第2章:血液内科医(1)

 血液内科医は1960年代のおわりに九州南部のとある県の田舎町に生まれた。

 父親は外洋船の船員を、母親は中学の教師をしている。上のきょうだいはいない。下に弟がひとりいる。どちらかといえば、出がちな父親よりも、教育熱心な母親の影響をうけて大きくなった。

 勉強は小さいころからできた。たいていの試験は勉強をしなくてもいい点がとれた。

「田舎だから外で遊ぶか家の中で本を読むか、楽しみがとてもわかりやすい形をしていたから」と謙遜するが、賢い子だったのだろう。高校1年生のころには担任から「このままがんばれば東京大学にも手がとどく」と期待を寄せられるくらいだったという。

 表に出て遊ぶよりも本を読んだり絵を描いたりするほうが好きな子どもだった。その傾向は、いまでもさほどかわっていない。「それまで漫画家という職業をべつだん意識したことはなかった」というが、しかし、そのビジョンは、大学進学の目的を両親に説明する段になってかなりの推進力をもって浮かびあがってきた。

 道の先には手塚治虫という偉大な先達がいることにも気づいた。モデルがいれば、家族も、自分も、説得しやすい。

「常識的に考えて、東大はハードルが高すぎます。芸大に行くには絵の才能が足りない。となると、手に職をつけられて、なおかつ、趣味の漫画創作と両立できそうな学部をもった国公立大学が、自然と目に入ってくる」

 国公立大学というのは、母親の勧めによるのと、弟の学費を考えた場合、自分は少しでも「安くあげて家計を助けるべき」という現実があったためである。こうして積極と消極が入り混じった微妙なバランス感覚に、「手塚治虫モデル」がブレンドされると――「家から通える距離に県立の医科大学があることに気づきました。幸い、東京大学に手がかかるかもしれないくらいの勉強の蓄積があったから、受験もさほど苦労せず、むしろ高校三年生のときは漫画を描く時間がそれまでよりも取れたくらいです。

 医学部なら手に職がつくし、卒業まで6年あるから他の学部と比べてモラトリアムが2年長い。それはつまり、あわよくば2年間よけいに絵を描く時間がとれて、ひょっとしたら、その間に才能が芽を出すかもしれない――そのころは、それくらい都合のいい人生設計をしていたような気がします」

 かくして勉学にも趣味にも準備は万端、家族にも満足される「非の打ちどころのない大学進学でした」。ただし本人いわく、入るまでは、であったが。

「大学に入ってまもなく失敗に気づきました。まず、カリキュラムがおそろしく詰まっていて大変だということです。余裕をもって絵を描く時間などとてもとれない。追いつくだけで精一杯です。アルバイトの時間もままならないくらいですから。

 次に、医大はどこでも似た傾向はあると思いますが、他大学の他学部との交流の少ない、狭くて縦に長いギルド、同業者組合だということです。これには少し気分が落ち込みました。

 勉強とサークル活動をうまく両立させている人はもちろんいます。それでもたとえばテニスサークルというのはあくまでも『医大内』か『医学部どうしの』テニスサークルです。極端ないいかたをすれば、どこにいっても知った顔がかならずひとりかふたりはいる。

 しかもそれが、これは卒業してから気づいたことですが、医師になってからも続くわけなんですね。いくつかの、上に上に伸びに伸びた、ひょろ長いタテ社会が、縦串か横糸で結ばれてひとつの社会を構成している。

 少なくとも、私にはそのような世界に映ってしまった。

 まちがった世界観かもしれない。それがかえってあう、という人もいるでしょう。でも自分はがっかりしました。大学って、もっと華やかでたてによこに複合的に複雑に交流しているという漠然としたイメージをもっていましたから。

 そしてそれらは、何かを描こうとしたときの《足し》に、なりそうにない」

 おそらく、血液内科医はだれもがいちどは通る病気にかかったのだろう――五月病と呼ばれる、ぼくたちにも覚えのある一過性の憂鬱のことである。

 ということはつまり、梅雨があけたころには、血液内科医の気分も晴れやかになっていただろう、ということである。

 実際にそのとおりになった。

 キャンパス内の現実を受け入れ、適応していくことができた。

 忙しいなりに、狭い印象をうけるなりに、それはそれで充実した大学生活を送ることができたわけである。

 より切実な問題が浮上したのは、3年次に進むころだった。一般に、大学の1年次、2年次は一般教養課程であって、総合大学ならば自分の所属する学部をそれなりに意識はするものの、将来の職業選択のことまで結びつけるのはまだ先、のひとことで片付けることができる。

 たとえば文学部の場合(ぼくのことだ)、3年次に進むときに専攻を決めるとはいっても――もともと資本主義における職業選択とはかけはなれた学部であるためか――就職の問題はまずまず、先送りできる。それに文系学部なら、長い時間を要する実験もなく、ゼミと卒業論文さえクリアできれば、大学生活の後半2年間は前半の2年間と比べて、わりあいなだらかな延長線上にあるともいえる。

