第3章:母

 ――わたしね、洋ちゃんに謝らなければならないことがあるんです。

 あの子が小学校2年生のときだったでしょうか。どういういきさつでか、保護者が作文を書いて子供に持たせてそれを学校で読む、みたいな宿題があったんです。

 洋ちゃんは兄、姉、ときた末っ子です。それでね、わたし、何を思ったか洋ちゃんを身ごもったときのことに触れて「お腹の中にいるときにいちど危なくなりかけて、産婦人科でみてもらったのだけれど、すでに2人いることだし、だめならだめでそれも運命と思いました」という文をぽろっと織り交ぜてしまったんですね。

 無事に生まれてきたときには、それはもう、うれしかったですよ。末っ子はいちばんかわいいといいますが、これをいうと上の2人には悪いのだけれど、洋ちゃんは本当にかわいい。だから、作文のことも、そういう危ない目にあったことも含めて、命を授かるというのは不思議な、ありがたいことですという気持ちをわたしなりに素直に書いたつもりだったんです。

 洋ちゃんは「へえ。僕、そうやったんや」といったきりで、それ以上のことは別段なにもいいませんでした。

 生まれてみたら絵に描いたような健康な子で、あの病気にかかるまでは、具合が悪くて病院のお世話になったことはなかったと思います。健康体なんだけれど、どういうわけか病院に自分からいきたがる子で、「お母さん、病院」「病院いって薬もらってくるわ」といって、おかしなところがどこにもないですから、病院だって薬を出してくれません。先生も困って、洋ちゃんのためにキャンディか何かを用意して下さるのだけれど、そうすると「僕がほしいのはお薬です」といって、それを周りは大笑いしたこともありました。

 そんな子でしたが、あの病気が判明したときだけは、いまにして思うと様子が変でした。

 2000年の6月だったと思います。洋ちゃんは当時、大学が合わないからといって辞めて専門学校に入りなおし、長岡京にあるコンピュータゲームを作る会社でアルバイトをしていました。親しくしてくださったお友だちと仲良くなったのもそのときのご縁です。帰り道に雨に打たれてきて、ぶるぶる震えながらお風呂に入って温まっておって、その晩に熱が出ました。

「洋ちゃん、病院に行っておこうか」とわたしがいうと、「もう2、3日様子を見てからにするわ」と珍しいことをいったんです。何か自分でもこれはおかしいと感じたのかもしれません。でも、そのときは丈夫な洋ちゃんがそういうんだし、梅雨時で気温が下がっていましたから、風邪でも引いたのだろうと思って寝かせました。

 翌日、そのまた翌日と熱が下がらないんです。

「母さん、なんだか風邪とちゃうみたいや」というから、わたしも様子が変だと思って、うちでかかりつけにしている近くの個人病院に行かせたら、先生が「お家の方と一緒にいらしてください」と仰る。姉が看護の仕事をしていたから話が通じるだろうと思って行かせたところ、ほどなく電話がかかってきて「お母さん、洋ちゃんが大変みたいや」いうんです。「どないしたの」と訊いたら「詳しいことは精密検査をしてみんとわからんそうやけれど、白血病の可能性もある、先生がいうてはるの」

 そんなこんなで、たしか、雨に打たれて帰ってきた3日目か4日目の夜には、滋賀医大病院に洋ちゃんは泊まったんやったと思います。

 病院に入ってからのあの子は恵まれていたと思います。

 井上先生は洋ちゃんのわがままを本当によく受け止めて下さいました。

 いくら洋ちゃんの好物やいうても、入院中にあんなにたくさんのコーラを飲ませてくれる先生は、ほかにはよう存じません。

「家に帰りたい」と駄々をこねたときもそうでした。すぐには帰せないまでも、どういう条件が整えば何日くらいなら家にいても大丈夫かを懸命に考えてくれはった。インターネットにつなぐのでも、ふつうはいろんな医療機器に影響が出るといけないからといって許可は下りないでしょう。それをあの子は既成事実というんですか、まずノートパソコンを持ってきてくれ、いうから持っていくと今度はPHSを契約したい、といって。わたしたちは洋ちゃんが何をやっているのかさっぱりわかりませんから、できるだけのことをしてやりたい、その一心で機械を揃えますでしょう。

