第5章:主治医

 ここに、よよん君のことを話す上で欠かせない人がもうひとりいる。

 主治医をつとめた井上先生がその人だ。

「実は、一般に思われているのとは反対に、患者は医師を選ぶことができない」

 そんななぞかけを、取材の冒頭でもらった。「医師が患者を選ぶことは比較的しやすい。これはなかなか、厄介なことだと思いませんか」

 救急外来患者に対するいわゆる「たらいまわし」を引き合いに出すまでもない。病気がむずかしくなればなるほど、患者にとって状況は切迫している。それでもと、井上先生はあえてみもふたもない表現を選んで口に出してみる。

「受け入れたくなければ、医師は、医務室から席をはずすだけでいい。今回の話でいえば、掲示板から、消えようと思えば消えることだってできる、できたはずなんです。まして匿名なんですから」

 そんな圧倒的なアドバンテージを前に、どこまで、たまたまめぐり合った患者との関係をフェアなものにもっていけるか――それを、当時この道15年をむかえた井上先生は、医療倫理におけるその時点での集大成的なテーマとしていた。

 どこか少年の面影をのこした笑顔と、学生時代にはハンドボールの名手として鳴らしたというスポーツマンシップが、逆説的に聞こえる分だけほろ苦い実践に裏打ちされたことを思わせるプロフェッショナリズムを包みこむ。よよん君が慕わないわけがない。


「生まれたのは京都の上賀茂です。1962年1月。物心が付いたのは大阪万博のころです。ちょうど日本が豊かになろうとする、その空気を吸って僕らは大きくなった。あのころの京都では、信じられないかもしれないけれど、桶に井戸水を汲んで洗濯する家も近所にはありました。

 医者になろうと思ったのは、ひとつには父親の影響、もうひとつは大好きだった叔父を再生不良性貧血で亡くしたことですね。あれは確か僕が小学校4年生のときです。優しい叔父で僕はとても慕っていた。まだ30代の半ばだったはずです。いまでは再生不良性貧血は治らない病気ではありませんが、当時は難しい病気のひとつでした。ひとの命って何だろうって考えさせられる最初の契機だったと思います。

 父親は京都市内の比較的大きな内科医院に勤めていました。といっても医師ではありません。事務方です。病院の一角に住み込みの家があって、だから僕は院内の庭を自由に駆け回ったりして大きくなった。病院の雰囲気は僕にとってごく当たり前のものでした。それにどういうわけかクレゾールの匂いが大好きでした。いまでも好きです。いまは消毒には別の薬品を使うのでクレゾールを使うことはめったにありませんが、それでも僕はあの鼻をつく、清潔な匂いが無性に恋しくなることがある。どうしてなんでしょうね。

 小学校の卒業文集で僕はすでに『将来は医者になる』って書いているんです。内科を選んだ理由ですか? そこは正直にいって、別段の明確な理由があったわけではないです。父親が勤めていたのがたまたま内科医院だったから、医師といえば内科という一種の『刷り込み』のようなものがあったのでしょう。内科以外には考えられなかった。それにさっきもいいましたが、若くして亡くなった叔父のことがあります。再生不良性貧血は僕が治すんだ、という気負いというか思い込みのようなものもありました。

 けれど、そうはいっても、そのことばかり考えていたわけではありません。ごく普通に遊んで、本もたくさん読んで、友だちを作ってケンカもして、勉強は好きなほうではなかったですね。

 子どもって、みんなそうでしょう。なにか事件があると一時的にはそれに影響されるけれど、次の日にはあっけらかんと忘れて元気に遊び回っている。それでも、じゃあその前の日の気持ちはうそだったのかというと、そうではないですよね。それもちゃんと心の中には残っている。