 理系学部の場合には、少し事情が異なる。

 とくに医学部は、理系学部につきものの実験に加えて臨床がある。そしてより切実なのは就職問題だった。

 3年次に進学するときには自分が何の医師として、どんなふうに生計を立てていくかを具体的にしておく必要があるのである。何のためか――「そうしないと間に合わない。4、5年後の医師国家試験に合格できないのです」

 医師法第9条から第16条の定めによれば、医師国家試験は大学の医学部を卒業することが受験の前提条件になっている。ということは、理屈の上では医学部を卒業すれば医師国家試験を受ける資格が得られるものの、医学部を卒業したからといって医師国家試験を必ず受験しなければならないということにはならない。つまり受けなくてもいい。まして、合否は努力の結果としてあらわれるものであって、合格のために大学生活のなにがしかを削り取る、削り取られる、というような考え方は本末転倒というもの――ではないだろうか。

 部外者として、試みにそう尋ねてみたときの血液内科医の答えはこうだった。

「理屈はたしかにそうです。でも、どんな組織でもそうだけれど、不文律や文化というのがあるでしょう。医大の場合、それは『開業するか研究医になるか勤務医になるか』『医師国家試験合格率90パーセントを全員一丸となって維持できるか』なんです。医大や医学部はこのふたつの雲がたえず頭上を漂い、ことばは悪いですが、ときとして厚く覆っているのですね。

 自分の場合、あわよくば漫画を書きながら、という漠然とした『手塚治虫モデル』に拠っていた。そもそも動機が不純なんです。実家も代々医師をしているような家系や環境ではない。だいたい、実家が医者だとか医者になってお金持ちになりたいという明確な何かがある学生は、入学した当初から目的意識に貫かれている。だから強い。勉強にもいきおい身が入るし、経済的、資金的な後ろ盾もしっかりしている。

『兄はこの分野、弟の自分はこの分野で後を継ぐことが決まっている』『開業する土地にも当たりをつけていてね』などということを、派手なスポーツカーに乗りながら、高原の澄んだ空気を吸うみたいに、実に生き生きと、おいしそうに話す同級生がいるわけです。

 そこにはかれらなりのプレッシャーはあるでしょう。でもそれは自分のような『でもしか医学生』からすれば贅沢な悩みで――いえ、医学部にまで上げてくれた両親にはもちろん感謝しています。

 合格率90パーセントというのは、この世界、業界のランキング指標の中でも相当に有力なものだと考えればわかりやすいと思います。もちろん、合格率は問題ではない、いまここにいる医者のタマゴのひとりひとりを、その意味では100パーセントの確率でせめて医師のヒナには仕立て上げる、その道筋を作ることが医科大学、あるいは医学部の本来の使命――みたいな話はあって、関係者全員がわかっていて、実際に指導教官も先輩も口にするのだけれど、でもやっぱり同じ世界の住人がこれほどありがたがって、すがって、よりどころにするものもほかにはなかなか見当たらないのですね。じつに不思議な指標です」

 そんなふうに、笑ってみせる。そして、ここで話してくれたことは、医大や医学部と呼ばれる時空間の一面を、正確に衝いているようにも思える。一方、ぼくの当面の課題はそうした教育育成機関のあり方やプログラムを社会的な文脈でとらえることではないから、血液内科医がそのような現実に向き合い、消去法でも減点法でもとにかく何かを選び取らなければならない局面に至ってどうしたか、をクローズアップしたい。

 話の続きに耳を傾けることにしよう。

「考えました。家には備え付けの病院も開業資金もない。節約、倹約のために国公立大学の医学部を選んだのですから、ここにきて『開業医になりたい』などといったら、勘当されるに決まっています。

 かといって、研究医になるには頭の出来がよくない。だいいちこの業界に研究医と臨床医の区別があるなんてことさえ知りませんでしたから。細分化された専門の世界で情熱を傾けるほどの分野や対象も見出していなかったし、見出せそうになかった。

 この時点で、勤務医になる以外に選択肢は残っていないわけです。

 ということは、試験浪人すればお金もかかる、情熱は磨り減って、結果、漫画のほうに現実逃避することは、わがことながら目に見えています。大学受験は自分でいうのも気がひけますが、何というか地金のよさでお釣りがきた、みたいな恵まれたところがありました。

 しかし今度はそううまくはいきそうにありません。

 24歳で医学部を卒業して、製薬会社その他のいわゆる一般企業に就職する選択肢もないわけではありません。でもそれだって医師か薬剤師の国家試験に合格することが前提であるのにかわりはないわけです」

 かくして退路は絶たれたわけである。モラトリアムにみえた2年間までもが裏返ったカードのようにここでは価値を反転させてしまっている。漫画を描く時間的余裕で気分転換を図り、あわよくば趣味と実益の両立を、などという幻想は、大学に入って四季が一巡するころにはすっかり打ち砕かれていた。

 そんな、ある日のこと。

「悩んでいると、学食のテレビの前に人だかりができていたので、何だろうと思って近づいていったんです。するとそこには『笑っていいとも』が映し出されていました。まだ、テレフォンショッキングでちゃんとタモリさんが『世界に広げよう友だちの輪』の唱和をやっていたころです。

