COUNT(S1,S2)=2

 病院に駆けこんだのは、面会時間は既に終わり入院患者が歯を磨いている時間だった。ナースステーションは忙しい時間帯なのか無人で、あたしは咎められることなくサッちゃんの個室まで滑りこむことができた。


「……さへほっ?!」

 サッちゃんも歯磨き中だった。黒糖飴みたいな大きな瞳が、あんまり見開きすぎておっこちそうだ。あわててうがいをし口元をタオルで拭い、サッちゃんは不審な様子で尋ねる。当たり前だ。

「こんな時間にどうしたの、お母さんに何かあった」

「ううん、そうじゃない。突然来て、びっくりさせて、ごめんなさい」

 あたしは息を整えながら、この後の言葉をどう切り出そうかと考えあぐねていた。


 サッちゃんが、まるで泣いた子に尋ねるようにやさしくあたしの顔を覗き込む。

「……桔平クンと、喧嘩でもした?」

 そのやわらかい声に、蘇るものがあった。懐かしい匂いのする風が吹いてきて、小さな頃のことが芋づる式に思い出された。


 小さな頃、よく膝を擦りむいた。血は出たけれど擦り傷で、虚弱なサッちゃんが怪我をすることに比べればたいしたことではないと誰にも言わず遊びを続けた。それがあたしの普通だった。そんなあたしに「冴子、怪我してるでしょ? 膝見せてごらん」とただ一人気づいてくれるのは、ほかならぬサッちゃんだった。

 バナナをくれるときだけじゃなかった。サッちゃんはいつだってあたしの姉だった。


 小さかった、あの日みたいに泣きそうになる。このまま子どものように泣きじゃくってしまって、ただサッちゃんの妹であり続けたかった。こっちの水は甘い。できるなら全身を浸して潜ってしまいたかった。

 けど。


 ——離陸せよ!


 大好きなバンドと数万人の観客に後押しされてやってきたのだ。髪の毛一本ほどの意地があたしを立ち上がらせた。

 今日、いま、言わなければ、面会時間後の病院に滑りこんでまでやってきたこの勢いで言ってしまわなければ、あたしはもう、二度とこの決意を言い出せない気がした。




「サッちゃん、あたしね、決めたことがある——あたし、サッちゃんに、腎臓を、提供しようと思う」



 あたしの言葉に、サッちゃんの動きが完全に止まり、能面の、漂白されたような顔になった。


 打ち明けた事柄の重さにつりあわないようなサッちゃんの無反応に、あたしは内心で焦る。

 ——喜ばないの? ほしくてしかたのない、腎臓でしょ? 姉妹なら、適合率も他人より高いはずだよ? あたしがせっかく申し出ているのに、どうして、サッちゃんはそんな顔するの。なんで、自分が腎臓取られる人みたいな顔するの。あたしが、どんな気持ちでここに来たと思ってるの。どうして何も言ってくれないの。ねえ、何か言ってよ。このまま何も言ってくれなかったら、あたしはどんどんいたたまれなくなってしまう。時間とともに、あたしの動機の屈折と醜さが、漂白の白のなかから浮かび上がってきてしまう。


「冴子」

 長い沈黙ののち、やっと、サッちゃんが口を開いた。

「……ありがと。気持ちだけ、もらっとく」

 勢いこんで決意しやっと伝えた内容の割には、サッちゃんの返事はあまりにありきたりであり、寂しい答えだった。


 そのあまりにありきたりであり無難であるような、漂白の白さに、あたしはかあっと逆上した。


「そんな悠長なこと言ってる場合? 今回数値、悪かったんでしょう。 入院の間隔だって短くなってきてる。筋肉もどんどん痩せてきてる。体重は変わらないっていうけど、血圧低すぎて、透析でむくみ取りきれてないだけだって知ってるよ。サッちゃん、本当はわかってるんでしょう。 決して——いい方向には、向かってないって」

 あたしは言ってしまってから、ここまで言ってよかったのかと急に不安になった。とにもかくにも踏み越えたら戻ってこられない、そういう一線を越えた、そういう感覚だけがあった。


 サッちゃんが、ぐうっと険しく眉根を寄せる。

 やっと、サッちゃんの表情が変化した。どんな方向であれ、サッちゃんに動きが生まれたことに、あたしは救われる気持ちになった。


「……わかってるよ」

 やっと口を開いたサッちゃんの声は、微かに震えていた。

「わたし、冴子のお姉ちゃんなのに、してもらってばかりで……その上、冴子から腎臓なんて、貰えない。冴子、腎臓1コになったら、健康管理大変だよ? 好きな人の子どもを産むことだって、簡単じゃなくなるよ? ……わたしは、冴子が受け取るはずの未来を損なってまで長生きしたくない——そんな価値は、わたしの命にはないの」