「母さん、病院は電波の入りが悪いなあ」

 なんていってみたりしてね。知らないなりに「そうかあ。洋ちゃん、それ、アンテナ建てたらええんとちゃう。アンテナっていくらするの」といったら、「基地局いうんや。母さんが気軽に建てたり買ったりできるようなものやったらよかったんやけどなあ」って。

 そんなやり取りを含めて、井上先生は知ってか知らずか、おそらく知ってはったのでしょう、見すごしてくれました。

 インターネットを始めたのは、兄の影響です。お兄ちゃん子でしたから、ほら、下の子は上の子のすることは何でもまねてやりたがるというでしょう。洋ちゃんがまさしくそれでした。ファミコン、スーパーファミコン、あと何とかいうゲーム機、パソコンも何種類か。

「おばちゃん、洋一はええなあ、こんなにゲームがあって」そんなふうにいわれたこともあります。

 でもね、わたしは子どもがほしがるものを何でも買い与えたのとは違います。これは上の2人でも一緒です。もっとも、洋ちゃんには特別に甘かった、というのは認めます。

 うちは、お父さんと結婚するときに約束したんです。

「暮らしはお父さんの稼ぎでやらせてもらいますから。わたしは女やから働きたい思うても働ける時と場所というもんがある。せやから、わたしの稼ぎはあてにせんとしっかり働いてください。遊びや何や知らん悪いことに使うような程度の低いことはしません。旅行や、何か記念になる大きなものや、子どもができたら子どものために、たくさんたまったら家の2軒目、3軒目を建ててもよろしいでしょう」

 そういうたら、お父さんは「わかった。よろしく頼みます」って。いってみたら、桁の大きな公認のへそくりみたいなものです。

 おかげで治療にもずいぶん足しになりました。難しい病気だと認定されて、医療費も国や県のお世話にずいぶんなりましたけれど、それでもやっぱり足りなくて、どこのお家でも病気しはったら難儀しますでしょう。はずかしい話ですが、うちでも切羽詰ったことはそれはもうあります。

 2001年当時は、いまのように、病気のお子さんをかかえた親御さんに支援グループいうんですか、そういう動きをとって、代理で募金活動をしてくださるような方はいてはりませんでした。それに、仮にそんな機会があったとしても、洋ちゃんもわたしも「そんな、他人様のお世話になるようなみっともないことまでせえへんかて」いうて、とことん自分たちの力で、めいっぱい見栄や、意地のようなものをはっていたやろうと思います。

 たとえば、うちの場合は、洋ちゃんが積み立てていた自転車事故保険の満期払い戻し金を充てるところまで来ておりました。そこまでしていても――これはいうてはいけないことかもしれないですけれど――8月、9月のころにはいよいよ首がまわらなくなって、せっかく建てた2軒目の家を手放さないとあかんやろうかねえ、なんて洋ちゃんには聞こえないところで家族みんなで相談していたんです。

 それが変ないいかたやけれど、家を手放すところまではいかないうちに、10月の初めには、洋ちゃんはああなってしもうて。

「とことん親孝行な子やったなあ」

 なんて、いまでも思い出して上の子らと話すことがあります。

 洋ちゃんが聞いたら怒るやろうか、それとも、母さん、ええ子やろうと鼻を高くするかしら。

 洋ちゃんとは、いちどだけ、病気について正面から向き合ったことがあります。

 病気で苦しかったのでしょう、洋ちゃんが「こんなにつらい思いをして、母さんも治療費のこととか大変やない? 治る見込みがないのならどうして神様はこんな病気をくれたのかな。これから先、何を支えにして生きていけばいいのかな」と、あるときぽろっと口に出していったことがあります。

 私はいうたんです。「洋ちゃん、母さんが前に話した逃げるってことは、そういうことやないんよ。よくない喩えかも知れへんけど、洋ちゃんが将来、足がしんどくなってよう動かんようになったら、手を動かして得意なコンピュータでなにかできることを探せばええやないの」

