第2話 昭和二十年八月十五日水曜日 甲
軽い爆発音。
目が覚めた。
《断固御親政アルノミ!》
目を覚ました有川の目に飛び込んできたのは、大日本帝粋会が雇った飛行船の垂れ幕だった。
首筋を垂れる汗が襟に染み込む。有川を乗せた市営ロープウェイ「ペリカン号」は青山街塔区の第十六階層に向かって宙空を進んでいた。ペリカン号は左右についたエンジンの排気口からボンボンと火花を吐き散らしていた。 そのエンジンにくっついたプロペラがブンブン鳴っている。煤けた窓ガラスから覗く眼下には汽艇が進む高架水道と街塔区同士を立体的に結ぶ連絡自動車道路、そして道路や水路の下に広がる市街地には赤茶に錆びたトタン屋根と赤や青の瓦の海があった。有川は目をあげた。いくつもの街塔区が煤煙で霞んだ向こうに見える。夢のことが頭をよぎって、体のなかに膨らみ損ねた海綿を抱えたような気持ち悪さを抱える。有川は変なやつだと思われるのも仕方なしと思って、ベレー帽をかぶったゆで卵のような顔の女車掌にたずねた。
「すいません」
「ハイ」
「今日は何年何月何日の何曜日でしょう?」
「昭和二十年八月十五日の水曜日ですけど?」
「ハア、そうですよね。ありがとうございました」
案の定、ゆで卵から奇異の視線を注がれたが、有川は気にしなかった。妙な夢を見た。きれいさっぱり焼けさらわれた昭和二十年八月十五日水曜日の帝都。
存外、そっちの帝都が本物なのかもしれないね。
篠宮に話せば、悪意のない、でもからかうような微笑みとともにそんな答えが返ってくるだろう。胡蝶の夢だ。本当の自分は焼け野原の帝都に生きているのであって、こうしてロープウェイに揺られながら篠宮との待ち合わせ場所に向かう自分は夢のなかの存在なのかもしれない。
ただ、夢にしてはよく出来た夢だ。床に落ちている焼き鳥の串はボーイスカウトの目印のように三本きれいに横並びしている。窓の外では松屋デパートの飛行船が優待券付きのチラシをばら撒いている――青いチラシは飛ぶことをあきらめた蝶のようにヒラリヒラリと貧乏人の頭上へ落ちていった。右へ二つ空いた席には親子が座っていて、母親は婦人雑誌の連載小説にぞっこんで、一方娘はサイコロを模した栄養強化キャラメルの黄色い包み紙をきれいに取り去ろうとしていた。
銀座、浅草、神田、上野、市ヶ谷、御茶ノ水。帝都に聳え立つ幾本もの街塔区たち。それは産業と住宅要求が複雑に絡まりあい膨張した結果生まれた煙突都市だった。世界各地の主要都市はだいぶ前に横へ広がることをあきらめ、縦に伸びようとしていた。パリ、ロンドン、ローマ、ニューヨーク、上海、ゲルマニアと名を変えたかつてのベルリン、モスクワ、ブエノスアイレス。絵葉書屋に行けば、上へ上へと伸びていく世界の都市がいくらでも見られる。帝都の各街塔区も住居と工場が複雑に組み合っていた。内側に深刻な貧民や赤色分子を抱え込んだ現代社会の歪んだバベルの塔たちはそれぞれ道路、高架運河、懸垂電車で結びつき、血液が体のある場所で酸素を手にいれ、別の場所で下ろすようにして人間を交換していく。
ペリカン号はアーチをくぐって、青山街塔区の内側に入り込み、提灯型のアセチレン灯が輝く穴倉のような駅に停止した。
降りる客と乗る客。血液が酸素と二酸化炭素の交換をする。
有川はプラットホームに降り、まず煙草の売店を探す。ない。真っ黒な顔に真っ白な歯を剥いて笑う人食い族が目をチカチカ光らせる〈アフリカ・チョコレート〉の自動販売機のみ。
駅から十六階トンネル通りに出たときには時計は午後三時を指していた。篠宮との待ち合わせは午後四時に第十七階層のダンスホールで会うことになっている。そして篠宮は一時間くらい平気な顔して遅刻するだろうから、ダンスホールには五時にいけばいい。
