梅と残香

 ――わたくしは、このひとのことを愛しているのでしょうか。いいえと庭の向日葵が笑ったとき、蝶子はそれが愛ではないと心得たのであった。

 園部群青『雷鳴と向日葵』



 この世には運命というものがあるのでしょうと、その方のことを一目見た瞬間に私は悟ったのです。私には赤い糸が見えておりました。それはもうハッキリと、まるで私のために赤く染め上げられたような美しい深紅の糸でした。

 両親が縁談を持ち帰ってきたのは、私が二十一の真冬のことでありました。今にも小躍りしそうな両親に話を聞きますと、お相手は然る資産家のご子息とのことでして、興奮して手を握り合う両親をよそに、私は大層気が滅入っておりました。

 恥ずかしながら生まれてから今日という日まで、親族以外の男性と会話を交わしたことさえ数える程度、ましてや情を交わしたことなど一度もなく、何よりも私を悩ませていたことは、両親のためにもこの縁談に心より喜んでいる振りをしなければならないという重圧でした。私の曖昧な笑顔を肯定と受け取った両親に、嫌ですなどとは切り出せなかったのです。


 夜のうちに雪が降り積もった朝、晴れた空に昇った太陽を恨めしく思いながら、私は両親に連れられて縁談のお相手と顔を合わせました。

 松葉慶太郎さんというその方はとても紳士的な男性で、凛とした立ち居振る舞いや整ったお顔立ちは、まるで俳優さんのようでした。私にはとても、とてもではありませんが、このような眩しい方の隣では生きてはゆけませんと、ほとんど泣きそうになりながら両親に訴えてみたものの、両家の間では若い二人を残して話が進み、その日のうちに縁談がまとまってしまったのです。

「咲子さん」

 慶太郎さんは甘ったるい声で私の名を呼びました。他の女性たちがそうであるように、私もまた、慶太郎さんの美声に心を掻き乱されました。

 けれども何より私の心をざわつかせていたのは、慶太郎さんが不意に見せる、物憂げな表情だったのです。


 親友の時子ちゃんだけが私の縁談に終始拗ねた表情を浮かべていましたので、私は時子ちゃんの前では弱い自分をさらけ出すことが出来たのです。

「おじさんもおばさんも、みんな勝手なのだわ」

 口をヘの字に曲げた時子ちゃんがそう言って私の部屋の中を行ったり来たりしています。

「咲ちゃんの気持ちよりも、資産を選んだということでしょう、そんなのあんまりよ」

 そうして怒っていた時子ちゃんでしたが、ふっと口をつぐんだかと思えば、私の膝にその可愛らしいかんばせを埋めて泣き出してしまったのでした。私はどうしたものかと思案に暮れるあまり、ただ時子ちゃんの綺麗な黒髪をゆっくりと撫でることしか出来ませんでした。

「咲ちゃん、嗚呼、咲ちゃん。お嫁になんか行かないで頂戴」

「ええ、私は何処へも行きません。どうかずっと、ずうっと、時子ちゃんの傍に置いてくださいまし」

 私と時子ちゃんはふたり抱き合ってしくしくと泣きました。冬の夕暮れは夜を早く連れて、また雪が降り始めました。その年の冬はひどく冷え切っていました。

 時子ちゃんとは生まれた時からの仲でした。同じ産院で同じ日に産声を上げた私たちは隣同士に眠らされていたのだそうです。気の弱い私のことをいつも守ってくれた時子ちゃん。利発さも、笑顔も、まるで太陽のよう。

 嗚呼、時子ちゃん、私の時子ちゃん。


 慶太郎さんは私の心を見透かしていらっしゃったのでしょう。ふたりきりで何度かお会いしたときも、落ち着いた雰囲気の喫茶室で控えめに語らう程度、言葉よりも沈黙のほうが多い時間が過ぎてゆきました。

「慶太郎さん」

 ある日、私は勇気を振り絞って尋ねてみました。

「どなたか他に大切な方がいらっしゃるのではないのですか」

 慶太郎さんは少し困ったように笑ったきり、何も言わずに紅茶を口に運びました。その姿に私は、この人にもきっと、何か私との縁談を進めなければならない理由があるのでしょうと思ったのです。詮索は酷く野暮なことだと感じておりましたので、それ以上、私は何も尋ねず、また同じように静謐が流れてゆきました。


