窓ごしの花火

陽澄すずめ

窓ごしの花火

 窓の外を、雨がしとしと降っていた。

 厚い雲に覆われた空が、徐々にその灰色を濃くしていく。太陽はついに顔を覗かせることもないまま、今日一日の仕事を終えてしまった。

 今年の梅雨は長引くらしい。このところずっと天気の悪い日が続いている。外を歩き回るようなことはほとんどないとはいえ、こうも雨ばかりではどうにも気分が滅入ってしまう。

 彼女は視線を部屋の中に戻した。

 ベッドの上には、痩せ細った夫が横たわっている。枯れ枝のような腕からは点滴の太いチューブが伸び、顔の半分を覆う酸素マスクは枕元の機械に繋がっていた。

 その姿に、元気だったころの面影はない。山歩きが趣味で、骨太のがっしりした体格だったのに。病み衰えてしまった彼の姿を見るたびに、心の底がしんと冷えていくような気持ちになる。

 夫が寝たきりになってから、三年の月日が経過していた。ここ一年ほどは意識も戻っていない。生命維持装置から聞こえる、ピッ、ピッ、という規則正しい音は、既に彼女の意識の下に潜り込んでいる。つんとした尿の臭いにも慣れてしまった。

 彼女は毎朝この病室を訪れる。窓際の椅子に座って本や雑誌を読みながら日中を過ごし、時おり夫の身体の向きを変えてやる。日に何度か様子を見にくる看護師に挨拶をする以外は、誰かと口をきくこともない。昼時と夕方には売店で買ったパンやおにぎりを細々と食べ、陽が沈んだころに帰宅する。

 夫と二人きりの病室は、時が止まっているように感じられた。世界から切り取られた、出口のない空間。この真っ白な部屋で長いこと過ごしていると、彼が初めから寝たきりの老人であったかのような感覚に陥る。

 ベッドの上で動かない彼と、窓際からそれを眺める自分。昼と夜とが事務的に入れ替わるだけで、特に目立った変化もない。何十回も、何百回も、同じような一日を繰り返している。まるでこの先も永久にそんな日々が続くのではないかと思えてしまうほどに。

 それでも月に二度ほどは、娘と高校生の孫が見舞いにやってくる。それによって彼女は、かろうじて月日の流れを知ることができた。

 本当なら今日は、娘たちが来るはずだった。しかし、やはりやめておくと、昼過ぎに連絡があった。

 みなと祭りがあるから、地下鉄がすごく混んでるでしょう。娘がそう言うのを聞いて、今日が海の日であることに彼女は気づいた。

 N港の花火大会は、毎年海の日に行われている。この病院はN港へ向かう地下鉄の沿線上にあるのだ。

 もっとも、この雨で本当に花火が上がるのかはわからない。だがそれを確かめる術も理由もないし、どのみち娘たちが来ないことに変わりはなかった。

 かつては、みなと祭りが行われるかどうか、熱心に気に掛けていたのに。彼女はふとそんなことを思い出した。

 彼女と夫の家はN港に近く、縁側からは祭りの花火がよく見える。孫がまだ小学生だったころは、毎年この日に合わせて泊まりで遊びに来ていた。ほんの五年ほど前までは、大切な日だったのだ。

 しかしこの閉ざされた病室では、それも遥か遠い昔のできごとのように思えた。むしろ、そんなことがあったという事実すらも疑いたくなってしまう。過去の記憶を呼び起こそうとすると、くぐもった分厚いガラスケースの中から外の景色を眺めているような気分になった。

 彼女はちらりと窓のほうに目をやった。気づけば、外はもうずいぶん暗くなっている。

 そろそろ帰らなくては。

 彼女は小机の上に広げていた雑誌とサンドイッチのごみをさっと片づけた。この雨の中歩いていくことを思うと少しだけ気が重かったが、幾度となく繰り返した帰り際の動作が止まることはない。今日もいつも通りに終わり、明日になればまた同じ場所に座っているのだろう。

 少ない荷物をまとめ、腰を上げようとしたその時だった。

 ぱん、という小さな音が、彼女の耳に入ったのである。

 聞き覚えのある音に、思わず顔を上げる。

 その瞬間、彼女の脳裏にあるイメージが蘇った。


 目の前には、よく冷えた西瓜がある。この日のために市場で買っておいたものだ。まな板の上に載ったそれを、彼女は大ぶりの包丁で切り分けていく。鮮やかな赤色の果肉に、黒々とした種がびっしりと並んでいる。よく熟れていて、瑞々しい。

 半月型になった西瓜三切れと濃いめに作ったカルピスのグラス三つを盆に載せ、彼女はお勝手から床の間へと歩いていった。おばあちゃん早く、とはしゃいだ声が聞こえる。

 床の間から続きになっている縁側には、孫娘と夫の姿があった。孫の小さな背中と夫の大きな背中が並んでいるのを見て、彼女は思わず目を細めた。

 縁側に近づくと、ふわりと蚊取り線香の匂いがした。同時に、湿気をはらんだぬるい空気に身体を包まれる。

 空は深い群青色に染まっていた。星はほとんど見えないが、淡い色の三日月が低い位置にかかっている。

 彼女は盆を置き、孫の隣に腰を下ろした。三人並んで、空を見上げる。

 開始時刻に向けて、孫が腕時計をかざしながらカウントダウンを始めた。

 十、九、八、七……

 不意に風が吹き、頬を撫でていく。祭りの人いきれを感じた気がした。

 六、五、四……

 息を飲む。その時を、待ち望んでいる。

 三、二、一。

 カウントゼロ。

 一本の細い線が、すうっと空を駆け上っていった。まるで、まっすぐ天に向かう光の糸だ。

 次の瞬間、最初の花火がぱっと開く。それはたちまち大きく大きく拡がって、こちらへ迫ってくるかのように錯覚した。

 少し遅れて、ぱん、という音が耳に届く。空に咲く大輪の花々に目を奪われた彼女の胸に、不意打ちのようにどきりと響く。

 それを皮切りに、花火は次々打ち上がる。赤、緑、黄色に紫。南の空一帯が、華やかに彩られていく。

 彼女の隣で、孫がきゃあきゃあと歓声を上げている。おばあちゃん、すごいね。ほんと、きれいねぇ。ほら、また大きなのが上がったよ。

 興奮しながら言葉を交わす彼女と孫の姿を、夫はにこにこしながら眺めていた。

 無口な彼がしみじみとこぼした言葉を、彼女は聞き逃さなかった。

——あぁ、楽しいなぁ。


 彼女は立ち上がり、じっと目を凝らして窓の外を見つめていた。いつの間にか雨は強くなっている。

 先ほどの音はあれきり聞こえなくなってしまった。花火らしき光も見当たらない。例えあれが本当に花火の音だったとしても、建物の影に隠れてうまく見えないかもしれなかった。

 それでも、彼女の顔には淡い微笑みが浮かんでいた。

 彼女は少し夫のほうを振り返り、ほんの小さな声でぽつりと呟いた。

「あなた、花火……」

 ピッ、ピッ、という装置の音が、刻々と時を進めていく。その隙間を、ざあざあという雨音が塗り潰す。

 いつまで経っても、あの残響は置き去りにされたまま。

 ただ、一粒の涙だけが、音もなく彼女の頬を滑り落ちていった。


―了―

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