猫と東雲

――このままもう二度と朝はやってこないのだろう。そう思う程に長い夜であった。ぼくが悲観に暮れている隣で晋太郎は規則正しい寝息を立てていた。何やら可笑しくなって、気が付けばぼくは笑っていた。笑いはいつしか涙に変わり、ぼくは声を殺して泣いていた。

 園部群青『呼ぶは暁』



 慶太郎はろくでなしである。

 敬愛する祖父がぼくに寄越したのは、手のかかる幼馴染であった。その名を松葉慶太郎という。清廉潔白の松葉家における突然変異である、とぼくは心の中で評しているが、この松葉慶太郎という男は他に類を見ない程の屑であった。齢二十余にして泣かせた女性は数知れず、彼女たちのために泣いた男の数も知れず、ぼくだって何度泣かされたのかとても数え切れない。それでいて多くの人から慕われてやまないところが、たちの悪い男である。

 今もこうして家の玄関扉にもたれかかり、酒の一升瓶を抱えて眠りこけている。十月になったばかりとはいえども秋の夜風は冷たく吹き付けている。金曜日の夜は九時すぎ。家の鍵は持っているはずだが、もしや失くしたのか。ぼくが帰らなければどうするつもりであったのだろうか。ぼくは慶太郎を引き摺って家の中に仕舞い込んだ。

 慶太郎の酒癖は悪くなどない。ぼくが自信をもってそう言えるのは、実に簡単なことである。

 玄関先に脱ぎ捨てられた靴を回収して家の中に入ると、今度は廊下に慶太郎の服が無造作に散らばっていた。すでに慶太郎は台所にしゃがみ込んで古い冷蔵庫を漁っていた。

 簡単なことである。この男は酒に酔ったりなどしないのだ。眠たかったから寝ていた、脱ぎたかったから靴を脱いだ、邪魔だったから服を脱いだ。そしてそれらをすべてぼくがどうにかしてくれると思っている。それだけのことである。慶太郎にとって酒など水と同じ。浴びるように飲んだところで常に素面のようであった。あるいは、常に酔っぱらっている男のようでもあった。

「おれはいつも思うんだけどさぁ」

 ぐちぐちと粘り気のある口調で慶太郎は言う。下着一枚だけの姿で台所に立つと、慣れた手つきで勝手に料理を作り始めた。

「ミユキちゃんもマリナちゃんもサトコちゃんもさぁ、みんな可愛いのだから、みぃんなに可愛いって言うのは別段、間違ってなどいないだろう?」

 トントンと葱を刻む小気味よい音。あらゆるひとたちから殴られて然るべき論理を聞き流しつつ、ぼくは慶太郎の服をサッと畳んで部屋の隅に置いた。それから自分の荷物を片付ける。庭の物干し竿に掛けたままの洗濯物を取り込んでいると、香ばしい匂いが漂ってきた。

「結史、ゆうしー。夕飯はぁ?」

「西島さんのところでいただいてきた」

 ぼくの答えに慶太郎はただ、あっそう、と言っただけであった。

 ところで、ゆうしとはぼくのことである。園部結史、それがぼくの名前であった。読めそうで読めないこの名を付けたのは両親であるが、名前に結の字を入れることを定めたのは祖父である。

 我が祖父、園部群青は作家であった。今や文壇の重鎮となっているが、かつてはいかにも夢を抱いて上京した青年であり、ほかの多くの青年がそうであったように、群青青年もまた苦しい資金繰りに喘いでいた。貧しい園部群青に救いの手を差し伸べたのが、故郷の幼馴染である松葉結之助であった。

 密かにぼくはこれを「魔の手」と呼んでいる。

 ともあれ祖父はこの恩を末代まで忘れてはならぬと、自分の子孫には結の字を付けるようにと定めた。これが園部家の家訓の筆頭である。

 密かにぼくはこれを「末代まで祟られた」と思っている。

 そういうわけで園部家と松葉家には切りたくても切れぬ縁があり、ぼくと慶太郎はひとつ屋根の下に暮らしていた。祖父が書斎として使っていた一軒家である。そうするようにという祖父からの御達しであった。しかしながら、もはやぼくのひとり暮らしと言っても過言ではない。慶太郎がこの家に帰ってくるのは多くて週に一度。普段はどこでどのようにして生きているのか、ぼくは慶太郎の私生活を知りたくはなかった。


