園部群青全集
七町藍路
晩夏
――何処からともなくふつふつと沸き上がってくるいとしさが、やがてこの身を滅ぼすだろうという予感が宗吉には確かにあった。そして其れが然程遠くはない日のこと、例えば夏の終わりの季節であろうとも思った。然して宗吉には、しんの底を見て見ぬふりなど出来はしない。宗吉は真面目な男であった。憐れな程に真っ直ぐであった。
園部群青『晩夏』
園部群青にとって松葉結之助は幼き頃からの親友であり、人生の恩人であった。作家を志して上京した園部群青の赤貧時代を支え続けた人が松葉結之助である。松葉結之助は無名の青年が大成する日を信じて疑わず、親友の創作活動に出資を続けた。やがて文学界に登場した園部群青は、瞬く間に文壇を駆け上がった。そうして名声を手に入れた園部群青は借りていた金を返そうとしたが、松葉結之助は終ぞ受け取ることはなかったという。
その辺りの事情については園部群青記念館に保管されている往復書簡が詳しい。
兎にも角にも、偏に松葉結之助の存在があってこそ、路頭に迷うことなく挫折することなく作家となれたのである。園部群青は決して恩を忘れることなどないようにと、自分の子孫の名前には必ず「結」の字を入れることを遺言のひとつとした。
園部群青は私、園部結宇の曾祖父である。
なっちゃんのことは、何でも知っている。
私たちは幼馴染である。曾祖父の代から続く、筋金入りの幼馴染である。なっちゃんの家は私の家から歩いて三分ほどの距離にある。庭木の手入れが行き届いている大きな家だ。松葉家は古くからの資産家で、世話になった人は多い。私の曾祖父もそんなひとりであった。
県道を歩けば三分の距離も、雑木林を横切ればすぐに着く。長年踏み固められた雑木林の小道は、園部家と松葉家だけが知る秘密の通路である。
毎朝、私はなっちゃんを家まで迎えに行って一緒に登校し、一緒に下校して家の前で別れる。それが小学生の頃から続いている。
「ゆうちゃん、おはよう」
「おはようございます」
雑木林を抜けてやって来る私をなっちゃんは門扉にもたれかかって出迎える。なっちゃんは朝に強く、夜に弱い。毎朝、なっちゃんは、僅かな隙もなく、なっちゃんであった。
松葉家の象徴ともいえる色素の薄い柔らかな髪が夏の朝風にサラサラとなびく。その髪の一束、一本すべてに松葉家の遺伝子が刻み込まれている。
対する私の髪は、真っ直ぐの黒髪である。これもまた園部家代々の髪質であった。「ゆうちゃんの髪の毛は綺麗だねぇ」と、かつてなっちゃんが惚れ惚れとそう言ったので、私はこの髪を伸ばしていた。私の自慢であった。髪の綺麗さよりも、なっちゃんがそう言ったということが、私にとって誇らしいことであった。
ふたりで県道をトボトボと歩き、標識の錆びた停留所でバスを待つ。私たちは言葉を交わすこともなく、静かな時間が過ぎてゆく。心地の良い静寂であった。私たちには、それだけで充分であった。バスに揺られながらも、私たちは多くを語らなかった。ただ時折、道端に猫を見つけては、ふたりでクスクスと笑い合った。
なっちゃんと同じクラスになったことはただの一度もない。裏に何やら大人達の陰謀が渦巻いているのではないかと私は世間を恨んだこともあったが、「ゆうちゃんと同じクラスになったら教科書が借りられないねぇ」と、なっちゃんが困ったように笑ったので、私は不条理を赦すことにした。クラスが違っていても、私たちは毎日の登下校を共にしていた。
けれどもなっちゃんが教科書を忘れたことなど今の今まで一度もないのであった。
曾祖父、園部群青は律儀な男であった。その性格についてはやはり、園部群青記念館が詳しいのであるが、曾孫の私からしても園部群青ほど律儀で難儀な男を他には知らない。
園部群青は私が小学生に上がる年に老衰で旅立った。百歳近くの大往生であった。
幼い私は曾祖父に手を引かれて雑木林の小道を歩いていた。先の大きな屋敷に住む人々が私たちにとって特別であるということは幼心にも理解していた。
「ご覧、結宇」
