第4話 昭和二十年八月十五日水曜日 丙

 餅川キネマを出て、腕時計に視線を落とす。四時四十分。だが、有川はもうダンスホールに行くことにした。考えてみればダンスホールには必ず煙草の売り子がいる。まさかダンスホールで禁煙はないだろう。

 有川は通りを横切って、上の階層につながる階段を上った。

 青山街塔区の十七階といえば、ジャズとダンスホールで有名であり、ボルサリーノの帽子を必要以上に傾けてかぶったりするようなめかし込んだ人々で賑わっている。目抜き通りの店の構えはもちろんアメリカ・ジャズクラブ式で瓦や障子のような日本を連想させるものは一切なし。「ディキシーランド」「シカゴ・ホール」「リトル・カンザス」といったアルファベットのネオンが青、赤、黄、紫に点灯し、クラブの入口の扉が開く度に「イン・ザ・ムード」や「ビューグル・コール・ラグ」の切れっぱしがワッと鼓膜を震わせる。

有川が道を渡ろうとすると突然、車が加速しながら角を曲がってきた。有川を危うく轢きそうになったのはカナリア色が美しい四人乗りの一九二九年型キャデラック・フェートンだった。車には酔っ払った八人の男女が幌を明けた状態で無理やり乗り込んでいて、ぐちゃぐちゃに絡まった男女のかたまりからストッキングを穿いた脚や舶来物のウイスキー瓶をつかんだ腕が伸びていた。彼らはキャーキャーゲラゲラ騒いだり笑ったりしながら、その後も蛇行運転を続け、サンドイッチ・マンを轢きかけてからバタン式交通信号を無視して別の通りに曲がって見えなくなった。おそらく華族の跡取りと戦争成金の娘たちだろう。赤坂街塔区一階のドヤ街で火事が起きて、日雇いとその家族が百人焼け死んでもニュースは社会欄に小さく端っこに載るだけだ。だが、あの酔っ払い連中が街塔区周縁のガードレールを突き破って十七階下の貧乏人の家の上に落っこちて骨肉四散の憂き目に遭えば、府内の各新聞は一週間くらいそのことで特集を組める。そして、大勢悲しむのだろう。もちろん有川も悲しむ。だが、それは酔っ払ったド阿呆八名のためではない。このド阿呆八名が空から降ってきたために家、あるいは命までをも失った貧乏人のために悲しむ。そして何よりもスクラップと化したあの、カナリア色の美しい一九二九年型キャデラック・フェートンのために悲しむのだ。

 あの手の馬鹿野郎たちは世間からはシカン世代と呼ばれている。

 一昔前、蒋介石が日本海軍の上海陸戦隊を攻撃して、支那事変が発生した際、日本は戦争の拡大化も辞さない態度でいた。そのころもシカン世代と呼ばれた。ただし、シカンは士官と書く。戦時中とあって、物事が軍隊流に何でもキビキビ動いたのだ。

 それに対し、現在のシカン世代は弛緩世代と呼ばれている。蒋介石との戦争が南京陥落であっという間に決着がつき、蒋介石側の提示した条件を日本側も承認して終戦。半年と戦わなかった戦争だった。すると、簡単に拾った勝利と士官世代の反動で緩みがやってくる。特に大きな緩みは太平洋の向こうからやってきた。カリフォルニア特需が多くの成金を生み、現在の日本はすっかり首まで成金文化に浸っている。

 弛み、緩みは人品の上下を問わない。警視庁の調べによると、詐欺や横領といった金に絡んだ犯罪の発生件数が毎年記録を更新し続けている。犯人は、上は没落華族から下は雲助まで。みんな金、金、金なのだ。

 日本は弛みっぱなしの緩みっぱなしだった。

「この国はおかしくなっちまってるのかもなあ」

 有川はそんなことをぼんやりと声に出し、両開きになったモンテビデオ・ダンスホールのドアを通った。客は踊り場に通じる廊下を進む前に、ロビーにある大理石製の上品なカウンターと対面する。カウンターの後ろはクローク・ルームだから、冬ならば毛皮のコートなり厚手のオーバーなりをここで預ける。ただ、有川の場合は違っていた。