 ある日の夕暮れ、私は粉雪の舞う道を慶太郎さんの後ろについて歩きました。

「会ってほしい者がいるのです」

 慶太郎さんの言葉に、私はただ従うだけでした。

「実家が隣同士の、根っからの幼馴染でして、大学進学で上京の折に、彼の祖父が使っていた家にふたりで暮らすことになりましてね。彼の家とは切っても切れぬ縁がありまして、いずれ紹介しなければならない者なのですよ」

 その言葉に私は幾らかの安堵を覚えました。

「私にも生まれた時から一緒に過ごしてきた幼馴染がおりますの」

「それは奇遇ですね」

 フフッと笑った慶太郎さんの横顔がとても柔らかでしたので、私は心が温かくなるような気がしました。道中の八百屋さんで蜜柑を買い求めました。

 慶太郎さんが暮らしているというお家は際立って大きな建物ではありませんが、とても可愛らしい造りをしておりました。慶太郎さんのおじいさまが設計に携わったそうです。引き戸はカラカラと開きました。

「ただいま」

 私はその声を鼓膜の奥に留めました。こんな声で慶太郎さんはただいまと言うのですね。廊下の奥がぼんやりと明るく、夕飯の支度をしているようでした。

「おかえり、雪は払ったか」

 慶太郎さんの幼馴染というその人の声だけが聞こえました。私は肩に薄らと積もっていた雪を払ってから玄関に入りました。気にせずとも良いのですよ、と慶太郎さんは楽しそうに笑っていました。

「結史、ちょっとこちらへおいで」

 奥へと向かって声を掛けると、少しの間があって、幼馴染の結史さんが姿を見せました。訝しげな表情を浮かべていても、その純朴さが染み出ていました。慶太郎さんとは異なる雰囲気を持つ人でした。華やかな慶太郎さんと、堅実な結史さん。殆ど正反対と言ってもよいでしょう。まるで、私と時子ちゃんのようでした。

「こんばんは」

 私に気が付いた結史さんと軽い会釈を交わしました。緊張のあまり、私の声はひどく情けない弱々しいものになっていました。

「鍋の用意しかしていない」

 結史さんは困ったようにそう言って、責めるように慶太郎さんを見遣りました。けれども慶太郎さんは結史さんが困っていることを楽しんでいるかのように微笑んでらっしゃったのです。

「咲子さん、これが園部結史です。この通り、真面目な奴ですよ。結史、こちらが高峰咲子さんだ。可愛らしいひとだろう。立ち話も何だ、鍋を囲みながらゆっくりと話すとしよう」

 

 その夜、私は悟ったのです。この世には運命というものがあるのだということを。

 決して結ばれることのない運命というものが、悲しくも美しく存在しているということを。


 楽しいひと時はあっという間に過ぎて、粉雪がちらつく夜道を私は慶太郎さんに送られて帰りました。二歩ほど先を歩く慶太郎さんの背中はとても頼もしく見えました。

「慶太郎さん」

 私の声に、慶太郎さんはこちらを振り向きました。声を掛けてみたものの、私は次の言葉を口にするべきかどうか少し悩んでしまいました。この言葉が慶太郎さんを傷付けるのではないかと不安になったのです。けれども私は意を決し、慶太郎さんに伝えたのでした。

「私は一番でなくとも構いません」

 街灯に照らされた慶太郎さんの表情が強張りました。一度口を開いてしまえば、言葉は次から次へと溢れて止まらず、私は慶太郎さんの言葉も待たずに話しました。

「私では駄目なのだとわきまえておりますの。けれども、私は、慶太郎さんとならばお話が出来ますし、両親の顔も立てなければなりません。ですが。慶太郎さんは、その心を寄せていらっしゃる方のことを諦めきれない様子でいらっしゃいますから、どうぞ、私のことをうまくお使いくださいまし。私はそう、共犯者になる覚悟を決めますの」

