あとがきに代えて
よよん君のお母様と初めてお会いしたときに、「できれば、闘病記にはしてほしくないんです」といわれたことを覚えています。
どういうことですかとお尋ねしたら、洋ちゃんはこんなに辛かった、大変だった、がんばったと書いてもらってもきっとよろこばへんちゃうかなと思うてます、そう仰いました。
そうだろうなと、ぼくは思いました。
いずれ、この話が書き上がったとき、ぼくはよよん君のお墓に報告に行くだろう。
そのとき、「闘病記ができたよ」――そんなふうに、彼に伝えられる、伝えていいとは、ぼくには到底、思えませんでした。
ぼくはものを、小説を、物語を書くことに関して、ひとつだけ確固たる持論がある。
それは「役に立たないものは意味がない」ということです。ここで役に立つ立たないというのは、書いたり読んだりした人の「生を更新する」効果効能がはっきりと手に取るようにわかるかどうかです。
2017年3月、この物語を仕上げるラスト・スパート(こういうときにナカグロを打つのが山際淳司の流儀です)をかけてから半年の間に、不思議なとしか形容できない神風が吹きました。商談は連戦連勝、売上が積み上がり、創業会社からスピンアウトした、いまや企業グループの屋台骨を背負う組織に転籍と二階級特進をし、チームのメンバーにも恵まれ、いえ、それでもまだ心療内科には通い続けています。
ぼくはこれがよよん君の粋な計らいだったのではないかと、心ひそかに信じています。
かつて張本勲が「王も長嶋も野村克也も、よくバットを振った。それは判る。しかし張本もよくやりました。練習量では負けていない」と胸をはっていったというエピソードを聞いたことがあります。
ぼくもいささか、かなりの練習をこなしてきたと思っています。ですが、この道はほんとうに厳しい。何より、才能に乏しい。それでも、練習をやめなかった。純度の高い、長い孤独がここにはありました。
そのことに対して、近江商人の血を引く、明るく現実的な生活倫理を、天賦その身に授かっていた節のあるよよん君は、ぼくに、もうそろそろ、これからはよく働いて、まっとうな暮らしをしたほうがいいよといってくれている。そうとしか思えない流れを感じました。
しかし、その一方で、ぼくは次の書きものとして、中澤系(1970-2008)という夭逝した現代歌人の評伝の構想を進めていたりもします。まだ、うまくいえないのですが、どうしたものか、ひとまず、10月、京都のお墓参りの際に、よよん君の声に、静かに耳を傾けてみるつもりです。
光岳洋普禅定門――叡山の光と風をうけて、洋(ひろ)く普く在る
御所の西北西ゆえに西陣と呼ばれたか、その街の一角、称念寺(猫寺)さんに眠る、よよん君の戒名です。ぜひ、お訪ねになってみてください。境内に入り、入り戸を潜ったら、そのまままっすぐ歩いた、右手のところです。
毎月2日、月命日の前後には、ご家族のものに加えて、だれのものか知れない花束とコーラが、飾られています。
2017年9月吉日
船橋海神 拝
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