第5話 昭和二十年八月十五日水曜日 丁

 相変わらず涼しげな顔をしている。涼しげなのは顔だけではない。着ているものも涼しげだった。白いリネンの三つ揃え、紺地に白の水玉模様の蝶ネクタイ、ウイングカラー付きのペンシルストライプのシャツ。手にしているカンカン帽には黒地に二本の白い線が入ったリボンが巻かれていた。

「いつ来たんだ?」有川はちょうどいい分量に減った炭酸水をウイスキーのグラスに注ぎ込みながら訊ねた。

「五時十分ってところかな」篠宮はそばの席についた。

有川はウイスキー・ソーダを一口、二口飲んでから言った。

「ひどく嫌な夢を見た」

「夢?」

「一つはお前と知り合った日の夢だ。いや、あれは夢じゃないな。そこまで深く寝てたわけじゃない。目を閉じて考えてただけだ」

「もう一つの夢は?」

「焼け野原さ。それも何だか薄気味悪い」

「へえ。それについて、ちょっと聞かせてくれないかい?」

 有川は説明した。ラジオ、涙、粗末な服を着た男たち、童顔の軍人、そして自刃。夏の光が刀身を滑り落ちていく。

「すごいねえ」篠宮が言った。「いや、本当にすごい偶然だね。僕も似たような夢を見たんだ」

「焼け野原のか?」

「うん。でも、君が見た夢とは少し違う。なんていうか力のある夢だった」

「力?」

「うん」

 そう答えてから、篠宮はカンカン帽をテーブルに置き、帽子のてっぺんをトンと指で叩いた。そして、カンカン帽を持ち上げると、未開封のスターが一箱置いてある。もう一度、帽子をかぶせて指でトンとやる。帽子を持ち上げると、スターの箱が消えて、カフェ・パウリスタのマッチ一箱とスターが一本。

「便利な帽子だな」

 そう言いながら、有川も自分のを一本出してマッチをすった。

 有川は煙草をくゆらせながら、篠宮の話を聞いていた。

「僕の場合も焼け野原だった。それに着ているものもみすぼらしくてね。それでいて、音がしないんだ。ここまでは君と同じ。問題はここから。僕が見た夢の中のみすぼらしい人々は焼け焦げた大地からまだ使えそうなものをほじくり出し始めたんだ。木の切れっぱしとか、鉛のパイプとか。で、そうしたものを元手に怪しげな商売があちらこちらで出来上がっていくんだよ。海草粉末でつくった偽物のうどんとか、履いているうちにデンプンのような粉をふく長靴とか、天秤に細工がしてある南京豆の量り売りとか、体につけるとヒリヒリ痛む粗悪な石鹸とか、鉄かぶとでこしらえたヤカンとか。とにかくいろんな商売が始まっていく。そして、人が集まってくる。すごい喧騒なのは間違いないけれど、僕にはそれが聞こえない。見ると東西南北の全てが店で埋まっている。あれは青空を屋根にしたデパートだった。そう思って、空を仰いだところで目が覚めた」

「なるほど。確かに似ているけど、違う夢だな」

「あの力強さは巨大な大砲とか天変地異とかとは違う。踏み潰された雑草がしぶとく生き延びようとするような、そんな意識に満ち溢れていた。おかしいねえ。同じ焼け野原なのに君のほうでは軍人が割腹自殺して、僕のほうでは市場が出来上がってくる」

「確かに不思議だな」

 有川はその日四本目のチェリーを灰皿に押し付けた。

「で、篠宮。事務所に残したメモ、用事ってのはなんだ?」

「最近知り合った依頼人を紹介しようと思ってね」

「依頼人? 名前は?」

「神宮寺弘。品川街塔区で貿易会社を経営している」

「俺たちに具体的にどうしてもらいたいか言ってたか?」

「具体的には言わなかった」と、篠宮。「でもさ、有川。僕が思うに探偵には二つのタイプがある。一つはイギリス型。これは推理小説によって世間にあまねく知られた、いわゆるシャーロック・ホームズを代表とするタイプの探偵で難事件怪事件を華麗な名推理でスマートに解決する。もう一つはアメリカ型。これはピンカートン探偵社を典型とする。つまり、スト破りや用心棒といった棍棒ピストル大歓迎の暴力沙汰タイプ。そして、神宮寺氏はどうも後者のタイプの探偵を欲しがっているようだった」