「手が動かなくなったら?」

「そのときはそのときで母さんが考えてあげます。どんなになっても洋ちゃんは母さんの子、母さんの子として生まれて生きていくのは、これはこれでけっこう気合がいるんよ。そのことは忘れんといて」

 洋ちゃんは、わかったようなわからんような表情をしておりました。

 これをいうとわが子自慢になりますが、洋ちゃんは、本音のところを何分か残して表によう出さんところがありました。かというて腹にいちもつある、いうのとは違います。その子がつい、病気のつらさをもらしてしまったのやから、あのときは、よほどきつかったのでしょう。

 洋ちゃんが小学校5年生のときのことでした。

 毎年恒例のマラソン大会が行われたときのことです。

 あの子はスポーツが得意で、駆け足は長いのも短いのも得意でした。たしか学年で3番になったのとちゃいますやろか。洋ちゃんの晴れ舞台や、いうんで、兄と姉が学校を休んで応援に行っておりました。兄姉がいうには、洋ちゃんは最後のトラック1周か2周のところまで2番につけておったそうなんです。1番は学校でも有名なスポーツ万能の子で、さすがにその子にはかなわんやろうと思うていました。みんなからも一目おかれる子がどこの学校にもいてはりますでしょう。

 洋ちゃんも前の日には「2番まではいけると思うけれど」なんていうてました。「1番はあの子や。逆立ちしてもよう勝てんわ」なんてね。そこに照れ隠しがあることも親としてはわかっていました。

 それがね、その1番の子とは別に、ラスト1周で猛然と追いかけてきた同じクラスの子がいたそうなんです。しかも洋ちゃんはその気配を察すると適当に見せ場をつくって校内を盛り上げたあとで、勝ち負けにわれ関せず、といった雰囲気ペースを崩すことなく後ろからきた子にコースを譲り、あわてず騒がず3位でゴールインしたそうなんです。

「洋ちゃん、惜しかったねえ」「もうちょっとで2番だったのに」

 上の子はふたりして悔しがっています。それを洋ちゃんは、聞き流して、さっさと着替えて同級生たちと別の遊びをはじめたというんやから、びっくりしました。そして、そのときの様子を想像してわたしはおなかをかかえて笑いました。

 この話には、もう少し続きがあるんです。

 学年がかわるときに、クラスで記念の文集を作りますでしょう。洋ちゃんの代は30人学級でした。その30人のうち、マラソン大会のことを書いたのが、2位に入った子を含めて5人しかいなかったんです。20人は、それとはまったく別の同じことを書いた。

 5年生当時、洋ちゃんと、仲のよかった子たちで「ズッコケ3人組」のようなものを結成していたんですね。その3人組が、音楽の授業のはじまる前に、ふざけて音楽室にあったエレクトーンを壊してしまったらしいんです。なにか弾くものがないと授業になりませんから、別の、離れたところにある視聴覚教室から音楽の授業のたびに罰として3人はピアノ運びを先生から命じられました。エレクトーンが修理から戻ってくるまでのあいだ、ずっとです。

 わたしもいちど学校に呼び出されましたけれど、何やらもう、神妙な顔つきをしながら洋ちゃんは心の中では舌を出しているのがわかっておりますから、その顔つきがおかしくておかしくて、先生は憤然としてはるし、難儀したことをよく覚えています。

 クラスの20人が作文に書いたというのが、その「ズッコケ」一味の思い出だったんですね。よくまあ、みなさんこんなにも洋ちゃんたちの一挙手一投足を覚えていてくれはるなあというくらい、四季折々のいたずらっぷりをあの年代の子どもらしい描写で記してくれています。なかでもエレクトーン事件がみなさんの印象にはいちばん残ったのかしら。別段、目立つところのあるような子でもなかったから、上の子からは「洋ちゃんがファミコンのカセットで買収したのとちゃうやろうか」「洋ちゃんならやりかねんわ」なんて、からかわれたりもしていましたね。

 その文集ですが、洋ちゃんはマラソンのことでも、エレクトーン事件のことでも、いたずら仲間のことを書くのでもなく、「みゃあみゃあのこと」という、お聞きになっていて何やらようわかりませんでしょう、なんとも不思議な題名の作文を載せたんです。みゃあみゃあというのは、そのころうちで世話をしていた三毛猫の名前で、洋ちゃんと一緒に育った、初代のおばあちゃん猫のことです。