「毎週金曜日は、家庭教師の日だと言っていたか。すっかり失念していたよ」

 慶太郎は居間の卓袱台の上に出来立ての焼き飯と、冷蔵庫から取り出した麦茶の瓶とグラスを置いた。その隣でぼくは取り込んだ洗濯物を畳んでいた。

「西村さんだったか、どんな子だい?」

「西島さんだ、中学三年生の女の子だ」

「賢い子か?」

「ああ」

「可愛いかい?」

「ああ」

「おれよりも?」

 洗濯物を畳む手を止めて慶太郎を見遣ると、慶太郎はニヤニヤと笑いながらぼくを見ていた。なにやら時々この幼馴染のことがさっぱりと分からなくなる。

「きみはどうしてそう、すぐに他人と張り合おうとするのさ」

「言ってごらんよ、おれのほうが可愛いって」

「可愛いと言われたところで、嬉しくなどないだろう」

「言えよ」

 慶太郎の眼が据わっていた。ぼくは目を背けたかったが、慶太郎の視線はぼくを離さなかった。

「きみは可愛い奴だよ」

 呆れたようにぼくがそう言うと、慶太郎はほっこりと笑ってまた焼き飯を口に運んだ。

 酒の所為ではない、元来こういう性分なのだ。昔から気まぐれで我儘な男であった。さらに言えば傍若無人であり、横暴であり、それでいて掴み所がない。なによりも恐ろしいことは、松葉慶太郎はすこぶる頭の良い男であるということだ。

 ありとあらゆる可能性が、慶太郎の前では「承知の上」と化す。自分の言動がどのようにして相手に影響をおよぼすのか、どのような結果を得るのか、数多の選択肢を一瞬にして考慮する。要領が良く、回転が速く、よく切れる、厄介な頭であった。ぼくのような凡骨は慶太郎の掌の上で踊らされているだけであった。

 最善の選択肢を選ぶのならば、取り立てて気にも留める必要などないのだが、この幼馴染をろくでなしと評する所以はつまるところ、判断の基準がすべて自分にとって面白いかどうかという点に置かれていることなのである。他人の損害はもとより、自分の損得までも無視をする。とにかく自分が楽しければそれで満足なのだ。

 そしてもっぱら、ぼくを弄ぶことが慶太郎にとっては何よりの愉悦であるらしい。

 毎週金曜日が家庭教師の日であることを失念していたと慶太郎は言っていたが、そんなものは嘘である。急な予定ならばまだしも、毎週必ず行われるぼくの予定をこの幼馴染が忘れるはずなどない。

 慶太郎のことを、旅人とか渡り鳥とか称するひとたちがいる。ひとからひとへ、ふらふらと渡り歩いている。ここに来るまでもどうせ誰かと飲んでいたのだろう。慶太郎の人懐こさは老若男女を問わず、気が合ったならばすぐに連れ立って飲み明かす。このような酒には強い男であるから、相手は必ず潰れてしまう。そうすると相手を店に残して自分はまたふらふらと次の相手を探すのである。

 相手が男ならばまだ良いのだが、女性相手でも慶太郎は変わらない。女の子たちをその気にさせておいて、朝焼けより前に姿を消す。次に会った時に気まずい雰囲気になるかと思えば、そんなことはない。なにごともなかったかのようだと嘆く女の子たちからの罵詈雑言をぼくが代わりに引き受ける羽目になることも稀な話ではない。

 学があり、顔もよく、金もある。引き締まった身体からも分かるが、滅多としない喧嘩も滅法強い。松葉慶太郎は出来過ぎているほどに、出来た男であった。玉の輿を目論む女性を多々見て来たし、利用しようとするひとたちも数え切れない。それらの誘いに乗るような素振りでスルリと躱し、自由気ままに生きる男。その奔放さがひとを惹きつけてやまないのであろう。

 松葉慶太郎は猫である。いささか猫には失礼に当たるかもしれないが、本当に猫のような男であった。いたるところに出没して、あちらこちらで餌をもらう。愛嬌をふりまきながら、けっして定住はしない。

 そうだ、それだ。慶太郎には愛嬌があるから、とんでもない男であるという噂がありながら、慶太郎の周りにはつねにひとが絶えない。人癖が悪いところを除けば、慶太郎は概ね好青年であるからだ。

