第25話 昭和二十年九月二十九日金曜日 了
警察車両が青山最上階の高級住宅街に続々とやってきて、サツ回りの記者とカメラマンがマグネシウムを焚いている。有川と篠宮は愛情が過ぎた殺人だ、高階婦人は浮気を疑ってノイローゼになってしまったんだよと照山と田島に教えた。二人とも当然納得しなかったが、そこは長い付き合いでどうしてもいえない事情があるのだと察して引いてくれた。
「すまん、一つ貸しだ」
いくらこの二人でもあの原子爆弾の秘密を共有するのは危険すぎた。二人の身に何か起こらないとも限らない。
ネガは湯興仁のヤミ金庫にこれから二十年沈めておくことにした。広島計画自体は既に日米両軍が開発を完了している。彼らの知らないところでネガが存在しているという事実がこの危険な爆弾の使用を抑止しているのが実情だ。有川も篠宮も本音を言えば、こんなネガは焼いてしまいたかった。
この原子爆弾の技術はこれからも進歩し続けていくのだろう。そして、芥子粒一つの大きさにまで凝縮された爆弾に火をつけたら最後、人類が絶滅するほどの爆弾がいつの日か生まれるのだ。
それがあの男爵のような人物の手に渡らないという保証はどこにもない。
それから一週間は新聞雑誌が根拠もなしにめちゃくちゃなことを書き立てた。高階婦人のソ連スパイ説だの東宝女優と神宮寺との不倫疑惑だの、そして、何よりも警察から捜査権を奪い取った軍への非難となぜ軍が関与したのかについても取材が殺到し、陸軍は情報の秘匿に必死になっていた。
有川たちはそれらのスキャンダルから遠いところで事件のその後を眺めていた。
有川は事務所にやってきて、日めくりカレンダーを破いた。九月二十九日金曜日。
もう、あの事件はとうの昔に忘れ去られた。陸軍が火消しにまわったのもあったし、この一ヶ月にケーブルカー会社の疑獄事件と金鵄勲章売勲事件、それに映画スターの電撃結婚と華やかな話題が目白押しだった。これらと比べると、高階婦人の殺人事件は精神薄弱な有閑マダムの錯乱程度でしかなかった。
それでも有川には引きずるものがあった。
「故買屋をあたる、か」有川は缶で買ったチェリーを吹かした。「有川順ノ助なら、たぶん真っ先にやってたんだろうな」
「そう悲観するものでもないじゃないかな」篠宮が言った。「君は最初、高階婦人の線を疑っていた」
「その疑念も新しい情報が出てくるうちにどんどん薄れていった」
「確かにそうだけど、でも結局犯人は高階婦人だった。君には事件に対するカンがあるんだよ、有川。それは血筋じゃないかな」
「血筋ねえ……あ、そうだ」有川はカバンから紙ばさみを取り出した。「あの事件の報告書、関係書類。全部入ってる――あ、いけね、名前入れるの、忘れてた」
「ちょっとまった」万年筆を手にした有川を篠宮が制止した。「なんて書くつもり」
「いつもどおり。犯人探しのハの四五/〇八/一七にするつもりだけど」
「そのことなんだけどね」篠宮は微笑を浮かべて、どうぞ、と入口のほうへ声をかけた。
響子・ポクロフスカヤだった。レモン色のワンピースにシトラス系の香水、靴は革製の明るい色だった。
響子は微笑んで言った。
「貼り紙を見て、事務員の募集をしているとお聞きしまして」
「え、でも、いいんですか?」有川が驚きつつも言った。「響子さんなら、うちも大歓迎なんですけど」
「よかった。叔父さんの遺産ばかりに頼ってちゃいけませんからね。家ももっと小さなアパートに移して住んでるんです。それで、自活のための仕事を探していて、有川さんたちのことを思い出して――」
安心した。事件直後の一週間は連絡が取れず、それこそ警察と記者がピラニアみたいに彼女に群がっていた。親代わりの叔父を殺され、母のように慕っていた人が犯人であったことが判明して、それに押しつぶされていないか心配していたが、彼女には自然な微笑を失わない芯の強さがあったのだ。
「響子さんに第一の仕事を頼もうよ」篠宮が言った。「この事件に名前をつけてもらうんだ」
「いいのかい、響子さん」
「はいっ」
響子は篠宮のテーブルを借りて、紙ばさみの題名を書く欄にスラスラと万年筆を滑らせた。
「こんな感じでどうでしょう?」
有川と篠宮は二人で顔を並べて、題名を見た。
「いいね」篠宮が笑った。「実際その通りだし」
「本人たちは危機があったことなど微塵も知りもしないだろうけど」有川もうなずいた。「まあ、間違いない」
「じゃあ、この名前で資料室に入れますね」
響子はファイル・キャビネットを開けて、紙ばさみを入れた。題名の欄にはこう書いてあった。
『モスクワ・バトンルージュ救出事件』
~了~
煙突帝都の殺人事件 実茂 譲 @013043
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