サッちゃん

和泉眞弓

1+0.5=1.5

 あたしには1プラス1までは必要ない。

 ——その運命を飲みこめた時、足はもう病院へと向かっていた。


 ***


 三ヶ月前。

「俺を好きだって言ってくれたサブカル女子達は、追っかけてるマイナーアーティストをそれなりに知ってるってだけで同じように屈折してると思い込んで、わからないことを勝手にわかるって期待して、俺の知らない間にこっそり失望して、女同士で目配せして薄っぺらい男だって去って行くんだ」

 酔いがまわったこのアラサー男子。ビアバーのカウンター隣でこぼすのは、お洒落眼鏡をかけオーバーオールを着た桔平きっぺいだ。ついさっき知り合った。あたしより一歳年下らしい。ヴィレヴァンの店員をしていると言った。

 あたしはヴィレヴァンでものを買わないけどヴィレヴァンが好きな人が好きだ。あたしは逆立ちしても持てないものを買い占めるように、桔平をものにしたい、と思った。


 あたしは骨太だ。ほんとうは細っこいサブカル女子になりたかった。なりたかったけどなれなかった、なれのはてだった。フェスも行った。売れ線に乗っていないバンドばかり選んで聴いた。いい音楽にはたくさん会えた。でも入れ込めなかったし狂わなかった。20代前半までのように、あたしごと揺さぶり、細胞に刷り込まれ、脳裏が勝手にエンドレス再生を始めてしまう歌には出会わなかった。


冴子さえこさんは、俺の深さを探ってこないから、居心地がいい」

 二度目に会ったとき桔平はそう言った。

 あたしはやみくもに桔平の、半地下とか中二階みたいな空気を纏いたかった。あの、ストレートではない微妙な空気のゆらぎ具合に共振れし、両生類ぐらいには行き来できる住人になれるように、やみくもに桔平の言葉を手帳に書き起こしてみては合間に読み返すなどした。

 桔平は、自分を試さずにただ興味津々とだけしているあたしがたまたま新鮮だったのかもしれない。桔平とあたしは、互いへの関心以外に通じあう言葉を見つけられないまま三度目には抱き合っていた。


 *


 あたしの姉は、透けるような美人であり、そして腎不全だ。

 姉が運動を避けるようになってもう長い。週三回の透析が欠かせず遠出もままならない。筋力が落ちて、腕も足も子どものように細かった。知らない人が見れば、百人が百人、あたしが姉で姉が妹だと思うだろう。実際に病院で「お姉さん」と呼ばれたことは数知れない。それほどあたしと姉との間には、体格にも世間ずれの雰囲気にも差があった。


 透析のできる病院までは電車で40分かかり、道のりが辛い体調のときなど、姉は短期入院する。仕事のない日、あたしは見舞いに買い物に送り迎えにと、力強く愛車のエクストレイルを運転した。そういう役回りであることに、生まれてこのかたなんの疑問もなかった。姉より丈夫に生まれた。ほかにできる人がいないから担っていた家事だった。


「サッちゃん」

 病室を覗いて声をかけると、サッちゃんこと姉はふっと読んでいた漫画から顔を上げる。

「冴子、この漫画久々の当たりだよ、絶対来る」

 待ちかねたように報告する姉の顔の骨格や皮膚は既に子どもではないが、その表情は童子のようだ。

 あたしは、もう何度めになるかわからない賞賛をする。

「サッちゃんてそういうの外したことないよね。サッちゃんがそういうと、だいたい半年後ぐらいには話題になってヒットしてる」

 これはお世辞でもなんでもない。ほんとうに、この種のことに姉は特別な嗅覚を持っている。姉が面白いと言ったもので、あたし的にそして世間的にも面白くなかった作品はひとつもなかった。ちょっと遅れて世間が気づくさまが、あたし達姉妹には密かに心地よかった。

「こういうので、稼げる仕事ってないのかな」

 どこまで本気なのかわからない笑みを姉はにいっと浮かべた。


 姉はこの細く小さい体で、まるでドリルが舗道を砕く勢いで漫画を読み、本を読み、音楽を聴き、映画やドラマを観る。あたしがこまめに新しいものと入れ替えなければ、姉はすぐにすることがなくなってしまう。新しい漫画を出してやり、もう読んでしまった漫画をカバンに詰めながら、あたしはついでのように姉に報告する。


