ある日、マックにて。 - 怪談としての都市伝説の、緩やかなる終焉について -
糾縄カフク
電子社会における怪談としての都市伝説の、緩慢なる死に関する考察。
某マックにて。
隣に座っていたJKの会話。
「返信ない時点で、脈なしって気づけよって感じ」
「こっちからは言えないしさー」
「わかるわかるー」
短いスカートにキメられた化粧。青春を謳歌する女子高生たちが、随分とはしゃいでいるのが分かる。どうやら脈なしにも関わらずLINEを送ってくる男を、見せびらかし茶化しているらしい。元々が目に毒なのはともかく、こうなると男としては耳が痛い。だがそれから暫くして変わる話題に、私は絶句し呆ける羽目になる。
「彼からLINE来なくなって……なんでかわかんない……」
「ほんと、なんでだろねー」
「話さなきゃ分かんないよね……なんで返信ないんだろ」
おいおいと私は思った。さっきまでその理由をしゃべくってたばかりじゃないか、と。存外に我が身に置き換えて考えるのは難しいのかも知れないが、それはアレだ。君自身も脈が無いのだ。
そう言いかけて喉元で飲み込んだ私は、その時の体験をこうしてネットにしたためる訳である。
――というのは。
一昔前に流行った「マックと女子高生」という
尤も。
古くからネットに親しんでいる者としては、それらの出典の多くが2ちゃんねるやふたばに転がっており、以前見たネタの焼き増しや蒸し返し、という事実は数多ある。或いはTwitterで一度廃れた話題が、数年してまた流行する、またはパクツイされるというケースもあるだろう。
私が小学生の頃は、ノストラダムスの予言が吹き荒れ、それに呼応するかのようにオカルトが持て囃された。学校の怪談と聞いて心ときめくのは同志だろうと慮る所ではあるが、悲しいかな、その手の都市伝説は、今では殆ど聞く事がなくなってしまった。
肖像権の侵害、写真の加工、イカサマやペテンの類。以前はあれだけお茶の間を賑わせていた心霊番組も、気がつけば数える程しかやっていない。理由としては、電子技術の発達により、誰でも写真を弄れるようになってしまった事も挙げられる。写真という媒体を残す習慣が廃れてしまった結果かも知れない。ともあれ「あるかも知れない」恐怖は「もはやあり得ない」フィクションにまで落ち込んでしまった。
木造校舎のひんやりとした感じ。古いトイレの据えた臭い。懐中電灯を照らしながら、震えながら当直を終えた時代。林間学校。黒電話。ラジオ。蝉の声、それから。
またたく間に世界を覆った電子の網は、日常から闇や間を殆どといっていいほど奪い去った。手紙、公衆電話、現像、ダビング――、待つ事で、或いは人の手が加わる事で生じていたラグ。そこに紛れ込むノイズ。それらは全てが明瞭となり、代わりに誰しもが怪異を演出する手段を得た。PCソフト、さらには加工アプリ。ただでさえあやふやだった
だからこの時代に「怖い話」を復興させようという試みは、悲しいかな不発に終わる。一方で「かつて恐怖だったもの」は、見世物小屋で笑いを誘うキャラクターとして、辛うじて延命を図る事が出来た。幼い頃ビクつきながら見ていたリングの貞子が、伽椰子と一緒にマスコットとして巷に現れるなど、全く予想だにしていなかった。絶対恐怖の対象だった存在が、いつしかこちら側に引きずり出されてしまった事には、些かの寂寥を感じる所でもある。
とはいえ、はじめから都市伝説が廃れた訳ではない。LINEやTwitter、写真加工アプリが出回る前、すなわち掲示板や2ちゃんねるがネット交流の主流だった時代は、そこにはまだ「闇」があった。
名も知らぬ不特定の第三者が語るからこそ信憑性を増す「未だ見ぬ恐怖や伝承」それらは「コトリバコ」「八尺様」「くねくね」「リゾートバイト」などは、その時期に生み出されたものだ。
だがそれらも、Twitterという光を浴びる事で急速に色彩を損ない、ブームとして時代を席巻する程の力を、獲得するには至っていない。
都市伝説が都市伝説として成立するには、幾つかの要因があるが、その最初のラインは「あるかも知れない」という「もしも」の共感だ。ここを踏み越えられなければ、全てはただのフィクションとして片付けられてしまう。
するとやはり、怪談に類する伝聞は、力が弱まっていると体感せざるを得ない。よく回ってくるのは、冒頭に示したような「いるかも知れない一般人」を題材とした小話のみ。それがつまるところ、現代の都市伝説の限界とするならば、怪談としての都市伝説は、復興する事は叶わないだろう。
畢竟するに。科学の発達が神への信仰を奪ったように、照らされる光が闇への恐怖を拭い去ってしまったのだ。だから寂しいかな「身近な人と人の物語」こそが、今なり立ち得る辛うじての都市伝説――そう呼ぶに相応しい。
或いは、あまりに社会で摩耗した結果、既に死した誰かより、今目の前で起きている事象のほうが恐ろしいという現状もあるかも知れない。例えば「社畜と幽霊」に代表されるような――、寧ろ人間に比べれば、霊のほうがまだ可愛いという認識である。
日々というものが退屈で恙無いからこそ、芽生えてくる未知への関心。そんな関心すらも芽生えさせない殺伐とした社会もまた、怪談としての都市伝説が成立しない背景にあるとすれば、それは余りにも世知辛い事実だろう。
残念ながら私もまた、荒涼たる社会にあって、幽霊よりも人が怖いという結論に至ってしまった一人だ。現在住んでいる物件も、駅から二分の戸建てにも関わらず三万円台。大島てるを開けば、がっつり火の点いた一軒家だ。それでもそのお陰で生活費を節約し創作に励める訳で、まあ、少々の事があったとて多目に見るべきと腹をくくっている。とまれ、僕の私の都市伝説に推薦できるほどの小話は、特に用意できない事を謝罪したい。本作を以て、都市伝説に関する一考と代えさせて頂く。
ある日、マックにて。 - 怪談としての都市伝説の、緩やかなる終焉について - 糾縄カフク @238undieu
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