その筆先の絵具には夏が使われている

以星 大悟(旧・咖喱家)

その筆先の絵具には夏が使われている

 年上でも小さい頃から一緒にいたのなら幼馴染と言えるのだろうか。


 黒飛くろとび 亀次かめじは画材道具を入れた鞄を肩から掛け、両手でカンバスを持って長い上り坂を上りながら思った。

 今から行く古い洋館に今は夏休みの時だけ帰って来る女性、8歳年上の雛罌粟ひなげし 音子ねこは亀次の兄と幼馴染という関係から亀次とも古い付き合いで親しい友人の少ない亀次にとっては音子は幼馴染の様な関係だった。


 そして兄に才能の差を見せつけられても諦める事無く筆を握る続けるのは音子の存在があったからだった、そして亀次が今も筆を握る続けるのはただ音子を書き続ける為だった。


 肌を焼く夏の陽射しと頭が割れる程の大声で鳴く蝉に耐えながら亀次は一路、音子の住む洋館に続く上り坂を上がり続ける。

 背後には尾道水道おのみちすいどう向島むかいしま、それと造船所。

 そのさらに後ろには夏の色に染まった青い空と白い入道雲。

 後ろの景色は既に一枚の絵になっているというのに亀次の目には全く映らない。



♦♦♦♦



「いらっしゃい亀君、よく飽きもせずに毎年毎年こんな暑い中、あんな上り坂を上って来るわね」

「それは、音子さんを描きたいから……」

「ふふ、相変わらず絵をかく事だけ、それ一筋ね」


 汗だくになった亀次を優しくそしてどこかこの世の者とは思えない不可思議な笑みを浮かべながら雛罌粟ひなげし 音子ねこは雑草が生い茂った玄関から蔦に所々覆われ、窓には板が打ち付けられた昭和の初めに建てられた洋館の中に亀次を迎え入れる。

 その光景は少年が絡新婦にかどわかされている様でもあった。

 

 亀次は洋館の中に入ると音子の後ろについて奥に入って行く。

 中は相変わらず使わない所は埃が溜まり天井には蜘蛛が巣を作りその様相はお化け屋敷の様だったが、幼い頃から何度も来ている亀次は特に恐ろしくは感じず逆に音子の持つ名状し難い雰囲気にとても合っていると思っていた。

 亀次は思う。

 自分が小学校の高学年に上がる頃には大学生になり街を離れた音子が兄に絵の才能で圧倒的な差を見せつけられ、家族から諦める様に諭され一度は納得しながらそれでも諦められずに絵を描いているのは、あの入道雲が天高くそびえ立つ夏の昼だった。


 父と母に諭されて画材道具を捨てようと何故かこの洋館に足を運び、廃屋となっていたと思っていた洋館に偶然、帰って来た音子と再会して彼女から「なら、私だけ描いて」と言われ生まれて初めて裸婦画を描いた事が切欠だった。

 それから亀次は毎年、音子が帰って来る度に筆を握り夏が終わると同時に筆を置く日々を過ごしている。


「ねえ、今日は何時もと趣向を変えてみようかと思うの」

「趣向を?どんな風に?」


 亀次が聞き返すと音子は怪しく微笑みさらに洋館の奥に誘う。

 夢魔に魅了された様に亀次は誘われるがまま奥へと進んで行く。

 するとほとんどの窓に板が打ち付けられるか、蔦に覆われるかして薄暗い洋館で珍しくとても明るい場所に出る。

 そこはサンルームだった。

 そして音子は普段は日に焼ける事を嫌って部屋の奥でしている事を、自らの裸体を晒す事を躊躇いも無く亀次の前で行う。


「……」


 亀次は息を飲む。

 普段は薄暗い部屋の中だから気付かなかった音子の肌の白さ。

 磁器の様に白い、とこの光景を目にするまで思っていた。

 実際は磁器よりも白かった。

 長く伸ばした艶やかな黒髪、鮮血の様に赤い唇、白すぎる肌とは対照的に健康的に色合いの乳房、胸は大き過ぎずしかし小さ過ぎず、そしてサンルームを所々を覆う蔦の影と蔦の間から漏れ出る陽射しが音子をさらに美しく飾り付ける。

 

 亀次はただただ息を飲む。

 そして持って来た画材道具を取り出す。

 玄関に立てかけているイーゼルを大急ぎで取りに戻り、そこにカンバスを置きパレットを握り、一心不乱に眼前の光景をカンバスに描き付ける。

 

 その姿を見つめる音子は扇情的な態勢で亀次に話し掛ける。


「ねえ亀君、今の私はどお?」

「……」


 亀次は一心不乱だった。

 目の前の光景を寸分違わずに描く事に没頭していた。

 

 磁器よりも白い肌に写る影を、磁器よりも白い肌を照らす光を、鴉の濡れ羽色の髪に写る僅かな影を、鴉の濡れ羽色の髪を照らす光を、そして篭る熱気に晒された肌に纏わりつく汗の一滴に至るまでカンバスに寸分違わずに描く事に亀次は一心不乱だった。


「そう、亀君は私を描く事に夢中になるのね。亀一きいちは私に欲情するばかりだったのに、血を分けた兄弟でも全く性質が異なるのね」

「……」


 音子は独り言の様に亀次に話し続ける。

 その顔はやはり名状し難い雰囲気を醸し出し人ならざる者を思わせ、どこか絡新婦の様に妖しく、亀次を見つめる瞳に宿る感情は獲物を見るそれなのか愛しい少年を見るそれなのか判別は付かなかった。


「ねえ亀君、女の一生を良く花に例えるわよね?」

「……」

「でもね、私は蝉だと思うの」

「……」


 亀次は答えない。

 ただ一心不乱に、何かに取り憑かれたかの様に描く事だけをしていた。

 その瞳には兄で周りから天才と称された亀一の様に音子の肢体に欲情してはいなかった、ただ目の前の光景に心を奪われ取り憑かれ狂気すら宿っていそうな表情で一心不乱に描いていた。


「土から出て一つ夏だけしか生きられない、交尾する相手を探して喉が裂ける様に泣き続ける。私にはそれが女の一生の様に思えるの」

「……」

「好きな相手に振り向いてもらう為に自分を磨いて偽って、時には曝け出して振り向かせる為に全てを使う、そして一番美しい時期を過ぎれば女としては生きられない。母もそうだった、たぶん祖母も、ねえ亀君?」

「……」

「貴方が私を映す瞳は何時まで私を映してくれるのかな?貴方が大人になる頃には私はきっと……」


 亀次は一心不乱に描き続ける。

 この夏も、次の夏も、ずっと描き続ける。

 目の前の兄の恋人である音子を描き続ける。

 

 その筆先の絵具には夏が使われている。

 一人の女の夏と、一人の少年の夏が、使われている。

 その夏を絵具として使い切るその日までこの二人の奇妙な関係は続いて行く。

 その間にあるのは愛なのか、それとも別の何かなのか。

 それは二人だけが知っている。

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