第7章:血液内科医(2)

 血液内科医がその専門選択にあたって採用した「タモリさんモデル」は、しばらくの間、効力を発揮したようだった。

 それはあたかも、かれが番組内でときおり手書きしてゲストにプレゼントするおまじないのようであった。一定の確かな効能があらわれた。血液内科医は留年することもなく、必要な単位をとり揃えると、医師国家試験に合格したのだった。

 大学卒業を迎えると、指導教官の推薦を得て、本州中ほどにある比較的大きな病院に研修医のポジションを得た。

 しかし残念ながらと、ここでいわなければならない。

 湯上りの身体にいつかは冷えがくるように、効能にも影がさす時期がやってくる。

 8年が過ぎたころにそれはやってきた。

 どうやら、ぼくたちが20代のはじめに描く夢や理想は、30代の半ばを迎えるころには、現実という名前のつかみどころのない何ものかによって徐々にむしばまれていく定めにあるらしかった。この過酷は、血液内科医の場合にも例外とはなり得なかったようである。

 温暖な九州地方から、わずかに涼しい気候の土地に移ってきたのが、合わなかったのか。あるいは、ディケイドが変わり、1990年代を迎えたためだったろうか。タモリさんの歌もわずかずつ、その姿を変えていったころだ。

 多忙におわれた。充実もあった。

 だが、体重がベストのときから15キロ近くも減っていたことを充実と解釈できるのにも、おのずと限界があるというものだろう。夜勤の合間に、いままでに歩いたことのある道を住宅地図上で赤く塗りつぶしてみた。あるいは昼間に、買い込んでおいた難解なジグソーパズルを解くことに息抜きを覚えるようになった。それらが健全な精神の働きであるとは、ちょっといいがたい。目がむやみに煌々として、身体つきが別人のようにやせ細った血液内科医のことを、同僚たちは悪い病気にでもかかったのではないかと声をひそめ、目配せしあった。

「医療の神様に捧げるものをまちがえたか、はなからまったく見当違いのものであったか、あるいは、うかつに近づこうとして火傷をしてしまったのかもしれませんね」

 いまにしてようやく客観視できるまでになったが、渦中にそれは並大抵の熱さではなかったろうと思う。

 気づいたときには、傍からみても危ぶまれるくらいに、心身のバランスを崩していた。不和は、ある患者さんとの間に生じたコミュニケーションギャップを引き金にして、決定的なものになったようだった。

 ある年の春先に、それは、おきた。


「先生、もういいの。これまでよくしてくれて本当にどうもありがとうね」

 信頼を寄せられ、治すこちら側も何かと頼りにしていたはずのその老婦人は、ある春の朝、回診に行くと一点の曇りもない表情でそうつぶやいた。その笑顔があまりにやさしく気品に満ちてみえたので、血液内科医はそれを新しい冗談か何かだろうと思った。それまでにも、すさみがちな気持ちを、老婦人はしばしばあの手この手で癒そうとしてくれていた。

 だが彼女の治療を拒否する姿勢はやさしい表情の対極にあって峻厳としていた。とりつく島がないとはこのことだろうかと思った。

 喜寿をとうに過ぎた身体が治療拒否をする必然として、ほどなく、全身から生気が失われていった。たしかに年齢からくるものもあって寛解の見通しの立たないのは事実ではあった。が、それにしても治療を拒否されるいわれは血液内科医にはまったく思い当たらなかった。カルテのあらゆる頁、片言隻句を探ってみた。しかし治療自体にも、会話にも、伏線のようなものは見当たらなかった。

 一週間後、彼女は自ら願ったように静かに息を引き取った。

 すると、出身地という地方のとある都市から、団体がバスで乗り付けてやってきた。血液内科医にはそれらの顔がどれも同じ骨格、表情をしているように見えてならなかった。一族の遺伝的要因の色濃さによるものなのか、そのときすでに血液内科医が人の表情を見分けられないほどに落ち込んでいたからなのかはわからない。

 覚えているのは、そのとき、身体を通り抜けていったイメージである。それまで遠くに見えていた天空の夢か地平線のようなものが、黄砂とともに崩れ去った。そしてそのイメージは、かつての五月病のときとはちがって、容易に去ろうとはしなかった。