「サッちゃん、あたし彼氏できた」

 敢えてついでのように言ったのに、姉はわがことのように浮き立つ。

「えーっ、冴子、おめでと。ね、ね、どんな人?」

 姉は、境遇へのうらみを一言もこぼさずいつもあたしの報告を素直に受け取ってくれる。そういうところは、あたしも素直にありがたい。


 初めてあたしに彼氏ができた時から、別れた時、また新しい彼氏ができた時、どんな時だって一番に報告するのは姉だった。

 あたしは桔平の属性と見た目と今のところ柔和な内面らしきものと、休みが合う日にデートをしていること、デートの日は漫画を運んで来られないことなどを姉に伝えた。

 もう、そういうのに姉も慣れている。男ができて少々疎遠になっても寛容でいることは暗黙の約束だ。

「フェイスブック、アップしてね」

「わかった、食レポも頑張る」

 あたしは旅行の美しい景色、美味しいご飯、彩りのいいスイーツに出会うたびにフェイスブックにアップしている。別に反応が欲しいわけではない。むしろ逆で、放っておいてほしい方だ。ツイッターで陰性の呟きを夜中にそっと放流する方が好きな質なのだが、姉はフェイスブックしかやらないから仕方がない。

 あちこち行けない姉に、世界を届けるのはあたしの役割だった。


 姉のサッちゃんこと幸子さちこは昔から今まで小食でバナナも半分しか食べられない。あの童謡は姉のための歌だと、あたしは中学生になるまで思いこんでいた。


「隣のベッドのおばあちゃん、またバナナくれたんだから」

 姉はため息をつきながらベッド傍の冷蔵庫を開けラップに包んだバナナを取り出すと、細い指先でていねいにラップを剥いた。

「冴子、半分どうぞ」

 姉は嬉しそうに、この時ばかりは姉の顔になる。

 小さい頃のあたしは姉から分け与えられるそれが、嬉しくて仕方なかった。

 もうあたしは大人になってしまった。けれど、変わらず喜んでみせる。むかしと変わらずに喜ばなければ、姉が姉としてあたしに与えられるものがなくなってしまうような気がするのだ。

「やったー、いっただきまーす」

 年甲斐のなさを全面に出して、姉とあたしは、バナナをはんぶんこする。それが、あたしと姉のお約束であり、姉妹の絆、のようなものの確認だった。


 *


 桔平とあたしの休みのシフトが合うことはあまりない。べったりが好きではないふたりには、ちょうど良い距離感だ。

 バラバラの休みはそれぞれの充実に使い、フェイスブックにアップし合う。桔平はあたしと違って顔が広く友達が多く投稿にはあっという間にいいねが一杯つく。一方、あたしのフェイスブックの友達は姉と桔平だけだ。桔平は友達対応が忙しいだろうにあたしが投稿するとすぐさまいいねをくれて傍目にも明らかに近しいコメントをくれる。プロフィールも付き合うことになったその日に交際中のステイタスにしてくれた。付き合ってからわかったが、よく知り合う前に付き合ったわりには、桔平はなかなかいいやつだった。

 一言で言うと、まめだ。まめ自体、若い頃は一体誰のためにやってるんだ自分のためでしょ見苦しいなどと受け入れられなかったが、今は違う。興味あるなしに関わらずレスポンスするというのは向き不向きがあり基本燃費がすごくかかることなので、あまり苦がなくそれができる桔平という人には尊敬すら覚える。桔平もまた、姉の言葉を借りれば「久々の当たり」だとあたしは思っている。


 *


 自宅に持ち帰った姉の漫画を読んでいるうちに、夢中になってしまって気づけば明け方になってしまった。

 ——さすがサッちゃんのアンテナに曇りはない。深い、この漫画。頭が、口が、むずむずする。早くこの言いがたいむずむずを引きずり出して誰かにぶちまけたい。

 それにしても役得だ。姉の希望を叶えようと、本屋を何軒もはしごして探し出した甲斐があったというものだ。あたしは、フェイスブックに漫画の表紙と、熱烈すぎるレビューをアップする。早々に、桔平と姉からいいねが来る。


 ものすごく暑苦しいレビューが熱伝導し速攻漫画を借りに来た桔平もまた、あっという間に熱伝導された。早速店に置いてもらったという。

 桔平の、かぶれぶりをしつこくストレートに伝えるPOPが功を奏して、あっという間に品切れになってしまったらしい。桔平の店が火付け役となりじわじわと評判が広まり、いつの間にか全国でも品薄状態になってしまった。


