ご近所さんに笑われちゃうでしょ? だから、美沙ちゃんは、絶対にかっこよくてお金持ちな人と結婚してね。ママとの約束よ?」
「うん!」
美沙がいるから、千沙は母に愛されない。だったらいっそ、美沙なんていなくなればいいのに。
それから何日も。何か月もかけてひっそり練り上げた計画を実行したのは、千沙が小学校五年の夏のことだった。
幼稚園生の頃に一回訪れたきりの母の故郷。祖父母の家のすぐ裏には鬱蒼とした樹々が茂り、まだ青い稲穂の間から蛙が飛び出す田舎に千沙たちが訪れたのは、母の叔父の初盆があるからだった。
『お前、小さかった頃はあんなに可愛がってもらってたってのに、正次郎の葬式に来なかっただろ。せめて初盆に線香でも供えねえと、近所の連中から薄情者って噂されっぞ』
祖父から説教するような電話がかかってきたから、母も重い腰を上げずにはいられなかったのだろう。こうして母の実家に三、四日ほど滞在することになった千沙は、少し仲良くなった近所の子に「とっておきの場所」を教えてもらった。流れは緩やかだけど、小学生の女児ぐらいはやすやすと呑みこむ深さがある川を。
この好機を、絶対に逃したくない。決心した千沙は、喜び勇んで美沙を呼びに行った。
「ね、お姉ちゃん。泳ぎに行こうよ」
視界に入れるだけでも寒気がする外出用のピンクのワンピースと、花の飾りが付いた水着を準備して、姉の手を握る。
「え、いやだよ。だって美沙ちゃんは……」
「でもお姉ちゃん、このままずっと男子に馬鹿にされたままでいいの?」
クラスでただ一人の泳げない子供だった美沙は、密かにそのことを気にしていたのだ。
「わたしが教えてあげるから、今年こそ泳げるようになって、お姉ちゃんのクラスの男子たちを見返してやろうよ!」
唯一のコンプレックスをくすぐれば、勉強はできるけれど馬鹿な姉は簡単に頷いて後を付いてきた。姉を誘いだすための文句をあれこれ考えてきたのが、馬鹿馬鹿しくなるぐらいだった。
「ここなら、思う存分練習できるでしょ?」
だから、思い切って飛び込んでみて――などとは言わずに、水着姿になった姉の背を思い切り押す。すると姉は悲鳴を上げもせずに、清らかな水を湛えた淵に呑みこまれた。
懸命にもがいていた小さな手足が動かなくなったことを確認し、千沙は川から一番近くの家に飛び込んだ。
「お願いします! 助けてください! お姉ちゃんが、川に落ちちゃったんです! このままじゃ、お姉ちゃんが!」
その日その時その家にいたのは、
「ごめんなあ。俺がもっと早く走れてたら、助けられたかもしれないのになあ……」
お爺さんが美沙を助けられなかったのは、お爺さんの責任じゃない。なのに、まるで自分が美沙を殺してしまったような顔をしたお爺さんの顔は、これ以上見ていられなかった。だから千沙は突っ伏して、片割れの死に泣き叫ぶフリをした。そうしないと、計画が思い通りにいった喜びを抑えきれずに、噴き出してしまいそうだったから。
「あんた、賢太郎さんの孫だろ? 東京で結婚した、理香ちゃんの双子の子供の」
「……」
「俺は賢太郎さんとは昔から仲が良かったんだ。なのに、申し訳ないことしちまったな……」
――あんたも悲しいよなあ。お母さんの腹の中から一緒にいた片割れが死んじまって。
お爺さんが、涙と共にぽつりと零した言葉に震えたか細い腕を、どのように解釈したのかは分からない。ただお爺さんは、泣き疲れて一言も話さなくなった可哀そうな子供の代わりに、祖父母に美沙の死を伝えてくれた。それも、電話じゃなくて、直接祖父母の家に行ってまで。
インターホンを鳴らすなり、真っ先に出てきたのは母だった。母は、「蚊に刺されると、痕が残って嫌だから」と、美沙にお願いされても川遊びに付いてこなかったのだ。
「……済まない、理香ちゃん」
いきなり頭を下げてきた、父親よりも年上のお爺さんに、母は怪訝な顔をした。けれど、つい先ほど起きた悲劇を知るやいなや、実家にいるというのに完璧にメイクを施した顔を蒼ざめさせた。
「――っ、ふざけないで! 美沙は死んだんじゃない! 弥吉さん、あんたに見殺しにされたのよ! 返してよ! クラスで一番頭がいい、私の自慢の美沙を返して!」
鬼のような形相でお爺さんに掴みかかった母の肩を掴んで止めたのは、深い悲しみを湛えた目を怒りで吊り上げた祖父だった。