「うちにはみゃあみゃあという年よりの猫がいます。ぼくはみゃあみゃあのことが大好きです。でも、みゃあみゃあがぼくのことが好きかは猫のことなのでわかりません」――そんなことを瓢々と綴って。

 文集だって、わたしが気づくまでランドセルの中に入れたままだったんです。書いたとも書かないともいわずに、見つけておどろいて、読んでまたおどろきました。

「洋ちゃん、せっかくの文集なんやから、もっとほかのことを書いたらよかったのに」とわたしが探り半分にいうと、「母さん、それ聞きかたちゃうで」「どういうこと?」「そういうときは、洋ちゃん、ほんまにみゃあみゃあのことが好きなんやね、いうんよ」

 そこでわが子に教えられたとおりのことばを返すと、そうや。母さんと違って、みゃあみゃあはむつかしいことをよういわへんからなあ、なんてことをいって、舌を出してどこかにささっと遊びに出てしまうんです。

 あの子の本音は、ふつうの子とはたしかにちょっと違ったところにあったのかもしれません。病気から「逃げる」「がんばらない」いうのやって、ただ現実逃避するのとはきっと違うのでしょう。そこには洋ちゃんなりの、まだだれにもよう見せてへん気持ちやら考えやらが込められていたのやないかと、そんなふうに思うています。

「アメリカでは、10代、20代の白血病にかかった人たちがインターネットで情報交換する場所があるんやって。僕も日本で同じことをやってみたい、いうたら、井上先生、相談に乗ってくれるやろか」

 頭で考えた本音と、気持ちの本音とでは少しちがうかもしれませんが、洋ちゃんの夢をひとつの具体的な形にしたら、そんなところにあったのは確かやったろうと思います。

 本音といえば、あの不思議な先生のこと。

 いまお話ししたような性格やから、洋ちゃんが「会いたい」なんて、気持ちをまっすぐにことばに表すのはめったにないことなんです。ひょっとしたらあのとき一回きりだったかもというくらい、ほかには思い当たる節はありません。好きやった女の子にもよういわへんかった。そうやからあと一歩のところで先生と洋ちゃんがお話しできなかったのは残念に思います。

 でもね、あとから聞いたところでは、なんでも、病棟の一階で耳鼻科にいこうとして道に迷うてはるおばあさんを案内して一緒になって道に迷うて、それで約束の時間にお越しになれへんかったそうやないですか。大学病院は、知らない人にとってはまるで迷路のようなところですから。

 それに、わざわざ白衣を着ていらっしゃったとか。大学病院に白衣でおって、患者さんから道を尋ねられたら、それはよう断れんでしょう。

 ちょうどその日の、おいでになるはずやった時間の、ほんのわずか後に洋ちゃんが具合を悪くして意識がはっきりと戻らんようになってしまったのは、先生にとってもさぞかしお辛いことやったろうと思います。

 でも、これをいうたら不謹慎かしら、洋ちゃんがもし事情を知っておったら「井上先生のほかにもまぬけな先生がいてはった」いうて、大喜びで、掲示板いうんですか、インターネットでみんなに広めていた、そんな気もするんです。

 だれが悪いのでもない、生きていると、そういうこともあります。そやから、あまり気に病まんとね。

 それにしても、どうしてわざわざ白衣で見えるなんてことしはったのやろか。

「できれば、よよん君と、足の裏を合わせてもいいでしょうか」

 そんなこともいうてはった。

 洋ちゃんがよろこぶのなら、どうぞと、あのときはわたしも思わず返事をしましたけれど、あれは何やったのやろうねえ。何か、お聞きになっていませんか、そうですか。

 話が長うなりました。

 そうしたら、どうか、身体にお気をつけて、洋ちゃんの分も母から「いつもおおきにね」いうてたと、よろしく伝えてくれはりますか。そういうてくれたら、先生には、わかります。

 谷沢さんやって、洋ちゃん思いが余ってお通夜のときにはちょっと気を悪くしてはりましたけれど、いつまでも根にもって怒っておるような人やあらへんからね――

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