 お喋りな女は嫌われることでしょう。ですが、私は慶太郎さんにお伝えしたかったのです。慶太郎さんは言葉を選んでいる様子でした。

「咲子さん、貴女は勘違いをなさっているのではありませんか。僕はこの縁談に反対などしていませんよ」

「ええ、きっとそうでしょう。慶太郎さんは、繕わなければならないのではありませんか」

「繕う、とは」

「私には分かりますの」

 音もなく粉雪が舞い踊っていました。冷えた空気は刃のように鋭く、僅かに灰色を帯びた雲が低く空を覆っている夜のことでした。分かりますの。私は繰り返しました。

「だって、私も同じですもの」

 私は一度、自分の足元に視線を落とし、それから慶太郎さんのことを真正面からしっかりと見据えました。男の人と目を合わせることはとても恥ずかしいことでしたが、そうしなければならないと思いました。そうしなければ伝えきれないとさえ思っていたのです。私の吐く息も、慶太郎さんの吐く息も、どちらも白くふわりと冬に融けました。


 冷えるでしょう、と慶太郎さんは私を静かな喫茶室に誘いました。私たちは向かい合って座りました。私はこの時はじめて、ホットチョコレートを飲む慶太郎さんを見ました。それまでは珈琲か紅茶を飲む姿しか見ておりませんでしたので、その甘味に酔いしれる慶太郎さんの少年のような眼差しはまるで別の人のようにも見えました。店内にはゆったりとした時間が流れていました。

「何から始めましょうか」

 テーブルの上に置いた両手を組んだ慶太郎さんから小さな溜息がひとつ零れました。

「言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、おれは本当に、この縁談に対しての不満など微塵も抱いていないのですよ」

 ご自分のことをおれと呼ぶ慶太郎さんは、以前にもまして男らしく頼もしい方に思えました。そして、どこか重荷から解放されたようにすっきりとした表情でした。

「このような言い回しは酷い男と思われてしまうかもしれません、いえ、ろくでなしと罵ってください。貴女ほど都合の良い女性とは今生、出会えないと思っているのです」

「都合の良い女、ですか」

 その言葉に私が少しばかり傷付いたのは本当です。けれども同時に、それでも構わないと思っていたのも本当のことでした。慶太郎さんは言葉を探しながら続けました。

「失礼ながら、貴女のことを調べさせていただいた上で、縁談の話を持ち掛けたのです。おれが求めていた条件は、おおよそ一般の男が望むものとは異なる性質のものです。咲子さん、貴女には、誰にも渡したくないと思っている方がいらっしゃるでしょう?」

 慶太郎さんの言葉に、私は自然と時子ちゃんのことを思い浮かべて頷きました。

「おれにとっては、そのことが何よりも優先すべき条件なのです。貴女のような、可愛らしい方が見つかるとは思ってもいませんでしたので、おれはどれほど幸運なのでしょう」

「私よりも時子ちゃんのほうが、よろしかったのでしょうか」

「いいや、そうではないのです」

「時子ちゃんを巻き込まないでくださいまし」

「咲子さん、これはきっと、必ず、貴女にとっても好ましい結果となるはずです」

 ホットチョコレートをくるくるとかき混ぜてから慶太郎さんは私の瞳を真っ直ぐに捉えてこう告げたのです。

「結史の元へ嫁いでいただけるよう、時子さんに掛け合っては貰えませんか」

 私は何度か瞬きをして、それから首を傾げました。慶太郎さんは私のほうへ身を乗り出して声を潜めました。

「結史の素性はおれが保証します。人となりも、あれは辛抱強くて、思慮深く、誠意のある、まことに実直な男です。決して時子さんを不幸にはしません、約束します」

 結史さんのお人柄は、今日お会いしてよく分かっておりました。慶太郎さんのことをずっと支えてきた方なのでしょうと、おふたりが過ごしてきた時の長さを感じておりました。おたりの間にある確かな信頼は、私と時子ちゃんが抱いているものと似ているのではないかしら、そう微笑ましく感じていたのです。

「どこの倅とも知れぬ男の元に時子さんが嫁いでしまうよりも、結史のほうが貴女も安心ではありませんか。貴女が望めば、いつでも時子さんと出掛けていただいて構いません。おれは貴女のことを決して束縛したりなどしません」

 慶太郎さんは真剣な表情でした。それがなにやらおかしくなって、私は笑ってしまったのです。きょとんとした顔で慶太郎さんは私を見ました。

「ごめんなさい、私ったら、はしたない。けれども、慶太郎さん。その言葉はまるでご自分に言い聞かせているようですのよ」

 私の言葉に、慶太郎さんは苦笑いをしてホットチョコレートを飲み、ふふふと笑いました。

「ええ、全く。その通りでしょう。おれは、あれを手放したくないのです。今までそうしてきたように、おれが用意した舞台の上で生きてほしいのです。手の届かぬ場所へ行ってしまう日のことなど、考えたくもありません。あれが女であれば、迷うことなく嫁に貰っていたでしょうし、俺が女であったならば、あれの元へ押し掛けていたことでしょう。嗚呼、おれは嫉妬深く、情けない男です」