「理香! お前、これ以上ふざけたこと言ったら、この家から叩き出すからな!」
「でも、お父さん、だって……」
「そんなに言うなら、お前が川遊びに付いてってれば良かったんだ! 川が危ないことは、美沙たちよりもお前が良く分かってただろ⁉ お前、子供の時に川で足滑らせて溺れかけたもんな。なのにお前は、蚊が嫌だなんてつまらねえ理由で子供を放って、テレビの前にばっかり張り付いてて……」
祖父に頬を張られると、母は流石におとなしくなった。
「これは事故だ。不幸な事故だ。誰も悪くはない。だけど、あえて美沙の死に一番責任があるヤツを選ぶとしたら、それはお前だ、理香」
がっくりとうなだれた母を家の中に引きずって行った祖母は泣いていた。祖父も。
「……ごめんなあ、弥吉さん。嫌な思いさせちまって。俺たち、一人娘だからって理香を甘やかしすぎたんだ」
涙で濡れた謝罪の言葉を吐き出し、祖父も家の中に入っていった。ほんの五分ほどの間にめっきり老け込んだ背中に、千沙はこう思った。大人を騙すのって、結構簡単なんだな、と。
悲劇はあまりにも急に起きたから、美沙の葬儀は母の実家で行われることになった。
千沙の心を映したような、快晴の日に行われた葬儀で印象に残っているのは、
「……田舎は虫が多くて嫌になるわね。蝉は煩いし」
「母さん。お義父さんとお義母さんに聞こえるだろ」
「別に聞かれたってどうってことないわよ。だって、本当のことなんだもの」
父方の祖母のうんざりとした口調。
「それに、こんな時だってのに、理香さんはよく化粧なんてできるわね。どうせ汗で落ちるでしょうに」
そして母の、美沙が死んだ日以上に完璧に化粧をした顔だけだった。
「美沙を死なせた理香さんには、千沙を任せられません」
葬式の後、骨だけになった美沙の前で、父方の祖母は頬にうっすらとチークを塗った母を非難した。
「理香さん。あなたもう、千沙と一緒にここに引っ越すといいわ。そしたら、私も昭二も安心できる。なんたって、そちらのご両親が近くにいてくださるんだもの。ね、理香さん。それでいいでしょう? あなたも、ご両親の近くにいた方がいいでしょう?」
「おお、そうだな、理香。とはいえここじゃあ小学校から遠すぎて千沙が大変だから、学校近くに家を借りるといい。確か、一軒いいのがあった」
母は一瞬不満げに口を開いたが、反論は祖父によって素早く封じられてしまった。こうして千沙は母と、美沙の形見の一つになったピンクチャームの鉢と一緒に、母の田舎で暮らすことになった。だけど、母は程なくしておかしくなった。
「はい、美沙ちゃん。朝ごはんよ」
千沙が最初に気づいた異変は、世話をする人間がいなくなってくたびれていたピンクチャームに、水をやりながら微笑む母の姿だったと思う。それから母は、まるで美沙が生きているように振る舞った。ある日は美沙のお気に入りだったテディベアの口にパンを擦りつけて。またある日は美沙のランドセルにコーンスープを垂らし、またある日はピンクチャームの鉢にオレンジジュースを注ぎながら。
毎日ころころと変わる「美沙」。けれどもやはり一番美沙に選ばれるのは、美沙にそっくりな千沙だった。
「美沙ちゃんとお買い物に行くなんて、久しぶりね。ねえ、美沙ちゃん。今日は何が食べたい? ママは、美沙ちゃんが大好きなマッシュルームを沢山入れたサラダと、エビフライなんていいと思うんだけど」
田舎町のスーパー・木下商店に、缶詰ならまだしも美沙が好きだった生のマッシュルームなんて、売っているはずがない。木下商店は東京の品ぞろえ豊富なスーパーではないのだから。
千沙がそう説得しても、母はマッシュルームを探し続けた。だけど一時間以上もかけても見つけられなかったから、母はその場に座り込んで泣き出した。まるで、お菓子を欲しがって駄々をこねる三歳児みたいに。千沙は、一言もマッシュルームが食べたいなんて一言も言ってないのに。
「どうして⁉ どうしてマッシュルームがないの⁉ この子がこんなに食べたがってるのに! 美沙ちゃんは妹が死んだばっかりで、心が傷ついてるのに。心の傷を癒すためにも、好きな物を沢山食べさせてあげたいのに!」