 それなりに苦労もしました。どういうことかというと、父親が勤めていた病院はそこそこ栄えていたのですが、あるときを境にどういうわけか患者が減って経営がうまくいかなくなった。それで父も失職です。僕はここ(滋賀医大)に一浪して入ったんですが、いわゆる特待生というやつで、学費の一部を免除、奨学金をもらいながら通いました。だから大学時代はアルバイト漬けです。家庭教師のダブルヘッダー、なんてことも珍しくなかった。スポーツも好きで、体育会系のハンドボール部に所属してバリバリやっていました。

 ところで、ミスの話でしたね。ミスならじつは僕もひとつ大きいのをやっているんですよ」

 井上先生はそこでひと呼吸をおいて、何か近くて遠いものを探るような不思議な表情をした。琵琶湖の南岸、北東には比叡山を臨む位置にキャンパスを構える滋賀医科大学附属病院。その5階におかれた血液内科の一室で、机の上に組まれた両の手のあいだから、記憶がゆっくりと立ち上ってくる。

 かれのいうミスというのは次のようなことだ。


 あるとき、いつものようによよん君は処置室に運ばれてきて横になり、マルクのための麻酔注射を待っていた。白血病にかかった患者は、定期的に、自分の造血機能がどれくらいであるのかをチェックしなければならない。血液は骨髄で作られる。そして残念なことに、21世紀の医療技術をもってしても、骨髄は体温計で計るようなわけにはいかないから、やむなく胸部から骨に針を刺して骨髄液を採取するのである。

 この刺す、というのがなんともきわめて控えめな表現で、実際には、まず痛みを緩和するための麻酔を打ち、それから、病院外ではふつう釘と形容される採血針をぐりぐりと押し回しながら骨に打ち込んでいく。これがマルクと呼ばれる処置である。

 そのマルクの最中に――

「あ」

 井上先生は思わず声をあげた。手元が狂い、針がよよん君の肺の辺りを傷つけたのがわかった。

「う」

 よよん君も声をあげた。マルクの際には胸の上、三分の一ほどのところに衝立のようなものを置いて処置の部分が患者から見えないようにする。だが、局所麻酔のため、患者の意識ははっきりしていて、上のほうで医師が何をやっているかはよくわかる。その点、身近なところでは、虫歯の治療を受ける際に斜め後ろのほうでカチャカチャとかキュイーンとかいう音がして思わず身震いするのと似たところがあるかもしれない。

 よよん君はマルク自体からくるのとは別の痛みを感じ、井上先生が何かをやってしまったことを察知した。

「ごめん」と、針による肺へのダメージがさほど大きくはないだろうこと、しかしすぐにレントゲン写真をとって確かめなければならないことを頭の中で折り合わせて、井上先生は謝った。

 よよん君がそうしたように、信頼する井上先生の弁明に耳を傾けることにしよう。

「僕にとって、いつかは起こり得ることだったんです。というと、ずいぶん割り切った、あるいは、開き直っているように聞こえるかもしれない。でもそれは事実です。人である以上はいつか必ずミスをする。よく勘違いされたり、あるいは医師の側でも勘違いをしがちだけれど、われわれだって人です。万能の存在ではない。

 問題は、そのときに謝れるか、きちんと説明してベストを尽くせるか、それから、答えを先にいってしまえば、人としての信頼関係を日頃からいかに築いておけるかだと思うんです。

 僕の場合には、洋一君のときに偶然にそれが出た。かれがウェブサイトを立ち上げて、病院生活のことを書いていることはもちろん知っていました。しかし、だからといってこの事故のことを書かれたらまずいとか、書かれないためにどうフォローしようというようなことも頭にはまったくなかった。

 肺に穴が開いたら誰だって痛いんです。やったのは誰か。僕です。まず謝る。取り得る最善の策を説明する。現実がこうで、考えられる対応がこうで、と、説明して理解してもらったらその通りに手と頭を動かす」

 幸い、井上先生の職業的な勘は正しかった。レントゲン撮影の結果、肺についた傷は深手ではなく、手術をしなくてもそのまま自然にふさがるくらいの穴であることが判明した。

「それにしても『あ』なんて声に出していうかな」

 痛みが和らいでからのよよん君の論点はもっぱら「患者を目の前にして、デリカシーを欠いた形で咄嵯の間投詞を口にしてしまう医師はいかがなものか」となった。いかに不慮の出来事であってもプロフェッショナルとして「あ」は美しくないと22歳は主張する。