はやく着きすぎた。
有川はチョコレート色のソフト帽をしっかりかぶりなおすと、煙草と時間つぶしになりそうなものを求めて、歩道をゆく人々の川に流れ込んだ。人、人、人だった。休暇中の兵隊。大陸風の中華服を着こなした妙齢の女性。雑嚢を抱えた中学生たち。路上で店を開く帽子の早洗い屋はパナマ帽のリボンに残った汗の白い塩を薬品で器用に洗い落とす(夏の風物詩だ)。白といえば、白い制服と白いコルク帽の交通整理の巡査がピッ、ピッとホイッスルを鳴らしながら、白い手袋に包まれた左手を押し返すように伸ばして貸し扇風機屋のトラックを止め、乳母車を押す婦人に道を渡るよう促していた。このようにトンネルで封じ込められた通りは人で溢れている。
自動車でも溢れている――バス停にとまっては客を食ったり吐いたりする市内バス、ジロリギロリと音がなりそうなほど目つきの悪い憲兵を乗せたくろがね四起、氷が溶ける前にお得意さん全部をまわりたくて焦っている製氷工場のトラック、最新型文句なしの青いダットサン二〇型ロードスター、すばしこく動き回る三輪自動車の円タク、そしてお仕着せの運転手がハンドルを握り、華族の当主を乗せて走る三十三年型のパッカード――アメリカで内戦が起きる直前に輸入された最高級車。これら自動車どもが二十台も走れば、いまだに木炭自動車を使う馬鹿が一台はやってきて、あたりを煤だらけにする。下手をすると一酸化炭素中毒になるかもしれない。だから、通りの天井ではファンが何十個も回っていて、煤を吸い上げ、代わりに生温かい空気を叩きつけてくる。町はやかましくて、ひどく蒸し暑かった。
カキ氷屋台がラジウム温泉浴場の前で商売している。「レモン一杯」有川が五銭玉一枚と一銭玉を三枚置くと、カキ氷屋の親父がカキ氷機のクランクを回し、氷の塊がくるくる回りだして、切り子硝子の器にあっという間に白い雪山が出来上がる。親父はその雪山にレモン味のシロップをたっぷり降りかけた。一口スプーンですくって口に含むとそれは甘くて冷たくて……
《ザザー……今年四月、ドイツ万民に惜しまれつつ退陣したアドルフ・ヒトラー前総統が……ピー、ガガガ……ゲルマニア……ゲッベルス宣伝大臣がいま段上に……ガガガ、ザー……》
近衛内閣時代に逓信省が帝都のあちこちにばら撒いた『国民ラジオ』がカキ氷屋台からニュースを垂れ流す。安物のニスで光沢を出したこの音の鳴る箱にはラッパ管と二つのツマミ、一つのスイッチがついている。音質は最低。ニュースの内容は今年の四月ごろ、世界都市ゲルマニアの完成をもってナチスドイツの総統を辞したヒトラーがゲルマニア文化芸術院の名誉総裁になったとかどうとか。これまでの人生を祖国ドイツの復活と生存圏獲得のために捧げてきたが、これからは芸術振興のためにこの余生を捧げたいとかなんとか。就任式には総統のルドルフ・ヘスらナチスの大物がずらりと並んだとかどうとか。そんなニュースがザラザラガリガリした音になって聞こえてくる。
有川は肩をすくめた。聞くところによるとこのヒトラーという男、煙草嫌いで有名らしく、総統を辞める直前にイタチの最後っ屁とばかりに禁煙法をねじ込んで、煙草をこよなく愛するドイツ中の煙草呑みを滅亡の縁に追いやったそうだ。ギャングを儲けさせるだけだったアメリカの禁酒法といい、世の中には頭のネジがゆるんだやつが多すぎる、というのが有川の国際情勢に対する忌憚のない感想だった。もっとも頭のゆるさに関しては近衛公も負けてはいない。近衛文麿は大衆への人気取りのつもりでラジオをそれこそドヤの路地裏にまでばら撒いた。ヒゲだけでなく演説も真似て、日本のヒトラーにならんとしたのだ。新体制確立、新体制確立と繰り返すばかりの残念演説。その演説が帝都の隅々まで染み渡るようにと大量生産したのがこの『国民ラジオ』。
