第19話 昭和二十年八月二十一日月曜日 丙
目覚まし時計は午前七時に鳴った。結局、一秒も寝ていない。寺井は全く目を覚ます気配がないが、寝息はきちんと聞こえている。このままにしても問題ない、と思って外に出ると、水道橋まで飛んでいく飛行船があと五分で出船というところだった。事務所のある市ヶ谷街塔区を跳び越して、水道橋街塔区の第九階層にある貧乏アパートに駆け込むと、自分の部屋に入り、水で濡らした手ぬぐいで体をきれいにぬぐって、石鹸をつけて顔を洗い、無精鬚をそり落とし、新しいシャツと下着、ズボンに上着、ネズミ色の中折れ帽をかぶる。その後、売店で買ったあんぱんを食いながら、大急ぎで市ヶ谷へ行く乗り合いバスに乗る。眠気は全く取れなかった。バスの車体の横っ腹には確か《除倦覚醒剤! 頭脳の明晰化 眠気一掃》と謳われたヒロポン錠剤の広告があった。なるほど、その手もあったか、と思ったが、鮫ヶ淵で見たあの哀れな転向者の最期が思い出され、やめた。事務所に着いたら、五回くらい冷たい水で顔を洗おう。それで頭もシャッキリするだろう。
有川が事務所に行くと、篠宮が先に着いていた。
「その顔、一睡もしてないね」
「全部、寺井が悪い。でも、まあ、羽根突きで百連敗してもあそこまでならないってくらいの落書きをしてやったからな。それでチャラにしてやろう」
それぞれテーブルに着くと、篠宮が言った。
「今日は午前中に響子さんがくるから、そのおつもりで」
「響子さんには俺が簡潔に報告したぞ。セミョーノフ絡みのところまで」
「うん。だから昨日の夜、車で帰る途中に頼んだんだ。明日の午前十時半ごろにもう一度事務所に来てくれって」
「どうして?」
「一つ仮定があってね」
「仮定? なんだそりゃ?」
「とにかく試したいことがあるんだ」
「何を試すんだ?」
「それは秘密。カンが外れたとき恥ずかしいから」
その後、二人はすっかり整理された資料室をじっくりと観察した。全てがアイウエオ、ABCD、123で揃えられ、収納されていた。文句のつけようのない整理整頓ぶりだった。響子はさらに本棚の整理もしてくれたらしく、これも作者の名前をきちんとアイウエオ順に追えるようにしてあった。
午前十時半、事務所の窓から橋を渡ってくる響子の姿が見え、三分後には所長室の戸を開けていた。高階婦人の姿は見えなかった。
「昨日はいろいろすいませんでした。今日、高階婦人は?」
「救世軍婦人会のほうの会合でまた私一人です。それと、昨日は私のほうこそいろいろとすみませんでした」
おそらく涙を見せたことを言っているのだろう。有川は対面の椅子を勧めると、篠宮が有川の横にやってきて、妙なことをやり出した。かつて篠宮が女の子相手に絶対にやってはいけないことと言ったことをやり始めたのだ。
「青を基調にした百合柄の半袖のシルクのブラウス、トルコ石のブローチ、紺のスカート、ストッキング、黒くてかかとの低い靴、香水はラベンダー系」篠宮は立て板に水を流すようにとうとうと諳んじた。「これはあなたが初めてこの事務所にやってきたときの服装です。次にこれは昨夜、あなたがここに来たときの服装ですが、青いベレー帽にトルコ石のブローチ、白のシンプルなブラウス、青と黒とかなり淡いグレイのチェックのスカート、かかとの低い黒の靴、香水はシトラス系でした。そして、今日の服装ですが、淡い紫を基調にしたワンピース、リボンブローチ付きのベレー帽、付け襟で左にトルコ石のブローチ、浅葱色のリボン、手袋、香水はフローラル系」
あっけに取られた響子に篠宮はにこりと微笑むと、僕は出会った女性が着ているものをできるだけ覚えておこうとしているんです、と言った。
「それで気がついたのですが、響子さん、あなたの服装はいつも一つのアクセントに合わせて服を選んでます。というより、あなたのファッションがそれに引きずられていると言ってもいいでしょう。そのトルコ石のブローチです。これは僕の仮定ですが、そのブローチ、神宮寺氏が亡くなる少し前にもらったものではないでしょうか?」
響子はとまどいながら、はい、確かにそのとおりです、と答えた。
「そのとき、神宮寺氏は肌身離さず身につけているように言いませんでしたか?」
「はい。あれ? でも、どうしてそのことを?」
「お願いがあるんですが、そのブローチ、僕にお貸し願えませんか?」
「はい」
篠宮はブローチを受け取ると、それをテーブルに置いた。そして、銃を抜くと、戸惑う響子に対して、
「ちょっと乱暴なことをします。もし、これが僕の勘違いなら一生僕のことを嫌いぬいてくださっても結構です」
そういって、真珠層で出来た銃の握りを振り下ろした。銃の握りはブローチに命中し、トルコ石の破片が四方八方に飛び散った。
壊れたブローチから六十三と刻印された小さな鍵と半分に切ったコイン、それに四つ折りにされた小さな紙が出てきた。篠宮は銃をしまいながら言った。
「昨日、二銭銅貨の話を呼んでから何だか頭がもやもやしていましてね。ひょっとしてひょっとするとと思っていたんです」
有川は虫眼鏡で小さな紙片に書かれた字を呼んだ。
「飯田橋一階 見附三―二―七 湯興仁」
響子は驚いて鍵と半分に切ったコインを見ていた。
「でも、私、こんなものがブローチに隠されていたなんてこれっぽっちも知りませんでした」
「たぶん、亡くなった神宮寺氏は折りを見て、教えようとしたのでは?」有川が言った。「自分一人で持つよりは保険をかけたほうがいいと思ったんでしょう」
「でも、まあ、ブローチの秘密を告げずに死んでしまったんですから、意味はないんですけどね。こういう秘密を共有させるのはタイミングがひどく難しいんですよ」
「飯田橋の第一階層は唐人町だな」有川が渋柿でも食らったような顔をした。「すいません。響子さん、これはあなたにもご一緒してもらわなければいけないかもしれません。この鍵、おそらく湯興仁という人物が経営するヤミ金庫の鍵です。一応割符のコインもついていますが、ひょっとしたら本人の確認もしないといけなくなるかもしれません」
「はい。では、今から?」
「ええ、今からいきます」
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