前方から子供ひとりで走って来る、それがなっちゃんであった。なっちゃんは祖母の手を振り切り、私たちのほうへと駆けてきた。紅色に染まった頬が綻んでいた。天使とはこの子のために生まれた言葉なのだと私は納得していた。
それまで曾祖父は、園部家にとって松葉家が如何ほど尊ぶべき存在であるのかを縷々説明してきたが、申し訳なくも私にはさっぱりとして分かりかねる言葉たちであった。しかしながら、なっちゃんを初めて目にしたその瞬間に、懇々と諭す曾祖父の言葉が堰を切られたように、私の頭、体、心そして魂の中に流れ込み、その深く奥までしっかりと焼き付いた。
すなわち園部群青は松葉結之助を神のように崇めていた。そしてその子孫である私たちもまた松葉家を神聖視していた。神か、あるいは主君か。
遺影の中の松葉結之助は穏やかに微笑んでいた。
私となっちゃんは教室の前で別れる。放課後まで私たちは離れて過ごす。その間の私の頭の中ではなっちゃんのことは二割程度まで落ち込んでしまうが、これは高校三年生の二学期という繊細な時期なので許していただきたい。目も当てられない成績を収めて幻滅されてしまえば、私は絶望から立ち上がることなど出来はしないであろう。
なっちゃんが私の成績について口を出すことなど、ましてや笑い飛ばすことなどありはしないが、それでもなっちゃんに私の醜態を晒すわけにはいかないのである。受験生なのだ、なっちゃんとの平穏を守るために、私は勉学に励まねばならない。
もはや文豪、園部群青の子孫という血筋よりも、園部家と松葉家の関係性のほうが私を私として奮い立たせていた。曾祖父の功績は曾祖父のもの。私となっちゃんの関係は、私のものである。私のものである。私はそう言い聞かせる。
ところで、私の同級生に小倉君という男子学生がいる。誠実明朗が人間の形をしているような男だ。確かに美丈夫と囁かれるだけはあり、女子生徒たちは皆競い合うようにして如何に小倉君が素晴らしいのかを語る。同級生ばかりではなく、学校中が、ご近所さんが、小倉君のことを好青年と褒め称える。この小さな町で小倉君のことをしんの底から憎んでいるのは私くらいのものだろう。そう、私こと園部結宇は小倉秀悟のことを憎んでいる。親の仇であるかの如く、嫌っているのである。
そんな小倉君が私の隣に立っている。
「園部さん」
他の女子生徒たちならば聞いただけで眩んでしまうような甘い声で小倉君が私を呼ぶ。私は友人のセナちゃんと昼食を囲んでいただけだ。何故。何故、嫌っている相手に名を呼ばれなければならないのか。私はムッとした表情で祖母お手製のお弁当を食べていた。
セナちゃんは魔法に掛けられたように恍惚とした顔で小倉君と私を交互に見遣る。
「マヨネーズが、セナちゃん、マヨネーズがサンドイッチから零れ落ちそうです」
小倉君に熱い眼差しを送っているのはセナちゃんの自由ではあるが、その手で握りしめているサンドイッチからはみ出しているマヨネーズでセナちゃんのよくアイロン掛けされているスカートが汚れてしまうのは嫌である。
「あの、園部さん」
「何でしょう」
私はセナちゃんにティッシュを一枚差し出しながら小倉君を振り向きもせずに返事をした。小倉君のことは嫌いだが、嫌いだからといって無視を決め込むほど幼稚ではないのである。しかしながら目を合わせない程には嫌っている。
「今度の週末とか」
「残念ながら先約があります」
私は小倉君の言葉を遮った。セナちゃんが信じられないという表情で私を見ていた。
「両親が帰ってくるのです。とても大切なことですので他の予定は入れられません」
「ああ、うん、そうだね」
私の両親は季節の変わり目に帰ってくるものの、普段は東京に暮らしていた。彼らには園部群青記念館を守るという務めがある。そういうわけで私は祖父母と暮らしている。
「またの機会にお誘いください。セナちゃんも、一緒に、お出掛けしましょう」
「え、うん」
サンドイッチからマヨネーズが落ちた。ああ、スカートが。
私はセナちゃんを巻き込むことで会話を終了させた。意地の悪い人間である。またね、と小倉君は困ったように去っていった。
罪悪感というものなら、この胸のどこかにチクリと刺さっているそれが、そうなのだろう。けれども私は見て見ぬふりをする。同情してはならぬ、心動かされてもならぬ。