「武器の類は携帯しておられますか?」と、受付係の品のいい若者が言い、にこりと笑った。

「ああ」

「では、カウンターでお預けください。なお預けられた銃については、もし、お客様のお酒が過ぎて人事不省となり、拳銃の携行について不安が生じたと当店で判断した場合、銃の返却をお断りすることもあります。その場合、後日、改めてのご返却となります。このことを事前にご承知いただけますか?」

「わかった」

 有川はサベージ・ピストルと弾倉を一つ預けた。銃と弾は内側にビロードを張ったオーク材の平べったい箱に入れられ、鍵がかけられた。有川は鍵を受け取った。丸く薄いアルミのキーホルダーは《十五番》と赤い字で刻印されていた。

「では、ごゆっくりお楽しみください」

 有川は踊り場に通じる廊下を歩いた。吊り下げていた銃がなくなった分、肩がずいぶん軽くなった。

 昔、こうした娯楽施設は武器の持ち込みに非常に寛大、というか無関心だったらしい。うるさくなったのは支那から軍閥の親分崩れたちが日本に流れ込んできてからだった。蒋介石に敗れた軍閥の親玉たちは大陸でこさえた莫大な財産とともに日本に逃げ込んで派手に金をばらまいて豪勢に暮らしていた。有川の知るところ、座敷やダンスホールで銃を見せびらかすという悪習を持ち込んだのはこいつらだ。これにより有川と違って仕事で銃を使う可能性が全くない日本人まで軍閥崩れの真似をして銃を携行したがるようになったのだ。これに店側も神経を尖らせたところで一事件起こった。三年か四年か前に、とある街塔区のとある座敷で山東省軍閥の元親分と安南の亡命皇族とのあいだで、おそらく女がらみのことで諍いが起こった。すわ決闘かとなると、フランスへの長期留学経験があった亡命皇族は西洋風の古式ゆかしい拳闘の構えを見せた。一方、軍閥の元親分はためらうことなくブローニング・ピストルを抜き、八発全弾を亡命皇族の顔に撃ち込んだ。

 ホールの扉を開く。大連帰りの南里文雄とホット・ペッパーズが「アット・ザ・ジャズ・バンド・ボール」をやっていた。音楽と歓声とダンスシューズが嵌め木板の床を打つ音。有川は中央で踊る男女の中に篠宮がいないか軽く見てみたが、案の定来ていなかった。有川は棕櫚の鉢がそばにある壁際の席に座ると、早速陳列箱を手に歩いてまわる煙草の売り子を呼び止め、チェリー二つを買い求めた。一本つけてバージニア種の甘さをたっぷり五分くらい楽しんでから灰皿に押しつけると、今度は喉が渇いてきた。

 有川は目の前を横切ろうとしたボーイを呼びとめ、

「ウイスキー・ソーダ。ただ、ソーダとウイスキーは別々にして持ってきてくれ」

 と、注文した。こうすれば店側はウイスキーの量をケチることが出来なくなるし、割る炭酸水の量も自分好みに変えられる。それに有川は強い炭酸水を飲んだときの感触が好きだった。

 ウイスキーと炭酸水が別々のグラスに入った状態でやってきたとき、曲が「サムデイ・スィートハート」に変わった。すると踊りはずっとスローなものになった。

 腕時計を見ると時間は四時五十五分だった。

 篠宮の来る気配がない。

 有川はため息をつきつつ、炭酸水を口にした。

 喉ではじける炭酸の泡が彼を満州の荒野へ連れていく。

「日本兵ニ告グ! 命ハ助ケル! 武器捨テテ投降セヨ!」

 満州なまりの日本語が聞こえてきた。激しく打ったのか肩が痛い。額が少し切れて血が垂れているようだが、気が遠くなることはない。何が起きたのか。物が全て真横に見える。そこで装甲列車が横倒しになったことに気づく。