 あたしはサッちゃんの言葉に、耳を疑った。あたしは思う。命の価値なら、あたしの方が絶対に軽い自信がある。命の重さが平等だなんて生ぬるいことを言うつもりはさらさらない。周りからの大事にされ具合、これから見込まれる日本文化に対しての影響と貢献度、何より凡凡たるあたしの存在がサッちゃんとの間で意味をもたらされることにおいて、サッちゃんの命は当然にあたしより重い。いいとこ取りの大衆でしかいられないあたしにとっては、周りの評価に関係なく世界の一部に良さを見出して深い拘りを持てるひとの命は、地球より重いとさえ思う。

 あたしが好きな人の子どもを産む権利があるというならば、それはサッちゃんにも与えられるべき権利だ。サッちゃんだって、好きな人と思い切り肉体を使って汗をかいて恋愛したいはずなのだ。桔平と会ってからのサッちゃんの変化は、サッちゃんも三次元の肉体を持ったれっきとした女であることを証明するものだ。健康な肉体を持つか持たないかだけで、あたしが優勢になるのは、フェアじゃない。たとえあたしの生きるリスクが上がっても、サッちゃんが好きな人と恋愛して出産できるならば、あたしは腎臓を提供して、サッちゃんとフェアな地平に立ちたい。


 そこまで考えて、あたしは気づいた。


 フェアな状態で、あたしはサッちゃんと戦いたいんだ、ということに。


 それは小さくは桔平をめぐってであるような気もするし、もっと大きなものをめぐってであるような予感もする。


 命の価値が低いと思っているのに、フェアで戦いたいなんて、あたしは、どうかしている。どうかしているけれど、たぶんこの気持ちはどちらもほんとうだ。わかっているのは、このねじれは、サッちゃんが健康にならなければ、ずっと手付かずであるままのような気がする。


 あたしは、大衆代表として大衆らしい答えをすることにした。

「サッちゃん。あたしは命の価値が何かなんて深く考えたことがない。そんなこと、あたしにはわからない」

 サッちゃんの眼差しが、あたしをまっすぐとらえる。少し、意外そうな表情にも見える。

 あたしは続ける。

「でもね、価値とは別に、動かないことがある。サッちゃんには、人生を生きる権利がある。その権利をどうするかは、サッちゃん次第。あたしには、腎臓を提供する意志がある。サッちゃんが、それを受け取るかどうかは、サッちゃん次第」

 思いがけずサバサバと割り切った言葉が口から出てきたことに一番驚いていたのは、あたし自身かもしれない。違うの、サッちゃん、ほんとうはあたしはあたしでなくサッちゃんの方に生きていてほしい——でもこれを言いだせば泥仕合が避けられない。それを無意識裡に察知して、つい突っ張ったような、本音とは少し離れた言い方になってしまったのだと思う。


 それを聞いたサッちゃんが、やっと眉をほどいて、にっこりした。

 え?

 こんなに突き放すような表現をしてしまったのに、どうしてそんな安心した顔をするんだろう。


「冴子、知らない間に大人になっていたんだね」

 そこには寂しさは微塵もなく、ただ慈しみと感慨のようなものが満ちていた。

「価値、じゃなくて、権利がある、か。いい考え方ね。そうだね、与えられたものの中で、わたしがどう生きるか。冴子がどうとかはたぶん言い訳で、それはわたしの問題、なんだよね」

 サッちゃんの、真っ直ぐでまじりけのない、いつもの笑顔が戻ってきた。


 あたしがドームを飛び出してきたときは、せめてはんぶんこして、意味のあるものになりたかった。

 でも、今は違う。

 はんぶんこすることで、1と1になる。

 サッちゃんには、バナナを一本食べる権利がある。

 そして、それはあたしにもある。

 こう思うのは、あんまり、慣れないけど。

 サッちゃんの笑顔は、明るい匂いがする。真っ直ぐなサッちゃんが決めたように歩いていけば、それは間違いのない選択のような気がする。


 サッちゃんの返事は保留だった。

 それはそうだろうと思う。

 あたしも、これから親に相談しなければならないし。親はきついだろうな。もしかしたらそのハードルが一番高いかもしれない。


 夜勤の看護師さんに見つかってしまって、がっちり注意を受けた。

 にもかかわらず、晴れやかな気持ちであたしは病院を後にした。夜風が涼しい。気持ちの勢いのまま助走をつけ、低いガードレールを飛び越えてみた。


 思ってもみないところまで、跳べたな。

 不思議と、桔平があたしの約束を優先しなかったことなどはもうどうでもよくなっていた。


 *


 付き合って以来はじめて、桔平が「迎えに行くよ」と言ってきた。てっきり自転車で迎えに来るのかと思っていたら、なんと、ミニクーパーに乗ってきた。

「……桔平。あんた、車持ってたの?! 」

「義理兄からのレンタルっス」

 義理兄。ミニクーパーなんて、揃いもそろって趣味人だ。中にもいろんなおもちゃがあるみたいだ。きっと桔平と義兄さんは合うんだろう。

 あたしがあたりまえのように運転席側に歩きだして、桔平が慌てはじめる。

「いやっ! そうじゃなくてっ! 冴子さん、今日はこっちっス」

 え?