「なんで分かる?」

「僕と君が拳銃の携帯許可証を持っているか訊ねてきたんだよ。推理力よりも腕っ節に期待したわけだ」

「分からないんだが、そもそもお前とその神宮寺氏はどうして知り合ったんだ?」

「まったくの偶然だよ。おととい赤坂のフロリダ・クラブのバーにいったとき、武器をカウンターに預けるように言われてね。銃を預けたら、僕のすぐ後ろに並んでいた神宮寺氏が僕に興味を持って、いろいろ訊ね始めてきたんだ。それで神宮寺氏は僕らに身辺の警護を頼みたい旨を僕に伝えたってわけ」

「ちょっと待て」有川が制止するように手を上げた。「神宮寺氏は会ってすぐのお前と意気投合して自分の命を俺たちに預けることにしたのか?」

「うん」

「そんなことあってたまるか。言えよ。本当は何があった?」

 篠宮は有川の責めるような視線を逸らし逸らししながら言った。「いや、まあ、君が……ほら、あの有川順ノ助の甥だってことを、まあ、その……うん、それとなく教えたんだ。ほんとにそれとなくだよ。そうしたらさ、先方が盛り上がっちゃって、ね……」

 また、順ノ助叔父さんか。

 有川の顔に拗ねたような陰が差したのを見た篠宮が、まあまあ、となだめるように言った。

「これも役得。企業が持つあらゆる資源を有効活用して仕事を取ってくるのも営業戦略の一つだよ」

 有川はこの日何度目になるか分からないため息をついた。

 有川順ノ助。

 有川正樹の叔父にして、日本中にその名を知られた名探偵。

《六星館事件》や《駐日フランス大使息女誘拐事件》を見事解決し、殺人鬼『詠み人知らず』を捕らえるなど数多くの難事件を解決に導いたその活躍ぶりはラジオや新聞であまねく知られるところとなり、有川順ノ助をモデルにした探偵小説も出たくらいだ。そして、その叔父の名が出る度に、甥で現在事務所を継いでいる有川正樹は、いや自分は違うんです、普通に身元調査とか地味な仕事を細々とやっているんです、と説明しなければならない。そう説明したときの相手のがっかりした顔。俺のせいじゃねえや、と有川は思うし、事実その通りでもあるのだし、相手ががっかりするのにもうんざりしている。

 うんざり。

「ん、待て」

 いま有川は大変なことに気づきつつあった。

 篠宮との付き合いが長い有川は篠宮の遅刻を見越して四十五分遅れでやってきた。でも、神宮寺氏は篠宮の遅刻魔ぶりを知らない。

「篠宮。お前、神宮寺氏にも四時に来るように言ったのか?」

「そうだよ」

「それを昨日の時点で言っておけよ! これじゃ二人揃って遅刻じゃないか!」

「そういうことになるね」

「まったく!」

「僕としては君が時間通り来ることを期待していたんだけどね」

「他人事みたいに言うな。ただ『午後四時にモンテビデオで会おう』と書いただけのメモじゃ俺たち以外の第三者が来るのかどうか分からないだろうが」

「実は神宮寺氏が待っててくれる可能性にも期待した。なに一時間なんて宇宙の創造から今に到るまでの悠久の時の中ではほんの一瞬じゃないか」

 ウイスキー・ソーダを飲み干すと、有川は篠宮に一緒に来るよう顎でしゃくって入口のカウンターに問い合わせた。

「神宮寺弘から篠宮紀一郎宛てに何か伝言が残っていないか?」

「少々お待ちください」

 若いカウンターの男は革製の分厚い帳簿のようなものをカウンターに置いて、最後のページをめくった。

「はい、確かに神宮寺様から伝言を預かっております。明日、午後六時にここで会おう、と」

 店を出ると、篠宮は人差し指で頬をぽりぽり掻いた。

「まずい。怒らせたかな?」

「間違いなく怒らせたな。でも、まだ会ってくれるだけいい」

「明日は平謝りから始めないとね。土下座の練習でもしておく?」

「お前一人でやれ。俺は時間通りに来たとしてもお互いの顔を知らないんだから、そもそも意味がない」

「そんなこと言わずに一緒に土下座の練習しようよ。ねえ」

「しない。しないったらしない」

 マッチをすって、とりあえず一服すると、心が落ち着いてきた。

「一応、電話で先に一度謝っておくか。名刺、貰ってるんだろ?」

 篠宮から神宮寺の名刺をもらうと、有川はダンスホールのカウンターに戻って、電話を貸してもらい、そこの番号にかけた。しばらくして有川は店の外に出た。

「何て言ってた?」篠宮が訊いた。

「社長はまだ社に戻ってきていないってさ」

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