すべてが終わるまで恋はしない、そう心に決めている。この信条を覆すことはない。
決して、迷ってはならないのだ。
なっちゃんは小倉君が好きなのだから。
私は不機嫌なまま放課後を迎えた。ムスッとした私の顔を一目見たなっちゃんはコロコロと笑った。笑うと八重歯が覗く。それが何とも言えず無邪気な子供のようで可愛らしいのだ。私とは対照的に、なっちゃんは上機嫌であった。
「今日はいつにも増して不機嫌だねぇ」
なっちゃんは実にのんびりとした口調でそう言った。私たちはいつも四時に再会する。なっちゃんの鞄の中から図書室の本が顔を出していた。
「またその本ですか」
「うん、いっとう好き」
「知っていますよ」
園部群青「晩夏」。その本をなっちゃんは気に入っていた。想いを寄せる少女のためにあれこれと奮闘する少年の物語である。園部群青はこの本で脚光を浴び、次作にあたる「呼ぶは暁」で文学賞に輝いた。
「帰りましょう、なっちゃん」
私たちは連れ立って帰った。今朝に揺られたバスに乗る。日に三往復しか走っていない。本数が少ないので逃すことは出来ないのである。そういう路線であるから利用客は少なく、車内はいつもガランとしている。けれども決して寂しいわけではない。言葉少なに流れるふたりだけの時間が私はいっとう好きであった。
その安寧を守りたいがばかりに、私は小倉君のことをなっちゃんには伝えられずにいた。私は臆病者であった。けれども、なっちゃんの耳にも少なからず噂は届いていることだろう。何しろ、あの小倉君のことである。誰も放ってなどおかないだろう。
私が何も言わないから、なっちゃんは何も聞かないのだ。私はとんだ卑怯者であった。親友になれるはずもなかった。
なっちゃんの家の前で別れたあと、ひとり雑木林を歩いた。夕暮れの小道は薄暗かったが、園部家と松葉家のほかに通る者などいない。さめざめと泣きながら歩いた。私は自分が不甲斐無く、情けなくて仕方がなかった。家に着くまでには無理矢理に涙を引っ込めた。私の涙を誰ひとりとして知る由もなかった。
ただひとり知っているとすれば、曾祖父くらいである。私は仏壇の前で手を合わせながら、曾祖父への恨みつらみをぐずぐずと吐き出した。
親愛なる曾祖父よ、私は一体、どうすれば救われるのでしょう。
遺影の中の曾祖父は何も語らず、万年筆を片手に思案を巡らせていた。
なっちゃんと学校で昼食を共にするのは、月末の金曜日だけと決めている。それはどちらともない約束であり、私となっちゃんは生徒で溢れる学食の片隅で向かい合って座り、何の変哲もないカレーを食べる。ようやく私たちは言葉を交わす。授業のこと、進路のこと、同級生たちのこと。
安堵したいのだ、私は安心したいのだ。私と過ごさない時間のうちに、なっちゃんが変わってなどいないことを確認したいだけなのだ。それはなっちゃんも同じで、ひと月のうちに自分の知らない世界を生きている幼馴染が、相も変わらず園部結宇であることの答え合わせをする。
私となっちゃんは幼馴染ではあるが、曾祖父たちのような親友ではない。
クルンと上を向いた睫毛を眺めながら、私は物思いに耽る。この愛らしい幼馴染が親友であったならば、と。
だがそればかりは私にはもはや、どうすることも出来ないことなのだ。
手詰まりであった。なっちゃんの思考に占める小倉君の割合は日に日に多くなっているような気がする。いよいよ心苦しい。
何故、私がこれほどまでに苦しまねばならないのだろうか。そのすべてを小倉君の所為にしてこの苦しみから逃げ出してしまいたい。けれども私の矜持がそれを良しとせず、私の虚栄は平気であると嘯くのであった。
私は悶々と手を合わせていたが、曾祖父はずっと思案に暮れていた。
翌朝も変わらず、なっちゃんはなっちゃんであったし、私は私で不機嫌であった。
ムスッと口を尖らせた私を見て、なっちゃんは笑っていた。私が単に不貞腐れていることなどなっちゃんにはお見通しなのである。だからといって私の機嫌を取るようなことはしない。いつまでもうじうじするなと檄を飛ばしもしない。