「日本兵ニ告グ! 命ハ助ケル! 武器捨テテ投降セヨ!」

 真横に倒れたとあっては抵抗のしようがない。有川の相方だった機関銃手は横倒しの際に落下してきた九二式重機関銃に頭を割られて死んでいた。

「日本兵ニ告グ! 命ハ助ケル! 武器捨テテ投降セヨ!」

 考える力が麻痺していた。肩が――とくに右肩が痛かった。どうやら外では多くの日本兵が士卒を問わず降伏しているようだ。自分も投降しようと思い立ち上がろうとしたとき、裾が何かに引っかかった。正確には引っぱられていた。引っぱっているのは戦場に不釣合いなほど細く白い指だった。指の持ち主は昨日、余所から転属されてきた新人の機関銃手だった。

「出ちゃダメだ」新人は声をひそめて有川に言った。「奴らは殺るよ」

 その言葉を裏づけるように、数秒後にはピストルと小銃の乱射音が鳴り響いた。音が止むと、今度は馬賊の甲高い歓声とともに、ときどきピストルが数発発射されていた。死に損なった日本兵に笑いながらトドメの一発を撃ち込んでいるのだ。

 ここにいたら殺られる。脱出のために何か考えるべきだったが、頭の中は真っ白で何をすべきか、全く思いつかなかった。馬賊たちは列車の中も当然探索する。見つかったら、支那式のだんびらで首を斬り飛ばされるに違いない。恐慌をきたしかけた有川に対し、新人が、

「機関銃は撃てる?」

 と、落ち着いた様子で訊いてきた。

 恐慌状態の一歩手前で踏みとどまった有川は新人の問いに、どうだろう?と思って、自分の右肩に触れた。指先がぶつかっただけで火掻き棒を突っ込まれたような痛みが走った。

「無理だ」有川はうめいた。

「分かった」新人は言った。「じゃあ、援護して」

「肩がやられてるんだ。小銃だって使えない」

「照明弾を発射するのに使う信号銃がある。それくらいなら左手で撃てるよね?」

「そのくらいなら……」

「それで十分。僕が合図したら空に向けて撃ってくれ」

 有川と新人は横転した列車の左側面に上った。新人は九九式軽機関銃を一丁、それに弾倉を七つ持って、列車上で伏射の姿勢を取った。有川は紐を通した信号銃を首からぶら下げ、ポケットやベルトのあいだなどに十数発の照明弾を詰め込み、新人の隣に身を屈めた。

 新人が言った。「今だ!」

 有川は左手で照明弾を空に向かって打ち上げた。

 パラシュート付きの燐が空でギラギラと燃えて全てを照らし出した。多くの馬賊が光にその姿を晒したが、中でも胴の太い馬にまたがって革の外套を身につけた頭目らしき大男が特に目立った。すぐに機関銃の三連射。頭目は鞍から弾き飛ばされ、臓物を撒き散らしながら地に落ちたが、頭目の体が地面にぶつかるころには、そのすぐ横にいた馬賊が胸に三連発食らっていた。

 馬賊の半分以上が死んだ日本兵の持ち物を漁るために下馬していた。それが余計混乱をきたした。

 頭目の妾と見える女馬賊が手綱を口にくわえると、左右の手にそれぞれモーゼル拳銃を構え、勇ましく盲撃ちにしながら、装甲列車に突っ込んできた。新人はまた正確な三連射をやった。女馬賊の顔が額、鼻、口の順に吹き飛ばされ、くわえていた手綱が下顎の残骸から落ちると、一拍後に骸もその後を追って鞍から落ちた。

 有川がもう一発照明弾を放つと、頭目を失った馬賊が恐慌をきたしているところに、ミシンのように正確な三連射が三つ続き、三人の馬賊が斃された。新人は機関銃を自分の手足のように扱ってこちらの位置に気づいた馬賊を目敏く見つけては先制の三連射を撃ち込んだ。こうして、新人は襲いかかってくる馬賊の胸に、逃げ出そうとする馬賊の背に三つの焦げた穴を次々と開けていった。