いつの間にか、母の中では死んだのは美沙ではなく、千沙ということになっていた。
千沙は泳ぎが上手だから、私は危ないからやめなさいといったのに、私の言うことを無視して川に行って、溺れて死んだ。これが、母が練り上げた真実だった。
「……千沙、千沙! どうして死んだの? 帰って来て。私と美沙ちゃんの所に帰って来てよ! そして、一緒に東京に帰りましょう?」
棚に陳列されていた商品の幾つかを床に放り投げ、大げさに泣き喚く母の様子に、木下おばあちゃんは涙ぐんだ。
「可哀そうに。娘さんが死んだのがあんまり辛くて、心が壊れちゃったんだね」
東京から来た小学校五年生の女の子が川で溺れ死んだ事件は、今では町では知らない人がいないぐらいに広まっていた。だから当然、木下さんも知っていた。千沙が、溺死した少女の片割れであることを。
「片付けは私がやっとくから、今カゴにあるもののお会計を済ませて、お母さんを早くお家に連れて行ってあげな」
木下おばあちゃんは微笑むと、パールホワイトのマニキュアを綺麗に塗った爪を買い物カゴから外し、カゴの中身を手早くレジ袋に移し替えた。
「これ、おまけしとくね。色々大変だと思うけど、お母さんを頑張って支えてあげてね」
最後に、千沙が買い物カゴに入れたけれど、「千沙はもう死んじゃったのよ」と母が棚に戻したミルクの板チョコを、袋の中に滑り込ませて。
「ね、美沙ちゃん」
母の故郷に引っ越して、千沙は一つ気付いたことがある。田舎のジジババにとっての近所の子供など、つきつめれば面識がある誰か――例えば千沙なら、「賢太郎さんのお孫さん」でしかない。
木下おばあちゃんも、誰かと今日の千沙のことを話す時は、きっとこう呼ぶのだろう。ほらほら、あの子。賢太郎さんのお孫さん。事故で双子の片方が亡くなって、お母さんもそのせいで心の病気になっちゃって、都会からこっちに引っ越してきた子。あの子、偉いんだよ。病気のお母さんの代わりに、できる家事は全部やって。お姉ちゃんが死んだのは、自分だって――あれ、川に落ちたのは妹さんのほうだったっけ……? それにしても、まだ小学五年生だったってのに、可哀そうだよねえ……。
って。つまり究極的には、ご近所さんにとっても死んだのが千沙だろうが美沙だろうが、どちらでもよかったのだ。
だけど、木下おばあちゃんの優しい笑顔を目に映した途端、千沙の胸の奥では喜びが弾けた。他者から注目されるのは、いい子だと褒められることは、こんなにも心地いいことだったのだ。
木下商店からの帰り道。三種類のブルーを使って、グラデーションと目元の奥行きとやらを出していたマスカラを涙でぐちゃぐちゃにした母は、嫌でも通行人の視線を引きつけた。だけど、千沙は気にならなかった。むしろ、もっともっと注目されたかった。そのためには、母にもっともっとみっともなくなってもらわないといけない。
未成年の千沙はアルコールを摂取したことはないけれど、酔うとはこんなものなのだろう。慣れればもっと強い刺激が欲しくなるし、「それ」を知る以前の味気ない日常には戻れなくなる。だから、千沙は考えたのだ。美沙が死んでからのこの二か月余りで、ゾンビみたいにくたびれてしまったピンクチャームの鉢を抱きしめ、大騒ぎする母を横目で見つめながら。
「大変! 誰か助けて! 美沙ちゃんが!」
美沙を殺した時よりも、もっと。ずっと、真剣に。
「死んじゃう! 私の自慢の美沙ちゃんが……そうだ、救急車!」
ああ、今日の美沙はそれなんだ、とぼんやり考えながら。
「お願いします! 娘が、娘が死にそうなんです! 早く来て!」
その日、救急車に連れていかれたのは結局、母だった。千沙は、美沙の生前と少しも変わらない母の後ろ姿が白い車に吸い込まれる様を、騒ぎを聞きつけて集まって来たご近所さんたちと一緒に見守ったのだ。
「……賢太郎さんとこも大変だなあ。お孫さんが死んだだけじゃなくて、一人娘がおかしくなっちまっただなんて」
「でも、それにしてもこの子は偉いなあ。まだ小さいのに、自分だって辛いだろうに、お母さんを励まして」
ご近所さんたちの、同情の眼差しを浴びながら。
――そうだよ。わたしはエライでしょ? だから、もっとわたしを見て。誰でもいいから、わたしを褒めて。美沙なんかより、もっとずっと頭がいいわたしを褒めて!