「あとで風呂に行こう」

 慶太郎がそう言ったので、ぼくたちは近所の銭湯へ行くこととなった。着替えや石鹸を用意しながら、ぼくは考えていた。どうして慶太郎は帰ってきたのだろうか。

 前に帰ってきたのは夏だ。どこで手に入れたのか、向日葵の花束を抱えていたからよく覚えている。三日ほど滞在したかと思えば、花瓶のかわりの空瓶に生けた向日葵が下を向く頃にはいなくなっていた。何のために帰ってきたのか、ぼくにはついに分からなかったが、枯れた向日葵を片付けながら、ああ夏も終わるのだと感じた。

 大学の構内で慶太郎の姿を見掛けることがあっても、ぼくたちは決して言葉を交わさなかった。ぼくの視線の先には慶太郎がいても、ただそれだけのことだった。どこで生きているのか、何をしていたのか。慶太郎は自分の口から語ろうとはしない。ぼくの耳には風の噂だけが届く。相変わらず自由気ままに生きているらしい。

 ぼくと慶太郎は連れ立って銭湯へ向かった。番台の老婦人と親しげに話をする慶太郎を置いていく。ぼくが湯に浸かるころ、ようやく慶太郎が入ってきた。銭湯は少しばかり混み合っていた。どこへ行っても知り合いがいるのか、それともいままさに知り合いになったのか。肩まで湯に浸かりながら慶太郎を見ていると、あちらの老人へ、こちらの中年男性へ、そちらの少年へ、楽しげに話をしている。花を移る蝶々のようであった。

 ひとしきりの談笑のあと、慶太郎はぼくの隣にやって来た。慶太郎が何も言わなかったので、ぼくは何も聞かなかった。本当のところは、ぼくから何か聞いたほうがよかったのかもしれないし、慶太郎もぼくの言葉を待っていたのかもしれない。けれどもぼくたちは何も話さなかった。

 無言のまま、ぼくたちは銭湯を出た。先を歩くぼくの上着の裾を慶太郎がずっと握ってついてきた。心許無い街灯が続く。秋の夜空には少しばかりの雲が掛かっていた。耳の端がキンと冷えた。

 静寂は苦にならないたちではあるが、何とはなしに慶太郎と話がしたいと思った。銭湯で放っておかれた淋しさかもしれないし、やや腹が立っていただけかもしれないが、ぼくはそのこころに名前を付けることはしなかった。

 他愛もないことを話した。大学の講義のこと、共通の友人の噂、新しく出来たという菓子店のこと。そのどれもが取り立てて気に留めるべき内容でなかった。てっきり慶太郎は黙ったままかと思っていたが、存外に饒舌であった。やはり頭の良い男であった。自分のことは決して話さなかった。ぼくの知らない世界のことを慶太郎は話そうとはしなかった。

 ぼくたちは少しだけ遠回りをして帰った。夜の闇に金木犀の香りが溶けていた。

 家に着くなり慶太郎はぼくを押し倒し乱暴に抱いた。


 きみに無下にされたという女の子が訪ねてきたぞ。

 見知らぬ紳士が持ってきた高そうな羊羹はありがたくいただいておいたからな。

 金を返しにきたという男もいたが、それは帰ってもらった。

 後輩たちが酒を持って訪ねてきたこともあったが追い払った。

 教授がきみを探していたこともあったが、ちゃんと話はしたのか。

 実家からの手紙が届いている。元気に暮らしているのならばそれで構わないが、たまには報せのひとつでも送りなさい。

 きみはこれでしあわせか。

 こうしてきみの体温を感じてもなお、ぼくはきみのことが何も分かりやしない。

 分かってやれないことが、かなしいのだ。


 古い硝子窓の向こうで、夜が揺らいでいた。ぼくは台所へ向かい、冷蔵庫で冷やしていたサイダーの瓶を開けた。それから窓辺に置いた文机に向かって万年筆を執る。

 拝啓、園部群青様。

 二週に一度ほど、ぼくは祖父に手紙を書く。東京での暮らしぶりや、大学のこと、流行りの物事。それから慶太郎の消息を少々。慶太郎の放浪癖はすでに祖父の知るところではあるが、松葉家の耳には入っていないだろう。

 手紙を綴っていると、昔のことが思い出された。

 慶太郎は小学生の頃にはすでに掴み所のない少年であった。ぼくには一向に分かりやしない根拠をもって、自由に生きていた。ぼくはいつだって慶太郎に振り回されていた。

 探険と称して夜中にふたり、歩き通したこともあった。小学四年生だったように思う。目的地も告げられぬまま、ただひたすらに歩いた。ぼくはめそめそと泣いていた。帰ろうにも道が分からず、そもそも慶太郎をひとり残して去ることなど出来なかった。愚図るぼくの手を引いて、慶太郎は真っ直ぐに前だけを見ていた。山の中で一夜を明かし、朝になって山を下りた。知らない場所に出たが、慶太郎は迷うことなく歩いていた。いつのまにか家に辿り着いていた。