 慶太郎さんの声は自嘲的でしたが、私にはそれが歌っているようにも聞こえたのです。私は深く頷きました。

「私に出来る範囲で、時子ちゃんには結史さんのことを伝えてみます。その代わりに、嘘偽りなく、ほんとうの心のうちを答えてくださいまし」

「ええ、何なりと」

 私は居住まいを正しました。慶太郎さんもホットチョコレートのカップをテーブルに置きました。しばらく見詰め合ったのち、私は慶太郎さんに尋ねました。

「結史さんのことを愛していらっしゃるのですね」

「はい」

「こころのそこから?」

「勿論」

「この世でいちばんですのね?」

「いいえ、それは違います」

 私の問いかけに慶太郎さんは頭を横に振ってはっきりと否定しました。

「あれが、おれの世界そのものなのですよ」

 その言葉に、私は心に誓ったのです。この方をひとりにしてはならないと。

 運命というものがあるのでしょう。決して結ばれることのない運命がおふたりを分かつのであれば、私はそれを繋ぎ止めておきたいのです。私が時子ちゃんと離れ離れになることを拒むように、慶太郎さんもまた、結史さんとの別離を遠ざけたいのでしょう。

 私と慶太郎さんは同じ想いを抱いておりました。誰にも告げることなくずっと心に秘めたままの愛とも恋とも名前を付けられぬこの熱。

 結史さんのことを、あれ、これ、と呼ぶのは、慶太郎さんの癖でした。物のような扱いに聞こえますが、それが慶太郎さんの愛情なのでしょう。物は物であっても、自分の所有物であると、無意識のうちの独占欲が滲み出ている呼び名です。私はそれがたまらなく愛しい響きに聞こえたのです。


 慶太郎さんと約束を交わした週末に時子ちゃんが遊びに来ました。相も変わらず時子ちゃんは私の縁談に腹を立てているようでした。

「嫌なら嫌と言いなさいな。わたしからおじさんとおばさんに言ってあげる」

 私と時子ちゃんは舶来のお茶を飲みながらお話していました。

「時子ちゃん。私、慶太郎さんのところへお嫁に行きます」

 私が告げた言葉に、時子ちゃんは突き放されたような顔になりました。可愛らしい顔が台無しでした。私は時子ちゃんの手を取って続けます。

「ごめんなさい、時子ちゃん。そんな顔をしないでくださいまし」

「咲ちゃん、嫌よ。わたしはどうすればいいの。淋しくてきっと毎日毎晩泣いてしまう。咲ちゃんはお嫁に行くというのに、行き遅れたわたしは子供のように泣きじゃくるのだわ」

「そのことなのですが、時子ちゃん。ひとつ、私の我儘を聞いてくださいまし」

 時子ちゃんは私の言葉にほんの少しだけ首を傾げました。

「会ってほしい方がいるのです」

「よして頂戴よ、咲ちゃん。誰に吹き込まれたの、お母様?」

「いいえ、違うのです。これは私と、慶太郎さんが企んでいる計画なのです」

 私は時子ちゃんの手を握る力を込めました。

「どうぞ私を叱ってくださいまし。けれども先に私のお話を聞いてほしいのです。私だって時子ちゃんの傍を離れたくはありません。出来るならばずっとこうしてふたりだけでお喋りをして過ごしたいのです。ですが、世間はそれを許してはくれません。それは慶太郎さんも同じことですの」

「慶太郎さんが?」

 こくりと頷き、私は結史さんのことを伝えました。

「結史さんに会ってくださいまし。園部結史さん。生まれたときからずっと一緒に育ってきた慶太郎さんの幼馴染です。まるで私と時子ちゃんのよう。慶太郎さんも結史さんと離れがたく思っていらっしゃるのです。だから、時子ちゃん。結史さんのところへお嫁に行ってくださいまし。そうすれば私たちずっと、ずぅっと一緒ですわよ」