「あれには参った。だってその通りなんですから。僕がふだん教え子たちに手を替え、品を替えして伝えようとしていることの本質です」

 このことは、当然、よよん君の家族の耳にも入った。井上先生がその日のうちによよん君の家に電話をかけて詫びたのである。電話を受けた母親の節子さんは笑った。話を伝え聞いた姉の幸子さんも笑った。幸子さんによると、このことをきっかけによよん君はますます井上先生を好きになったようだという。

 そして、よよん君はこの事件の顛末を自分で作って公開しているウェブサイトに載せた。

 意図してそう記したのかはいまとなっては知る由もないが、その文章は、かれが井上先生を日頃からいかに信頼しているかを読み手に伝える仕上がりになっていた。読みようによっては、マルクの名手としてその名を知られたわが主治医の、たった一度のミスを引き当てて格好の話題を得たことをうれしがっているようにも見える。

「こういうことはいえると思う」と井上先生はいった。

「僕は洋一君と初対面のときに、涙をぽろぽろとこぼしながら病気の性質と病状の説明を受け止めようとするかれの表情を見て『この子はいける』と直感したんです。以来、ずっとそのように接してきた。

 話は少し変わりますが、白血病というのは、僕にとって、寛解するしない『だけ』で測るものではないんです。僕は血液内科医という仕事に対して結果からものを見ようとする姿勢を好まない。これは負け犬の遠吠えでは決してない。将来、白血病がいまほど難しい病気ではなくなったとしても、少なくとも、僕は、ある患者さんが結果的に寛解したからよかったとか、残念ながらしなかったからどうだった、とかいういいかたには与しないでしょう。

 寛解したほうがいいに決まっています。寛解に導くことができなければものすごい挫折感を味わう。でも、だからこそ、結果の側だけに光源をおいてそこに意味づけをしようというやり方は、それがだれのものであれ、人生を不毛にすると僕は思うんです。そのアンフェアさに耐えられるほど、人は丈夫にできていない」

 入院初日、本人と家族に対する説明を終えた井上先生は、よよん君には隠し立てはしないでいこうと決めた。入院2日目の患者に、大学生向けに要約された「白血病における生存率」の最新の研究成果をコピーして渡すようなことは、どんな血液内科医でも普通はしない。それをあえて、よよん君のときは踏み込んでみた。

「これ、読んでおいて」「はい」

 それともうひとつ、よよん君には、「病気に向き合う」「一緒にがんばろう」といった精神論的なことは一切なくして、逆に、医療技術的なことは下手に遠慮するようなことはせずに、進んで勉強してもらうくらいでもいいのではないかと実践的な仮説を立てたのだという。

 なぜかはうまく説明できない、けれど、よよん君を前にしてそう思ったことは強く印象に残っている。そう話す井上先生のニュアンスには、おそらく、自分自身が22歳か23歳だったときの心象風景が連なっている。

 22歳、大学3年生のとき、井上先生は生まれて初めての「泣き場所」を得たのだといった。

 具体的にいえば、気の合うマスターのいるバーで、ときに酒に溺れて愚痴を口にすることを覚えたのである。「いまでもお世話になっている秘密の場所だから」といって多くを語ろうとしないが、将来像に迷うことの少なくない年齢で、家族以外の誰かに心を開き、受け止めてもらう経験が自分の人生に及ぼした効用は計り知れないとかれはいった。

 滋賀医科大学では5回生と6回生向けに、附属病院に入院する患者とセッションをもつ単位を設けている。学生が病室を訪ねて患者の話に耳を傾け、将来、自分が専門として取り組むかもしれない病変と患者がどう付き合い、何を考えているのかを肌で感じさせようという狙いが、おそらく、そこにはある。