が、当の国民たちはこれを『貧民ラジオ』と呼んでいる。音の質が貧民向け。単調なニュースの読み上げでこのザマなのだから、こいつでハリー・ジェームズやベニー・グッドマンなど聞こうものなら、ぐしゃぐしゃにひき潰されたスイングの残骸を聞くハメになる。舶来のジャズが聞きたければ、舶来のラジオを買わなければならない。
カキ氷屋の親父はラジオ相手に毒つきながらツマミを回し始めた。
「エノケンだ、この野郎。エノケンを流しやがれ」
汗が浮かぶ親父の禿頭に炭素フィラメントの黄色い光が反射して有川の目を射る。頭のてっぺんはボーリングの玉のようにつやつやしていた。親父がツマミをいじると雑音と切り刻まれた単語が貧乏ラジオのラッパ管から交互に飛び出してくる。
やっとどこかの局に合わせられたところで、安物の調整ツマミがすっぽぬけた。流れてきた曲は――
《暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は荒れ狂う》
「あっ、いかん、いかん」カキ氷屋の親父は慌てて別の局をかけようとする。
《怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖を打ち砕け》
ツマミがうまくはまらない。その間もアカの歌は容赦なく垂れ流される。壊れたのかスイッチを切っても歌は止まらない。
《自由の火柱 輝かしく 頭上高く燃えたちぬ》
親父は舌打ちするとラジオを両手で持ち上げ、ラッパ管から流れるワルシャワ労働歌ごと地面に叩きつけた。歌は消えてグイーンと腹に響く音が流れる。親父は念のためにと木箱で出来ている装置本体も踏み潰してトドメを刺すと、手ぬぐいで禿頭の冷や汗をぬぐった(その動作がますますボーリングの玉を想起させた)。有川に気づくと、カキ氷屋の親父はいたずらを見つけられた小僧のように言い訳がましい顔で、
「この時世、憲兵や特高にこんなものを聞かれた日にゃ痛くもない腹をさぐられますからねえ。ま、所詮タダでもらったオンボロラジオだし」
と、不自然な苦笑いでごまかした。
「俺は特高じゃないよ」有川は安心させようとして言った。相手が信じるかどうかはさておき……
カキ氷屋の親父は、へへへ、と笑っている。
アカの声。鮫ヶ淵街塔区の光も届かぬ奥深い貧民窟に共産主義者たちが専用の放送局を持っていて、今のように公共の電波を乗っ取って、アジったり、インターナショナルを流している。警察と憲兵隊は何度もアカの放送局を探すために、鮫ヶ淵のドヤ街や街塔区の船着き場に手入れを行っているが、鮫ヶ淵の最深部まで足を踏み込む度胸はないようで、鮫ヶ淵への手入れはいつも末端の党員が捕まるだけで対した成果は上がっていない。
「それにしても派手に壊したねえ」有川は無残な骸を晒して死に絶え横たわる貧民ラジオに目をやりながら言った。「ラジオに恨みでもあるのかい?」
「念には念をでさ。あたしの女房の兄貴が上野のてっぺんの公園で、船のおもちゃを売ってましてね。ほら、ポンポン船や樟脳で動くやつです。先月、その兄貴ってのがこのラジオがもとで特高にしょっぴかれたんで」
「へえ」