 助手席の扉を全開にし、桔平があたしをエスコートする。

 中には助手席が、あたしの席が、1人分。ちゃんと用意されている。

 おもてなしのかわいいクッションが置かれた1人分の座席スペースが、くらくらするほど目に眩しい。

「今日は俺が運転するよ。冴子は、今日はただ座っていて、一日お嬢さまでいてちょうだい」

 いったい、どういう風の吹きまわしだろう。そう思いながら、恐る恐るあたしは慣れない助手席に腰を下ろす。

 うわっ。

 当たり前だけど景色が左だ。慣れない。目の前にもからだの前にも遮るものがなんにもない。空間が広くてまさに「何もない」。あたしは、ひどく落ち着かなくなった。

「桔平、せっかくだけどなんか、すごく落ち着かない。運転、代わって」

「か わ り ま せ ん」

 桔平が、きっぱりと言った。こんなに断言する桔平も初めてだった。あたしは、何がなんだかわからなくなってしまう。

「冴子が助手席に慣れるまで、運転席は禁止にします」桔平はそう言って、ニッと笑ってアクセルを踏んだ。


「なんで?」

 海沿いの道を走りながら、あたしは尋ねる。

「——幸子さんに、腎臓提供するって言ったんだって」

「サッちゃん、桔平に言ったんだ」

「幸子さんが心配してた。俺と冴子に何かあって、ヤケを起こしてるんじゃないかって」

 ——まあきっかけとしては、当たらずと言えども遠からずだ。サッちゃんの慧眼には、まったく恐れ入ってしまう。

「桔平は、サッちゃんが腎臓もらって元気になったら、嬉しい?」

 桔平は顎をさすりながら答える。

「そりゃあ、幸子さんが元気になってくれるのは嬉しいさ。でも、そのために冴子の健康な身体にメスを入れる、っていうのは、心配になる」

 ああ、また万人受けのわんこみたいな答えをしてる、とあたしは内心思う。あたしの身体のことなどはとっくに承知してるからいいのだ。

「桔平、もちろんリスクはわかってる。そこもひっくるめてこの選択、桔平はどう思う。桔平は喜ばしいことだと、思う?」


「なんで、主語が俺なの」桔平は、厳しい顔になった。

「冴子が、納得して、どうしたいかじゃないの。俺が嬉しいかとか、こんな大事な時になんでそこなの。冴子は、もっとよく考えた方がいい。冴子は自分を大事にしない。この話で周りが冴子の身体を心配する意味をもっと考えた方がいい。冴子にとっての幸子さんと同じぐらい自分が大事に思えるようになったら、改めて腎臓のことを考えればいい。意見を求められているというなら、俺はそう思う」


 ——なによ。ライブドタキャンしといて、偉そうに。

 そう思いながらも、桔平は思うより大人なんだなと認めずにはいられなかった。


 この助手席の景色に慣れよう。

 まずはそこから始めよう、そう思った。

 あたしはスマホを取り出して助手席から見た道路と右に拡がる海景色を、そっと撮る。


「あたしにも助手席に座る権利がある」

 コメントとともに、フェイスブックにアップした。


 ピロン。

 すぐに通知が来る。

“高階幸子さんからいいね!されました“——



「冴子、どこか行きたいところ、ある」

 桔平が聞いてくる。

 桔平と付き合ってから、あたしの行きたいところなんて、すっかり考える癖をなくしてしまった。

 いいや、これも練習だ。あたしは考える。考える。考えるけれど、見つからない。

 ダッシュボード上に、溶けかかったアイスをかたどったおもちゃが載っていた。

「コメダ、珈琲店」

 思いつかなくて、あたしが一人でたまに行くとっても有名なコーヒーチェーン店の名前を挙げた。

「おっ、シロノワールっスね。俺も好きなんスよ。さっそく、行きますか」


 まあ、あたしは、小倉トーストが好きなんだけどね。

 そんな余計な一言を飲み込んで、あたしはそうっと助手席の背当てに背を近づける。背をつけ、深くもたれ、体重をあずけると、あたしは大きく息を吐いた。

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サッちゃん 和泉眞弓 @izumimayumi

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