 井上先生はその年の患者側のプレゼンターによよん君を指名した。依頼の際に伝えたのは「何でもいいから、病気のこと、病院生活で感じたこと、思ったことを君のことばで僕の教え子、学生に話してほしい」という、ただそれだけのことである。このリクエストによよん君は二つ返事で応じた。

 当日、井上先生は学生たちを部屋に引き入れるなり、「後は任せた」とだけよよん君に声をかけ、後ろ手で静かにドアを閉めた。セッションが終わって、何を話したのかも、何を聞いてきたのかも井上先生はよよん君にも学生にも尋ねなかった。

 よよん君が亡くなったあと、このときのことを姉にだけ話して母親には黙っていたと聞き、井上先生はその気持ちが何となくわかるような気がしたという。


 さて、インタビューのおわりに、もうひとりの血液内科医のことをどう感じますかと訊いてみた。

「すばらしい先生です」

 受け持ち患者の病状を尋ね、入院病棟に欧米並みのLAN回線の早期敷設を求める深夜のとつぜんの電話には驚かされたという井上先生は、しかし、ほかに形容のしようがないという表情でそういった。

「たしかにちょっと変わっているかもしれない。でも、この世界に棲んでいる人は、みな大小はあれ、変わっているものです。あの先生のすばらしいところは、やるかやらないかで、やる、の方向に羅針盤を切り替える力をお持ちのところです。友だちが洋一君のためにと開いていた別の掲示板で、食生活や病歴や、付き合っている女性の有無まで尋ねているでしょう。あれは僕にも、とても参考になった。

 ただ、それが、セカンド・オピニオン医師に適切な資質であるとはかならずしも思わない。インターネットの掲示板が、そのような取り組みに適切な媒体であるとも、思わない。最初にお話ししたように、席を外したままそれきり、なんていうことが簡単にできてしまう。でもね」

 そこでことばをいったん切ると、井上先生は破顔一笑した。

「だからこそ、というべきかな。洋一君が会いたいといったのなら、間違いなくいい先生なんです。一連の出来事の大半は洋一君から聞いて知っている。かれが僕に話さなかったことでもインターネットで目にして、だいたいは押さえている。主治医だからとうぜんです。その上で、かれには知っているとも知らないともいわない。その是非、必要性は、医師としての僕が判断することです。

 それらすべてをひっくるめた僕の判断はこうです。会ってもらってかまわない。むしろ会ってもらうべきだと思った。友だちがお見舞いに来てくれるのを、同業者だからというのでは妨げる理由にならない。話は逆で、洋一君の場合には双方にむしろ何らかの相乗効果があると僕は踏んだ。

 その上で、僕自身、8月のあの日は挨拶するのを楽しみにしていたのだけれど、洋一君と話ができずにがっかりしてお帰りになったのは惜しかったね。もっとも、目当ては洋一君であって僕ではないか。僕としても患者さん本人とご家族に対する守秘義務があるから、おいそれとは会うわけにはいかないしね。

 一方で、かりに患者さんの友だちが同業者というならそこはかえって安心という面もある。挨拶と、ひとことふたこと、くらいなら。阿吽の呼吸というのかな、大丈夫、主治医は僕です。

 そういった判断のバランスのむずかしさも含めて、いえるのは、とにかく、われわれ医師のことは、洋一君のように、賢い患者さんの目でみてあげないといけないということだね。僕自身のことも含めてね。

 まして主治医と患者という関係と人としての友情のふたつの軸がともに芽生えて育っている場合にはそうなんだ。つかず離れず、それでもつく、というのかな。

 洋一君はその点、実によくできた患者さんだった。ありがとう。いまでもときおり思い出しては感謝しています」

 ではそろそろハンドボール部の練習があるから、といって、井上先生は医務室を颯爽とあとにした。

 帰り際、少しはなれたところから振り返ると、キャンパス内に植樹された医聖、ヒポクラテスの木を見上げ、手をあわせて一礼をする井上先生の姿が、西の陽に照らし出されて見えた。

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