 燐が燃え尽きれば、有川はまた新しい照明弾を撃ち、新人は冷静に三連射を撃ち込んで、馬上の匪賊たちを確実に殺していく。新人は二発でもなく四発でもなく、必ず三発で馬に当てることなく賊のみを淡々とした動作で仕留めていった。

 最後の燐が燃え尽きて、パラシュートがはるか遠くの丘の向こうに落ちるころには東から陽が昇り辺りが明るくなっていた。そして、思い思いの形で地に伏した戦果と損失が明らかになった。日本側は隊長を含む戦死三十七、馬賊側は頭目を含む戦死四十三。生き残ったのは二人だけだった。信号銃を握る有川の手は震えていて、銃を放すのに右手で左手の指をこじ開けなければいけなかった。

 有川は新人を見た。新人はちょうど太陽を背に立ち上がっていた。逆光で表情が見えなかったが、しばらくすると、

「あーあ」気の抜けた声がした。彼は足元の骸を見る代わりに空を仰いだ。「たい焼きが食べたいなあ」

 まるでそう唱えれば、こんがり焼けて尻尾まで餡が入ったたい焼きが降ってくるような様子だった。

 それが四十三人の馬賊を流れ作業のように撃ち殺し、紙一重の差で生き残った人間の第一声だった。有川はしばらくポカンとしていたが、だんだん可笑しさがこみ上げてきて、我慢しきれず声をあげて笑った。

「どうして笑うんだい?」新人は訊いた。

「分からん。そっちこそ、どうして満州の荒野のど真ん中でたい焼きを欲しがるんだ? 今川焼きじゃ駄目なのか?」

「うん、駄目だね」新人はきっぱりと言った。「たい焼きじゃなくちゃいけない。そういう君だって何か欲しいはずだ。考えてみたまえ」

 変なやつだと思いつつ、有川も考えた。そして一分くらい経って、頭の中でポン!と鳴って、

「ラムネ」

 と、言った。

「ただの炭酸水でもいい。喉に冷たさと刺激が欲しい」

 その答えを聞いた新人は嬉しそうに、ね? 言ったとおりだった、と微笑んだ。

 数十分後、青とも灰ともつかない色の空に日本軍の偵察飛行船が飛んでいるのが見えた。助かったのだ。

「おい、新人! 味方の飛行船だ。あれに拾ってもらえるぞ! これだけ戦ったんだ。きっと俺たちは内地送りだ。たい焼きだって好きなだけ食えるぞ」

 うん、と新人はうなずいたが、心ここにあらずといった様子だった。彼の視線の先には寒さで引き攣り奇妙な形にひん曲がって斃れている味方の骸があった。彼は誰に向けるわけでもなく、一唄口ずさんだ。


 昨日生まれた蛸の子が

 弾に当たって名誉の戦死

 蛸の遺骨はいつ帰る

 骨がないから帰れない

 蛸の母ちゃん悲しかろ


 新人は顔だけ有川のほうへ振り返った。

「僕らは大した悪運の持ち主らしいや」

「そうみたいだな」有川はゆっくりと高度を下げている偵察飛行船を見上げた。

「どうだろう?」新人は、今度は体ごと振り返った。「内地に帰ったら、生き残ったもの同士で一緒に商売でもしないかい?」

「商売?」

「うん」新人はうなずいた。「この運を戦争だけで使い切るのは惜しいと思ってね」

 新人はやや幼いが、非常に整った顔を綻ばせて笑った。有川もそれに釣られて顔を綻ばせた。

「商売か」叔父が遺してくれた探偵事務所一式のことを思い出しながら言った。「私立探偵なんてどうだ?」

「私立探偵か」新人は顎をつまんで少し考えると、うん、とうなずき楽しそうに言った。「そいつは素敵だ」

 新人は右肩がやられている有川を気遣って左手を差し出した。有川がそれを握り返すと、新人は言った。

「僕は篠宮紀一郎。よろしく頼むよ」

 炭酸水を一口飲もう。そう思って、有川は瞼を開けた。

 目の前に篠宮が立っていた。



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