「店長からずいぶん褒められちゃって、俺の手柄じゃないのに」桔平がきまり悪そうに短い頭を掻く。

「え? なんかご馳走してくれるって? いやーっ悪いねえ桔平クン。ほんと言うとあたしの手柄でもないけど、代わりに受け取っておかないでもないよ? ウン」

「神様仏様貴様冴子様、謹んでおごらせていただきます」

「なんか変なのまじってなかった」

「気のせいかと。 まあここは高いっスけどね、ええ、全然気にしてないっスけどね」

「あーすみません、お兄さん、ドンペリをボトルで♪」

「いいやあほんっっとすみません! 冴子様、この借りは出世払いということでええとここはスパークリングワインかなんかでひとつ」

 ま、しょうがないな。

「お兄さんすみませーん、ドンペリやめて、フローズン・バナナ・ダイキリ1杯」

 運ばれてきたフローズン・バナナ・ダイキリには、輪切りのバナナがちょこんと添えられている。飲む前に、写真を撮ってアップする。

 あたしは桔平とグラスを合わせる。合わせながら、内心でサッちゃんと乾杯する。栄養制限があるサッちゃんをふつうの外食に連れていくことはできないから。


 *


 接点のなかった二人でもSNSで繋がって何度も会って一緒の時間を過ごせば、何かしら二人なりのトピックができてくる。

 あたしは桔平寄りに都合を合わせて、桔平の友達のライブに連れていってもらうことが多くなった。かつて一人で何度か聴きに行ったことがある、地元でのコアファンが多いマイナーバンドだ。

 あの時と違うのは「友達の彼女」という立ち位置が与えられていることだけだ。それだけのことで、あたしはコアなファンじゃないという後ろめたさだとか、外様は終わったらさっさと帰らないとみたいなあの感覚が、嘘のように消えてなくなってしまったのが不思議だった。すぐに帰っていくちょっとファンで認知されずにいたあたしが、「友達の彼女」というだけでライブ後の打ち上げまで呼ばれてしまうのだ。ある日突然泳げるようになった時みたいで変な感じだった。席は用意されていたしメンバーは冴子さんてたまに名前を呼んでくれたりしたけれど、あたしの名前なんてメンバーはきっと帰ったら忘れてしまうだろう。「友達の彼女」枠だけがあって、そこに入る人はすげ替えが可能なのだから。メンバーと桔平の会話の合間に、前にこの席に座っていた歴代の「誰か」がいた気配を感じながら、あたしはそれでもその場で楽しくビールを飲んでいた。


 *


高階たかしな……幸子さちこさんて、もしかして冴子のお姉さん?」

 桔平がスマホを見ながら、突然気づいたように聞いてきた。やっぱり。いつかは気づくと思っていた、ていうか今更かよ。高階なんて苗字そんなにゴロゴロいるはずがないのに。

「そうよ、フェイスブックの、あたしの数少ないお友達」

「必ず冴子にいいね押してるからさ」

「高階ですぐわからなかった?」やや棘をふくませながら聞く。

「冴子、登録名カタカナでしょ。あっちのことずっとタカガイさんって読んでた」桔平はまた、短い頭を掻いた。

 まあ、微妙な難読文字だからカタカナにしたのだし仕方がない。顔写真だって似ていないし。

「姉、かわいいでしょ」どうして今日は何かとからむんだろう。我ながら、面倒だ。

「うん、大人になった子役の女優みたいだ」

 さらりと言い得た桔平の言葉に、あたしはおおいに満足した。そして内心でそんな自分をおおいに毛嫌った。


「あたしの、ブレーンなの」

 酔いも手伝って、そんな言葉が口から飛び出した。

 桔平は最初よくわからない様子で「え、冴子って経営者なの? 実は偉かったの?!」と目を白黒させていたけれど、あの漫画に最初に目をつけたのは姉であること、姉のアンテナの感度は高く自分も恩恵にずっと浴してきたことなどをあたしが話すと、ようやく合点がいったらしい。あたしはその勢いで、姉の病気のことも、あたしが担っている役割のことも、全部ぜんぶ桔平に話してしまった。


 桔平は、全部聞き終わった後、あたしの頭をぐりぐり撫でた。


「冴子は、頑張ってきたんだね。偉いよ、偉かったよ」


 こういうとこ。こういうところが、彼女の席が空かない理由っていうか、人慣れしたわんこみたいなんだよ。わかってないくせに対応が万人受けなんだよ。あたしは必死で振り払おうとするけど桔平はやめない。しつこい。しつこいってば。ここで泣いたらベタじゃないか。やめてよ、やめてってば。やめてくれなかったら、立てなくなるじゃないか。封じていたものが溶け出してしまうじゃないか。


 ソルティードッグを飲みながら、あたしはわんわん泣いていたらしい。後半はあまり覚えていない。

 桔平の横で目覚めながら、あたしは初めて軽く重たい安心のようなものと、氷菓のフチが溶けかかったような緩さを味わっていた。


 決めた。

 桔平にも会ってもらうんだ。

 あたしの、半身に。

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