喜びに紅潮した頬を、嘘泣きで隠しながら。
「浜田さん! 落ち着いてください! 娘さんはお元気ですから!」
「あなたたち、何言ってるの⁉ 美沙がこんなに辛そうなのに、病院に連れて行ってくれないなんて。それでも救急隊員なの⁉」
母と救急隊員の乱闘に巻き込まれ、ピンクチャームの鉢は割れてしまった。激高した母が、鉢を救急隊員に向かって投げつけたけれど、あえなくかわされてしまって、がちゃん、と。
その上、母のちりばめられたラインストーンが煌めく赤いミュールで踏みにじられた水仙を、千沙はイチかバチか地植えにした。するとピンクチャームは持ち直した。どころか、大繁殖していった。対照的に、母は痩せ衰えて醜くなっていった。まるで、あの日の枯れかけのピンクチャームみたいに。
母が美沙の死――ではなく自らの失態から目を逸らすべく、その最大の証たる仏壇を押し込んだ、本来の千沙の部屋から出る。
美沙の死の数か月後から、度々原因普通の嘔吐や下痢、発汗などに悩まされるようになった母は、現在街の精神科に通院している。自分の心身のバランスが崩れたのは、娘の千沙の死の哀しみに耐えられなくなったからだと、どこか自慢げに悲劇のヒロインの顔を張りつけて。鬱を言い訳に、一切の家事を放棄して。自分が世話をしている水仙こそが、全ての原因なのだとは考えもせずに。
「ねえ、ママ」
処方された睡眠薬を呷ったのか、まさしく死体のように眠る母の寝顔に唾を吐く。
綿がはみ出たぬいぐるみを抱きしめて病院に行く母は、とっくの昔に唯一の存在ではなくなっていた。どんなに頑張っても、千沙を見てくれない母なんていらない。今の千沙には、木下おばあちゃんを始めとするご近所さんや、学校の先生、それにSNSで知り合った友人たちがいる。
千沙の自撮りをいつも可愛いと褒めてくれる画面の向こうの友人たちは、ある意味ではリアルの知り合いよりももっとリアルな存在だった。彼らは、たとえ夜中でも千沙が下着姿をアップすれば、すぐにいいねを押してくれる。オープンキャンパスのついでに会ったそのうちの一人はとてもいい人で、制服姿でセックスをしただけで、千沙が欲しかったアパレルのポーチをくれた。
貰ったポーチも含め、千沙の荷物のほとんどは東京の父のアパートに送った。だから、この家に残っているのは、母も含めて全ていらない物だということになる。ゴミを放っておいたまま旅立つのは気が引けるから、きちんと処分しないといけない。母も含めて、全て。
今宵、母は焼死する。実家の両親の不安をよそに寝タバコを習慣としていた母は、火の始末を誤ってしまう。そして悪いことに、就寝前に睡眠薬を飲んでいた母は逃げ遅れてしまうが、娘の千沙は間一髪のところで火の手を逃れる。それが、千沙が書いた悲劇の筋書だ。
上京直前で母を喪った悲劇は、大学でも瞬く間に広まり、千沙はより多くの視線を浴びせかけられるだろう。その中には、未来の彼氏や夫のものも含まれているかもしれない。東京は人が多いから、何となく付き合った歴代の彼氏たちの、ヘタクソで独りよがりなセックスを忘れさせてくれる素敵な人が沢山いるはずだ。
母のライターで灯す火はあの水仙も燃やし尽くしてくれるだろうか。
そっと撫でたこけた頬は、やはり大嫌いなピンクチャームめいていて。早く美味しいニラ玉を作ってママに食べさせてあげなきゃ、とひとりでに零れる笑みを抑えられなかった。
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