 園部家と松葉家の両家から怒られたが、巻き込まれただけであるのに何故自分まで怒られなければならないのかと、ぼくは理不尽に感じていた。慶太郎は悪びれる素振りもみせなかった。なにやら満足そうにしている慶太郎を見ているうちにどうでもよくなってしまった。

 あれは何だったのか。それを尋ねたのは大学進学の際に上京する列車の中のことである。

 呼ぶは暁、と慶太郎が答えた。友情とやらを確かめたくなった、と。やはり少しも悪びれずに慶太郎はそう言った。その答えを聞いて、ぼくは祖父を少しばかり恨んだ。「呼ぶは暁」とは祖父の著作である。正反対の性格をしている少年ふたりの成長を描いた物語であった。お調子者でいつも輪の中心にいるが、どこか翳のある「晋太郎」。晋太郎をただ見守っているだけの「慶一」。慶太郎という名前はそこに由来する。彼らはぼくたちと似ていた。

 ふと気が付けばいつのまにか、書斎の前に慶太郎が立っていた。掛け布団を纏っただけで、その下は裸である。柱に寄りかかってこちらをじっと見詰めている。それはまるで暗闇の中からこちらを窺う猫のようであった。

「結史」

 慶太郎がぼくの名を呼んだ。

「小説は書かないのか」

 その声があまりにも弱く頼りなかったので、ぼくはそこに立つのが慶太郎の幽霊ではないかと思ったほどである。その瞳が不安に揺れている。

「……前にも言っただろう、ぼくは書くのよりも読むほうが好きだ」

「昔は賞をいくつも取っていただろう」

「ただの読書感想文だ」

「結史の論文を教授たちも褒めていた」

「論文なんて誰が書いても同じだよ」

 慶太郎は黙ってぼくを見詰める。ぼくは言葉を探す。

「……困るだろう?」

「なにが」

「ぼくが小説家になったら、慶太郎、きみは困るだろう」

「おれは困らないさ。有名になってくれよ」

「いいや、慶太郎」

 自嘲するように笑った慶太郎に、ぼくははっきりと言った。そのこころにやさしく傷を残すことばを。

「ぼくは遠くへいってしまうよ」

 ひどく、冷たい言葉が出た。すぐさま左の頬が熱くなった。叩かれたのだと気が付いたときに、泣いていたのは慶太郎のほうであった。慶太郎は胡坐をかいたぼくの膝に顔を埋め、わんわんと泣いた。まるで幼い子供のようにも思えたので、ぼくは慶太郎をあやすように宥めた。

「ごめんよ、慶太郎。ぼくが今まで、きみが寄る辺をうしなうような選択をしたことなんて、ただの一度もなかっただろう」

 慶太郎がぼくのことを放り出してどこかへ行ってしまうことは多々あったが、ぼくが慶太郎のことを見限ったことなど一度もない。故郷を離れこうして東京まで出てきたのだって、慶太郎が東京の大学を受けると言い始めたからだ。無事に合格した折には古い書斎を自由に使いなさいと祖父が言い、それならば結史を連れていきなさいと言ったのは父であった。そうして進学さえも決めかねていたぼくは東京の大学を受験することとなり、それはもう朝から晩まで必死に勉強を重ねたのだった。

 何度、連れ出されたことか。幾度、付き合わされたことか。

 ぼくがどこへもついてくると、そして、どこへもいかないと、ほんとうにしんの底からそう信じているのだろうか。そうだとすればこの幼馴染の、何と滑稽で、何と傲慢で、何と可哀想なことか。

「ぼくは物書きにはならない」

 慶太郎の慟哭を聞きながら、ぼくはただ咽び泣いた。

 古い硝子窓が茜色に歪む。

 東雲。

 もうすぐ夜が明ける。


 いつのまにか、うつらうつらと眠ってしまっていたらしい。玄関扉の閉まる僅かな音に目を覚ますと、慶太郎の姿はどこにもなかった。窓から朝日が差し込んでいる。居間の卓袱台にまだ湯気の立つ朝餉が置かれていた。慶太郎の痕跡はそれだけであった。嘘のような小春日和であった。ぼくはひとり、味噌汁を啜った。

