第1章:ふしぎな踊り
木枯らしの吹く秋の日のように、ではなく、春の木漏れ日のように、人の生きる意味に思いをめぐらせることはできないだろうか。病める人もそうでない人も、互いに手を伸ばし、いまここで生きていることを確かめあえるような、何かうまい方法はないだろうか。
いまここで病を宿している誰かに対して、「励まし」というオブラートで包みながらその実は「がんばる」ことを意識的にも無意識のうちにも強いてしまうのではなく。
「あんなにかわいそうな人でもがんばっているのだから、健康な自分はなおさら」と、どこかボタンをかけ違えた自分への動機付けをするのでもない、何か別のやり方で。
きっと、あるのだとは思う。けれど、そんな「何か」をたまたま見つけたとして、その手応えをずっと手放さないでいるとなると、これがなかなか難しい。
2002年10月2日午後5時――
気象庁の発表した最新の天気図には、川崎から太平洋沿岸の本州を細長くかけ上った台風21号が、沿海沖でようやく温帯低気圧に変わった様子が描かれている。
「台風一過の明日、本州では広い範囲で気持ちのいい秋晴れが広がるでしょう」
夜7時のニュースでは、アナウンサーが全国の天気予報をそんなふうに伝えていたはずだ。
秋晴れの気配を察知したのかどうかはわからないが、それより半日ほど早い昼前から、不思議な踊りをおどる人たちが日本の各地で見られた。
薄暗いねぐらで寝ころんだまま、携帯電話やメール、チャット、掲示板などのそれぞれの方法で知らせをうけた人々は、まず、驚きとともに覚醒する。夜行性で日の光が苦手なかれらの部屋には昼間でもカーテンが下ろしてあるが、しかし今日は特別な日なのだ。そう自分にいい聞かせると、かれらは意を決して起き上がった。近所の自動販売機まで出て、缶コーラを買うためである。
およそ5分後、目的のものを手にしたかれらは、そのまま部屋に帰ることをせず、導かれるように琵琶湖の方角に向き直り、あるものは天を仰ぎ、あるものは地に臥して、銘々に祈りのことばを捧げた。それから思い出したようにコーラに口をつけると、あるものは遅い朝食をとりに商店街を「餃子の王将」のほうに向かい、別のあるものは来た道を引き返してネットゲームに興じた。
おどる人々の行動様式は、概ね、以上のようなものだったと推測される。
午前10時から午後3時ごろまでに出現したかれらを第一陣とすれば、うわさを聞きつけたものの、日中には用事があって抜け出せなかった人たちはさしずめ第二陣と呼べるだろう。
かれらは定時が過ぎるのを待って足早に帰宅した。自室に直行すると、コンピュータの電源を入れ、インターネットにつなぎ、うわさが本当であることを自分の目で確かめた。おそらくは大半がひとり暮らしで、中にはぼくのようにいてもたってもいられず、アパートの階段をサンダル履きで駆けおりた人もいたはずだ。
不意に、ふだんは意識することもない秋の黄昏にとり囲まれた気がして、「ありがとう」というつもりだったのか、それとも「忘れないよ」だったのか。どちらにしても、口ごもったことばは、コーラを買いにいくまでの間に、冷え込んできた外気にかき消されていった。
アパートに戻り、屋上にのぼって栓を開ける。吹きこぼれる炭酸をそのままに、薄暮の街に目をこらせば、道すがら、やることもなくて西の空に頭を下げる人の姿がちらほらと浮かんでくるようだった。
そのいかにもぎこちない、淡い色合いをしたシルエットが、ぼくの印象に残っている。
50人か、100人か、一体どれくらいの人が踊りに加わったのだろうか。
惜しまれるのは、おどる人たちが2日の夜をピークにして、わずかの間に雑踏の中に溶けるようにすっかり姿を消してしまったことである。いまとなっては、その規模も全容も、つかみようがない。
しかし、繰り返し記せば、2002年10月2日の昼前から夜半にかけて、日本のあちこちで、あるいは海の向こうでも、この日の午前9時過ぎに一段落したばかりのある出来事をめぐって、波状的に同時多発的に、同じことを思いながら、形にならない、ふしぎな踊りをおどる人たちがいた、それは確かなことである。第二陣のひとりとしておどり、また、別の人たちがおどる様子をこの目で見、後からごぼごぼと湧きたつような第一陣の、さらに第二陣、第三陣、第四陣――の人たちの報告を聞いたひとりとして、そのことはどうしても書き留めておかなければならない。
まったく不思議な出来事であり、光景だった。
夜が明け、予報どおりの清々しい秋の朝がやってきた。
踊りのことを採り上げた新聞は、果たして、ぼくの手にしたかぎりでは一紙もなかった。一週間、ひと月待ったが、中の人たちはほかの話を追いかけるのに忙しくて、踊りのことまで手がまわらない様子だった。テレビでも。ラジオでも。週刊誌でも。インターネットでは「2ちゃんねる」といくつかのウェブサイトが当時の痕跡を残しているばかりだ。
「それでいいのかも知れない。表向き、話題にしない世の中のほうがきっと健全なのでしょう。健全だなんて、私が口にすることかどうかはわからないけれど」
と、その人はいった。一連の出来事のはじめから、一段落をしていまに至るまで、その人の関わりがなければ成り立たなかったはずのこの話を、しかし、まるで何か申し訳ないことをしたかのように本人は思い続けている。
申し訳ないと思うのには、それなりの理由がある。
その人は血液内科医をしていて、不思議な踊りから半年と少し前の春先に、白血病と付き合うひとりの男の子と「2ちゃんねる」掲示板でたまたま知り合った。結果として7ヵ月半かそれ以上に及ぶことになった男の子との関係において、血液内科医は決定的なミスを犯した――ということらしい。
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