「それは、ほんとうのこと?」

「ええ、ええ。私が一度でも時子ちゃんに嘘をついたことがありまして?」

「いいえ、一度も」

 時子ちゃんは私の手を握り返してくれました。私と時子ちゃんは互いの瞳をじっと見詰めました。時子ちゃんの瞳には私が映り、私の瞳には時子ちゃんが映ります。たったそれだけ。ふたりだけの世界。この愛しい時間を守るためならば、私は何だって出来るのです。

「咲ちゃん。わたし、咲ちゃんのことを他の誰にも渡したくないの。我儘を分かって頂戴」

「分かっています。よぉく分かっていますの。だって私も同じですもの。時子ちゃんが遠くへお嫁に行ってしまうなんて耐えられません」

「結史さんの元へ行っても、わたしは咲ちゃんのことばかり考えるのよ。ああ、どうか慶太郎さんのものにならないで頂戴」

「ええ、ええ。心配は必要ありませんの。だって、慶太郎さんも同じですの。慶太郎さんのものは、結史さんだけなのですから」

「咲ちゃん、ずぅっと一緒に居てね」

「勿論ですわ。私はずっと時子ちゃんのもの。だから時子ちゃんも私のものです。ねぇ、そうでしょう?」

「当たり前なのだわ。わたしは咲ちゃんだけのわたしなのよ」

 私たちは手を取り合って互いの名前を呼び続けました。


 こうして私は慶太郎さんの元へ、時子ちゃんは結史さんの元へ嫁ぐこととなったのです。


 慶太郎さんは何度も繰り返し、結史さんのことを頼むと時子ちゃんに伝えていました。時子ちゃんはそのたびに頷き、私たちの婚姻の陰に横たわる密かな熱を確かめ合いました。

 ただひとり、結史さんだけは何も知らされておりませんでした。慶太郎さんの言葉通り、結史さんは慶太郎さんの用意した舞台に上がり、望まれたように演じ切らなければならない、それがおふたりの関係でした。

 ほんとうのところは、結史さんが慶太郎さんのことをどれほど深く思っていたのか分かりません。愛情は慶太郎さんの一方的なものだったのかもしれないのです。そうであれば、何と可哀想な結史さん。私と時子ちゃんは手を取り合ったにもかかわらず、結史さんは慶太郎さんに捕えられたのですから。

 けれどもそれは杞憂だったと、あとになって分かったのです。


 慶太郎さんと結史さんが暮らしていた一軒家は、結史さんと時子ちゃんが暮らすことになりました。慶太郎さんと私は近くにお家を見付けてそこに移り住むことになったのです。慶太郎さんたちのお家のお片付けのお手伝いをしていると、結史さんが私のところにやってきました。

「咲子さん」

 結史さんの声は優しさに溢れていました。その声だけで、結史さんがどのようなお人柄なのかすぐに分かります。結史さんならば時子ちゃんのことを案じる必要もないでしょう。

「慶太郎のことをどうかよろしく頼みます。あいつは外面も頭も良い男ですが、如何せん、人癖の悪い奴でして、じつのところ、淋しがり屋なのです」

 慶太郎さんのことを話すときの結史さんの眼差しに、私は憶えがありました。それは、結史さんのことを語るときの慶太郎さんと同じだったのです。愛しさと慈しみを湛えながらも、それらの寄る辺がどこにもないことを知っている、悲しい瞳です。

「どうかあいつを見捨てないでやってください。もうどうしようもなくなったときには、ぼくの元へ寄越してください。ぼくはあいつの実家に手紙を書きますから、少しばかり辛抱してください」

「きっと大丈夫ですのよ。結史さんがお傍にいらっしゃるかぎり、慶太郎さんは変わりませんわ。どれほどの歳月が過ぎても、慶太郎さんはずっと、結史さんの知っている慶太郎さんでしょう。そんな予感がしますの」