 これまでと何ら変わりはない。ひとりで暮らすには広すぎるこの家でまた、ひとりの日常が繰り返されてゆくだけのことであった。慶太郎に叩かれた左頬はまだヒリヒリと痛んだ。

 今更、傷付くこころもない。

 折角の晴れた休日を無駄にしてはならないと、ぼくは布団を干した。家中の窓を開けて風を入れる。祖父の蔵書も、ぼくの荷物も、胸いっぱいに新しい空気を吸い込む。それから掃除もした。雑巾を絞って廊下を走った。せわしなく動いていなければ、駄目になってしまうような気がしていた。

 昼近くに戸締りをして家を出た。郵便局まで歩き、祖父への手紙を投函した。行きつけの定食屋で昼食を取り、出掛けたついでに食料品の買い出しも済ませた。今夜は鍋焼きうどんにしようと思っていた。

 高く広がる秋晴れの下、金木犀の香る風が吹いていた。やがて季節も移りゆく。冬が深まれば慶太郎はふらりと姿を見せるだろう。今までだって、そういう日々を送ってきた。東京に出てきてもう三度目の秋であった。

 ぼくの横を少年がふたり、連れ立って駆けてゆく。

「呼ぶは暁」

 不意にその言葉が口から零れた。同時に、あの日の列車での出来事がまるで昨日のことのように鮮明な記憶として蘇ってきたのであった。

「ぼくは今でもあの夜のことを夢に見る」

「どの夜のことだ」

「きみに連れられて山を歩いただろう。小学生の頃だ」

「ああ、そんなこともあったな」

「あれは何だったのか」

「呼ぶは暁。友情とやらを確かめたくなった」

「それで、どうだった」

 そう尋ねたぼくに、慶太郎は何と答えたのか。そのときの声を、表情を、視線を、ぼくはたしかに覚えていた。

「友情ではなかったよ」

 慶太郎はそう素気なく答え、明らかにぼくから視線を逸らし、僅かに唇の端を噛んだ。珍しくも愁いを隠し切れずにそう言ったのだ。

 ぼくは目を伏せた。落ち葉がカラカラと乾いた音を立てて風に攫われていった。ぼくは少年たちを見送り、ぼんやりと帰った。ぐずぐずしているうちにずいぶんと日が傾いていた。

 玄関扉を開けようとして出した手をすぐに引っ込めた。施錠したはずの扉が開いていた。引き戸に僅かな隙間があった。どうするべきか迷ったが、ぼくは扉に手を掛けた。ガラガラと大きな音を立てて引き戸はあっさりと開いた。

 見覚えのある旅行鞄が転がっていた。見覚えのない箱や袋もいくつかあるが、廊下に脱ぎ散らかされた服には心当たりがあった。

 奥からトントンと小気味よい音が聞こえてくる。ぼくは台所に顔を出した。こちらに背を向けて白菜を刻む背中をぼくは知っている。昨夜ぼくが引っ掻いた跡が赤く残っている。

「……慶太郎?」

「おかえり。夕飯は鍋焼きうどんでいいだろう、急に食べたくなって」

 悪びれる様子もなく、慶太郎がそう言いながら振り返った。

「……きみってやつは」

 全身の力が抜けたぼくは床にへたり込んだ。やり場のない感情が長い溜息となった。ぼくの前に慶太郎がしゃがみ込む。

「あの荷物、この家に戻ってきたと思っていいんだな」

「ああ」

「本当だな、実家にもそう手紙を書くぞ」

「ああ」

 ぼくは慶太郎を見た。慶太郎はぼくのことを真っ直ぐに見詰めていた。

「友情ではなかったんだな」

「どうやら違うらしい」

 慶太郎の右手がぼくの左頬に触れた。

「……おかえり、慶太郎」

「ただいま、結史」

 その夜、ぼくと慶太郎は沢山話をした。酒を飲まずとも慶太郎は饒舌であった。言葉が尽きるまで話をした。言葉が尽きれば互いの名前を呼び合った。ただそれだけで満たされる夜であった。



――明けぬ夜がないように、この関係とていつまでも永遠に続くことなどない。ぼくはそのことに気が付いていた。晋太郎はもう随分と昔から知っていただろう。さりとて、この夢はまだ醒めぬ。暁が呼ぶ、その時までは。

 園部群青『呼ぶは暁』

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