 かろうじて医務室に引き上げると、ひからびた涙をながし、声にならない声でわめき、ののしった。

 被害は同僚だけでなく、そのころ血液内科医がともに暮らしていたパートナーにも、情け容赦なくおよんだ。だが、かれらとしてもどうすることもできなかった。

 ――タモリさんの番組では、「もういい」といわれたときに、どういうふうに合いの手を入れていたのだったか――まさか、「いいとも」と返すわけには――

 血液内科医は泣きながらそんなことを考えていたのだが、もちろん、その複雑な内面の構成は周囲のだれにも知りようがない。

 吹き荒れた嵐の後には、声を失い、こわばったひとつまみの抜け殻が残された。


 血液内科医の形をした抜け殻は、ある日、春の風に吹かれながら、自宅マンションの一室で睡眠薬を舌の奥深くにねじ込み、都市ガスの管をひねると返す手で果物ナイフを握り、反対側の手首をそっと引いた。一命をとりとめたのは、その日出勤してこない同僚のことを前々から怪しいと思って警戒していた別の科の医師が、低層の壁と柱を鉄棒競技にみたて、ベランダから不法に侵入してくれたおかげである。

 血液内科医は医局に休職の届けを出した。

 かわいた昆虫は声を失い、風化して地に還り次の生命を育むという至福に浴することなく、地上に堕ちた。そのとき、わずかに自分の重みを感じることができたか、どうか。ちなみに、そのころ、ずっと上空では、ミレニアムという、新しい世紀を迎える華やかなイルミネーションと歓喜の声が通りすぎていったのだったが、地表を這うのに精一杯の、ひとつまみほどの虫にとっては、もはやどうでもいいことだった。

 その、堕ちた日々において、血液内科医の現実感覚をわずかに支えていたのは、休職延長の手続きをとるために心療内科と医局を行き来するときの痛覚である。

 お昼の番組も、血液内科医を見はなすようになって久しかった。これといった告知もなく、「友だちの輪」がうたわれなくなってから、もうだいぶ時が経っている。

 テレビに代わって、干からびた血液内科医の、ぽっかりと開いた間隙に触手をのばし、ひたひたと侵食し、滋養と強壮をもたらしてくれたのが、当時、急速な勢いで広まりをみせていたインターネットだった。

 当時のインターネットとは、すなわち「2ちゃんねる」のことである。


 2002年2月のあの日の午後――よよん君が病室を抜け出してPHSから細い電波を飛ばし、何を思ったかあの悪名高い巨大匿名掲示板群にスレッドをたてたそのとき――血液内科医が平日のひる日なかからあのような場所にいたのは、以上に述べたような個人史的な事情によるところが大きい。

 もちろん、よよん君はそんなことはつゆ知らない。

 事情は、知られてはならなかった。頼りにしようと、支えにしようと手を伸ばしているのは自分のほうだった。けれどそのことを垣間見られたり、悟られたりするわけにはいかない。そんなことは、もってのほかだった。

 なぜか、よよん君の書き込みを見かけたときに感性のその部分だけ健全に機能したことを血液内科医はおぼえている。

 しばし立ち止まって、一計を案じることにした。そして出した結論はといえば――

「仮面をかぶることにしました」

 ひさしぶりにクローゼットからくまのかぶりものを取り出してそばに置いた。そもそもそこは「2ちゃんねる」なのだった。基本的に何をやっても許される場所。匿名の臆病者たちが罵声と手斧を交わしあっている戦場。その陰で、かぶりものをして踊ったところで後ろ指をさされるような行為にあたるとは思えない。

 血液内科医は、冷え固まった手足に活を入れるために、自らに宣託を下した。

「くまの中の人などいない」

 それからキッチンテーブルの上に散らばった精神安定剤に手を伸ばし、少ない水で飲み下すと、呼吸を整え、医学辞典のほこりをはたいてぱらぱらとめくり、男の子に声をかけた。男の子は返事をくれた。ひとことふたことことばを交わすと、男の子は予期した以上に自分を慕ってくれたように見えた。

 うれしかった。どこかに火が点いたのが、自分でもわかるようだった。

「私の患者。放っておくわけにはいかない」

 そう、つぶやいた。そして、わるい予感がしたとおり、書き込みを見るかぎりでは男の子の症状は重篤だった。

 あの日、こうして血液内科医は立ち上がったのだった。立ち上がる力はもうだいぶ以前に失われていたのだが、そのことは、頭からすっぽりと抜け落ちていた。

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