「果たしてそうでしょうか。ぼくは酷く不安なのです。慶太郎の悪い癖が、いつか咲子さんを悲しませるのではないかと」

「それならば、私も時子ちゃんの幸せを想って不安になりますの」

「いいえ、それはぼくが約束します」

「慶太郎さんだって、その言葉を告げるのではありませんか」

 私の言葉に結史さんは小さな溜息を吐きました。

「咲子さん。ぼくの正直な気持ちをお伝えしますね」

 視線を落とした結史さんは続けました。

「ぼくは、慶太郎との縁を切りたいのです」

 その言葉に、私はハッと息をのみました。私たちの計画は失敗するのではないかしらと。

「慶太郎が傍に居ると、ぼくはどうしてもあいつを頼りたくなる。それでいて、あいつが遠くへ行くと、どうせぼくのことなどどうでもいいのだなどと、そんな子供染みたことを考えてしまうのです。ただ一緒に過ごした時間が長いだけの幼馴染であって、ぼくは慶太郎にとって特別な存在ではないのに、ぼくにとって慶太郎は特別で、これからもそうでありたいなんて、願ってしまう。これではいけないのです」

 結史さんは苦しそうに顔を歪めました。穏やかな結史さんもそのような表情をすることがあるのだと、こんな時にもかかわらず私は少しばかり感動していました。

「ぼくは、慶太郎から離れなければなりません。巣立たなければならないのです。このままではいつまでたってもぼくは慶太郎のことを頼り切ってしまう。慶太郎だって、こんな幼馴染など必要ないでしょう。祖父たちの勝手な約束を果たさなくとも良いのですから」

「ですが、結史さん」

 今にも泣きだしてしまいそうな結史さんに、私は思わず声を掛けました。

「離れがたいものを無理に手放さずとも良いではありませんか」

「いいえ、咲子さん、それは違います。ぼくは慶太郎をこの手で掴んだ試しなどありません。捕まえていないものを手放すことなど出来ません。飽きるほど傍に居た、はじめからぼくは慶太郎のものだった、それでも慶太郎は、ぼくのものじゃない」

 ああ。

 わたしはおふたりの運命を呪いました。

 なんて美しく悲しいお話。

「咲子さん、慶太郎のことをどうぞよろしくお願いします」

 結史さんは深々と頭を下げてそう言うと、雪の舞う空を見上げて、淋しそうに笑ったのでした。


 男泣きというものをわたしが初めて目にしたのは、結史さんと時子ちゃんの結婚式の帰り道のことでした。冷たい風の中にも香る梅の花が春を告げていて、おふたりの門出にぴったりの明るい空の下、わたしは慶太郎さんとふたり、川沿いの遊歩道を歩いておりました。

「時子ちゃん、とっても綺麗でしたね」

「ええ、あれには勿体無い程です」

「結史さんだって、ご立派でしたのよ」

「ああ……」

 慶太郎さんの相槌は二月の風に攫われて消えました。わたしはそっと慶太郎さんの手を握りました。

「泣かないでくださいまし」

 俯いた慶太郎さんの瞳からポロポロと幾粒もの涙が零れ落ちておりました。声を堪えて歯を食いしばる口元に、淋しさや悔しさが滲み出ていました。

「あれをしあわせにするのは、おれの役目だと思っていたのです」

「ええ」

「おれだけが、結史をしあわせにできると。生まれたときから死ぬまで、ずっと一緒に居られるのだと。何の根拠もなく、そう信じて疑わなかった」

「ええ」

「おれの、こんなにも歪んだ愛情だけが、この胸に残って、ちゃちな心が酷く痛むのです」

「ええ、ええ」

 ふと気が付けば、わたしの目からも涙が溢れておりました。わたしと慶太郎さんはふたり、川辺で抱き合い、手放した恋を想って、しくしくと泣きました。

 目を瞑れば、花嫁衣装に身を包んだ時子ちゃんの姿が思い出されました。それから、ふたりでお揃いのお洋服を着て遊んだ日々も。言葉の尽きぬ午後のことも。たくさん交わした幼い約束も。時子ちゃんの、クルリと上を向いた可愛い睫毛、小さな指の爪、すぐに赤くなる耳、艶やかな髪、さくらんぼのような唇、すらりと伸びる手足、つま先まで、全部ぜんぶ。

 行かないで、時子ちゃん。

 ずっと変わらないで。


 けれどもどうか、しあわせになって。



 ――愛ではないと一度は心得た蝶子であったが、遠くから近付いてくる雷鳴を聞きながら、この人の不器用なところがたまらなく愛おしいものに感じる時があるのを思い出していた。世間の誰もが酔いしれるような愛ではなくとも、やはり、自分なりにこの人のことを愛しているのだ。蝶子は庭の向日葵を見た。

 園部群青『雷鳴と向日葵』

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