ワカレノキョク

桜々中雪生

ワカレノキョク

 18XX年XX月XX日 細雨

 男は暗い路地を足早に歩いていた。石畳は冷たく、規則正しく吐き出される息は白い。

 ふっと小さく息を吐き、男は立ち止まった。

 ──何から逃げているのだろうか、私は。

 辺りを見回してみる。そこは明かりの消された家々が立ち並ぶばかりで、この寒空の下を歩く人は男以外にいない。

 ──そろそろ私もゆかなければ。

 静かに思う。

 しかし、頭では理解しているのに、身体が動いてくれない。まるで脳と脊髄が繋がっていないかのように。男の手に握られているのは、赤黒く光るナイフだった。

 空を見上げる。冷たく澄んだ空気の中、丸い月だけがぽっかりと浮き出ていた。

 ──月が見ている。ここならば、私もゆけるだろうか。

 男はすらりと薄く笑み、ナイフを持ちかえて切っ先を己の首に向ける。

 その時だった。遠慮がちに降り続いていた雨に霧が混じり、男の視界を覆い尽くした。それはあっという間に濃度を増し、伸ばした自分の手さえも見えないほどに濃い。男は小さく舌打ちした。これでは狙いが定まらない。手元が狂ってしまったら、楽に逝けないではないか。

 仕方なく、霧が晴れるのを待とうと男がナイフを持った手を下ろした時、目の前に立ち籠めた霧がゆらりと揺らいだ。

 風は凪いでいた。

 ならば、そこに誰かいるのか。だが、そこには音も、気配すらない。

 不意に、男の背筋を粟立つような感覚が走り抜けた。

 ──あいつだ。あの女だ。殺した私に執着しているのだ。

 理屈などなかったが、抑えがたい恐怖に駆られた男は、前後もわからず走り出した。

 あの女。

 先刻、男が殺した女だ。

 二人は恋人だった。男は女を深く愛していた。愛撫のたび、女の顔を見るたびに、愛していると囁いた。しかし、女はそれ以上に深く男を愛し、そしてその愛情は、歪んでいた。

 女は、男に愛を囁かれるたび、それを確認した。──「本当に? 本当に私を、愛している?」──そしてその愛を、形として感じずにはいられなかった。だから、女は男に色々なことをした。──男の手首を切った、雪の日に肌着だけで外に出した、気を失うまでバスタブの湯に沈めた。──そして男が少しでも躊躇ったり我慢できなかったりすると、「やっぱりあの言葉は嘘だったのね!」とヒステリーを起こし、いつも持ち歩いていた小型の折り畳み式サバイバルナイフを自分の喉元に突き立てようとした。

 男はその行動に些か辟易していたが、それでも女を慈しんでいた。それどころか、これが私たちの愛の形なのだ、とさえ思っていた。だが、その日々も今日終わった。男が自ら終わらせたのだ。

 女がシャワーを浴びている間に、男は女の衣服からサバイバルナイフを抜き取った。そして女がバスルームから出てくると、女の身体をくるんでいたバスタオルごと突き刺した。

 ずぶり、と刃が肉に喰い込む、おぞましい感触が指から這い上がってきた。女は自分の身に何が起きたのか把握できていないようで、目を見開き男を見た。真っ赤な染みが白いバスタオルに広がっていく。女の口から、つう、と血液の混じった涎が一筋伝った。女はそれを手の甲で拭い、ようやく自分の身に起きたことを理解したようだった。

 口の端から血を滴らせながら、女は初めて見せる妖艶な笑みを浮かべて言った。

「あなたは本当に私を愛してくれているのね。嬉しいわ」

 これが女の最後の言葉だった。言い終えると女はばさりと後ろへ倒れ、男は女からナイフを引き抜いた。意識は朦朧としつつも、異物を身体から抜かれるのは痛みを伴うのだろう、女は小さく顔を歪め、小刻みに数回痙攣すると、やがて動かなくなった。

 確かに事切れていた。ならば、今私を追って来ているものは何なのだ。女の亡霊だとでもいうのか。

 深い霧に月明かりは射し込まない。今、自分が何処にいるのかさえもわからない。何処をどう走ったのだろうか、男は不意に足元にある何かを蹴飛ばした。柔らかい。足先が僅かに喰い込んだ。

 ──何だ?

 男は俯いてじっと目を凝らした。霧に覆われて何も見えないはずのそこにぼんやりと浮かんできたものを見て、目を疑った。

 そこには女の死体があった。

 男が殺した、女の。

 ──何故だ。私は部屋からあの女を動かしたりしていないはず……。

 だが、何度幻だと思おうとしても、それは見違えようもなく女だった。

 「ひっ」と引きった悲鳴が喉奥で小さく鳴った。雨脚が強くなる。そこで初めて、男は頬が熱いことに気づいた。男は泣いていた。恐怖ではない。

 ──……後悔、しているのか。

 男は冷雨に打たれながら、自身の頬に手を触れた。己の気持ちに気づいたからか、耐えがたい後悔に苛まれた。

 ──何故殺してしまったのだ。私たちの愛し合い方はこれで良いのだと、ずっとそう思っていたのではなかったのか。それを、一時の気の迷いでこんな……。

 男は次第に弱まる雨の中、人目をはばかることなく泣いた。白く揺蕩たゆたう霧は、男を日常から覆い隠していた。

 男はいつまでも泣いていた。


         *


 夜が明けた。

 一晩中降り続いた雨がようやく上がり、どんよりと広がっていた雲間の切れた部分から曙光しょこうが射し込む。

 柔らかな朝日に照らされて、男は一人、そこに倒れ冷たくなっていた。

 男に外傷はなく、傍らにサバイバルナイフが転がっていた。

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ワカレノキョク 桜々中雪生 @small_drum

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