 瞬間、何かひらめくものがありましたね。これだ、と思いました。

 列を、人だかりをかきわけて、一緒にいた友人がぎょっとするくらいタモリさんに真剣に見入っていました」

 何が、血液内科医のなかでおきたのだろうか。

「自分は人生のことをほとんど知らない。友だちを作るのも下手で、どちらかというと内向的でひとりで絵を描くほうがしっくりくる。もしそうだとすれば、と思いました。性格は直しようがない。

 そのころ、性格改造、なんていうことばが流行りだしていて、この専門分野の医師になるにはこういう性格があっている、そうでないと勤まらないだろうから、専門分野に応じて性格をフィットさせていく、これからはむしろ積極的に変えていく時代だ、なんていう説を唱える人も周囲にはいました。

 私にはそれはとても困難か、不可能なことのように思えました。

 逆に、こういう性格だから合っている、絵を描くのが好きで、『でもしか』で医学部に入って、友だちをこれから作って、人生のことを学んでいける専門分野がきっとある。医療といっても実に広いですから。自分のような変わった存在が受け容れられる口もきっとある。タモリさんのサングラスを見ながら、そこまで一本道に見通せたような気がしたんです」

 ひとたび思い立って、自分のなかで筋道が通れば行動が速い。

 いまもかわらない美徳が、学生時代の二十歳すぎのころから備わっていたのだろう。

 さっそく、その日の授業を終えると自室にこもり、1年次の春に配られた履修案内を隅々まで読みかえした。数ある専攻の中から浮かびあがってきたのは、「血液内科」だった。その目には、血液内科という分野の特色がつぎのように集約されて映った。

「①内科医として全身におよぶ知識と管理の能力が問われる」「②患者と医師の間に医療を介した長く密接な関係が築かれる」「③患者には大人も子供もいる。疾患の種類によっては子供の罹患割合が高いものもある」

 血液内科医は専門外のぼくにもわかるようなことばに置き換えて、次のように説明してくれた。

「第一の点は、『切った貼った』というと怒られますが、そんなふうに喩えられる外科よりも体の内側、特に造血機能を司る骨髄という中枢からアプローチする分野のほうが自分にはあっていると思ったわけです。血液は全身をくまなく流れますから、カバーすべき知識と技術の範囲がひとりでに全身に及ぶということになります。実利的な面で、医師としてのいわゆる『つぶし』が利きやすいのではないかと思いました。

 第二の点は、モチベーションという点ではこれこそ医師という職業、倫理に求めていたものかもしれません。かかわった患者さんの人生に、長く、丁寧に、責任をもって対処する。そのとき、逆にこちらが学ぶことがきっと多いだろう。一緒に治し、治っていくことを通じて人生を学ぶ。人としてよりよく成長していける可能性がそこに見出せたら、どんなにすばらしいだろうと考えたのです。

 第三の点は、第一と第二の点にもかかわってきます。『小児』という切り口では最初の分類をしたくなかった、つまり子どもが好きだから『小児科』を選ぶというのは単純すぎてためらわれたのですが、一方、中高年以上の患者さんばかりを相手にするのでは、という、これも怒られるかもしれませんが、正直な気持ちとしてはありました。

 幼くして病気にかかった子が治るのを手助けしてあげて感謝されたらうれしいだろうなという気持ちと、病気を縁にたまたま知り合った人生の諸先輩から学びえる何かという期待のふたつを秤にかけたとき、どちらも手放したくない。でも、前者のほうが微妙な比率で上にあったのでしょうね」

 ひとことでいえば、次のようなことになるだろう。

 タモリさんがいう「友だちの輪」を、臨床を通じて作ろうとしたのだ。

 唐突に、何もなしに友だちになってほしいといっても相手にしてはもらえない。そこを、専門技術という橋を渡すことによって乗り越えよう、乗り越えられるのではないかと思ったのである。

 それにしても、血液内科という聖なる職業の倫理の、その基底に据えようとしたものが、あの黒いサングラスと七三わけのなぞめいた人物と、かれのタクトに導かれたお昼の唱和にあったのだとしたら――これは、いかにもあり得ていい話だ。1980年代後半というバブル経済爛熟期の時代背景がたしかに備えていた、ある種の明るい部分を象徴している挿話のようにぼくには思える。

 述懐はつづく。

「『病気にかかったから治してください』といわれて、治すのを手伝ってあげた、その過程で『何かのご縁だからあなたのことをもっと教えてくれませんか。友だち、とまではいかなくても』とお願いしたら、患者さんのほうでも抵抗が少ないのではないかと思ったのです。白血病は寛解を迎えてからも予後を定期的にきちんと把握することがもっとも重要な病気のひとつで、5年、10年という付き合いになるケースもごく普通にあります。小児白血病を寛解に導いてあげて、その子が大人になるまでの10代を見守り、一緒に過ごす。もちろん、退院するときには歌をうたうんです。大きな輪を両手で作って『友だちの輪』って、ね。

 それができたらどんなにすばらしいことだろうと思ったのです」

 本気で、そう思ったのである。冗談や、思いつきや、いっときの気まぐれではなく。

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