「どうもおもちゃを売り始めた最初のうちはラジオの野郎もお行儀よく軍艦マーチを流していたんですが、いよいよガキどもが大勢集まってきたと腕まくりをしたところ、急に雑音にぶつかったと思ったら、なんとアカどもの演説が流れ出したじゃありませんか。それをたまたま通りかかった特高どもに聞かれたのが運の尽きで、あとはもうご存知の通り、天下御免の特高さまだ、大人しくお縄につきやがれってなもんで。商売道具もそのままに引っぱられて、正式に逮捕されたわけでもないのに女房の兄貴は十日間もブタ箱ですよ。主義者じゃないって分かってもらえたんで最後は放してもらえましたけど、それでもぶちこまれてたあいだ稼げなかった十日分の損は誰がケツをもってくれるってんですか? こちとら月ごとのショバ代と電気代をきちんと払って商売してる真っ当な商売人でさ。それを根無しのルンペンみたいに扱いやがってからに。鞍馬天狗に出てくる新撰組だってここまでえげつないことはしませんぜ。カキ氷屋やおもちゃ船の売り子にとって、小学生たちが夏休みの今が一番の掻き入れどきなのに、それを十日間ですよ。十日間。特高の旦那方がそこんとこ理解して迷惑かけた分、ちゃんと払ってくださるんなら、話は別ですがねえ」
「やつらが払うもんか」有川は笑いながら言った。「スマンの一言だって言いやしないさ。ところで、ラジオはどうするんだい?」
「さあ? 目につかないよう片づけたら、そのままにしときますよ。来月くらいになったら逓信省の役人がやってきて勝手に置いていきます。何しろ支那だの蘭印だのに配ってもまだ余るほどの在庫があるって話ですからねえ」
有川は氷をすくって口に含んだ。噂を思い出す。恐ろしい話だが、政府や省庁に紛れ込んだ国粋主義者や大アジア主義者、つまりやたらお山の大将になりたがる連中が、このしょうもないガラクタを「興亜ラジオ」と名を変えて、英領インドや仏領インドシナ、蘭印の民衆にばらまくつもりでいるらしい。そして欧米列強諸国の殖民併呑に晒されたアジア民族の独立解放の嚆矢とせんとしている、……らしい。おそらくラジオを配ることでさすが日本人は太っ腹、アジア一の民族だとヤンヤヤンヤ誉めてもらいたいのだろう。だが、インド人や安南人たちの口から出るのは賛辞ではなく、日本の機械生産能力の低さへの嘲笑か、こんなケチなものを送ったぐらいで賛辞を欲しがる日本人に対する蔑笑がいいところだろう。こんなラジオ自慢げに見せびらかして配るのは日本の恥だ。せずともよいのに、わざわざ恥をかくような真似をする。それも極めて尊大に。自分は偉いと思い込んでいるので始末に困る。それが国粋主義者であり大アジア主義者なのだ。有川は前々から彼らはオツムの足りない連中だと思っていたが、馬鹿もここまで極めれば誉めてやりたくなるものだ。
もちろん実際に誉めたりはしない。殴られるのがオチだ。
だが、篠宮は誉めるだろう、と有川は確信する。篠宮には関係ないのだ。目の前に馬鹿がいて、その馬鹿が自分の馬鹿さ加減を知らないまま、自信をもってその馬鹿を御開陳あそばすとき、君はとても馬鹿だね、とからかいとも慈しみともとれる微笑みを見せながら言ってやることに少しの躊躇いも見せないのが篠宮という男なのだ。相手がドスや鉛管、九連発ピストルで武装して二、三十人の徒党を組んでいても関係ない。
ありゃ、筋金入りの自由主義者だな。有川はそう思いながら、レモン水となりかけた最後の一すくいをすすって、喉を伝わり落ちるひんやりした心地を味わった。
「このあたりに一時間くらいつぶせて、煙草も売っているところはないかな?」
切り子硝子の入れ物を返しながらたずねると、親父は通りを百メートル歩いた先を曲がったところにある映画館を教えた。
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