「ゆうちゃんは表情が豊かで素敵だねぇ」
ふふふ、となっちゃんが笑うので、つられて私もふふふと笑った。
なっちゃんが今日もなっちゃんであることが、私にとっては何よりも大切なことであった。
小倉君もまた、小倉君であった。小倉君は、めげない。
私に話し掛けてくる技術は流石であった。あたかも最初から友人であったかのような自然な振る舞いに、私は心の中で密かに賛辞を送っていた。けれどもそれで小倉君を好きになるわけでもなかった。私の中に黒々と渦巻く憎しみは、知らぬ間に随分と大きく育っていたらしい。
体育の授業中も、女子生徒たちの間で飛び交う黄色い声援を横目に、どのようにして小倉君を私から引き離すのか、そればかりを考えていた。今日の授業はバレーボールであり、私の得意とする球技でもあった。
もしも曾祖父が推理小説を書いていたのならば私はそれらから着想を得ていたかもしれないが、園部群青は純文学の作家であった。
親愛なる曾祖父よ、自分のことを好いてくれる人から嫌われる方法を何故書き残してはくれなかったのですか。
私は心の中でぶつぶつと呪詛のような言葉を呟いていた。胃がキリキリと痛んだ。
危ないと叫ぶ誰かの声が聞こえたような気がしたものの、何が危ないのかを理解するよりも先に、私の顔面をボールが直撃した。
天罰だと思った、咄嗟に、そう、曾祖父が怒っているのだと。
セナちゃんが私の身を心配してくれる声が聞こえていたが、セナちゃんの祈りも虚しく、残念ながら私は無事ではなかった。
私は保健室のベッドの上で目を覚ました。体育の授業は昼食の前であったはずだが、校庭から部活動の声が聞こえてくる。一番先に頭の中へ浮かんできたことは、昼食を食べ損ねたという未練であった。
気を失ったあと、すやすやと眠り込んでしまっていたらしい。午後には生物と漢文の授業があったはずである。何故誰も起こしてはくれなかったのか。ぐぬぬ、と私は低く唸った。生物はさておくとしても、中村先生の漢文の授業を逃した後悔は大きい。何故起きなかったのか、私は惰眠を責めた。
けれどもこうしてはいられない。私は慌てて起き上がった。帰りのバスの時間がある、あれを逃せば歩いて帰らねばならない。私は別に平気なのだ、ただ、なっちゃんまで歩いて帰るなどということがあってはならない。なっちゃんが私を置いて先に帰ったのか、誰か教えて。腕時計は四時を過ぎていた。
私は飛び降りるようにベッドを後にした。仕切りのカーテンを勢いよく開けると、保健委員会の女子生徒が驚きのあまり小さな悲鳴を上げた。私は彼女にさよならを言って廊下に飛び出した。先生が不在だったのは実に幸運である。
廊下の窓に映った私の左頬には大きな湿布が貼られていた。おやまあ、と私は思ったが、それだけであった。そんなことよりも、白い体操服の胸元に点々と赤い染みが付いていることのほうが一大事である。鼻血であることは明らかであった。
更衣室で素早く着替えを済ませて、私は教室に戻った。途中、なっちゃんの教室の前を通ったが、そこになっちゃんの姿はなかった。
教室に戻ると、セナちゃんが私のためにプリントを束ねてくれているところだった。
「ゆうちゃん! もう大丈夫なの?」
「はい、ありがとうございます。おかげさまでもう平気ですよ」
「これね、授業のプリントと宿題と、お知らせのメモ」
セナちゃんにも美術部の活動があるにもかかわらず、私のために居残ってくれていたことが嬉しい。私はもう一度感謝を伝えた。いいの、いいのぉ、とセナちゃんは笑って言った。
「なっちゃんを知りませんか?」
「先に帰るねって。自分までバスに乗り遅れたらゆうちゃんが怒るからって」
「そうですか、それなら良いのです」
私は安堵して椅子に座った。セナちゃんが心配そうに私の頬を見詰める。
「痛かったでしょ、鼻血も出ていたし」
「あまり覚えていないのです」
「小倉君も心配していたよ」
「何故?」
「小倉君がブロックしたボールだったからだよ」
「そうでしたか、それは小倉君に悪いことをしました」
セナちゃんから受け取ったプリントをカバンに仕舞い込んだ。体操服も持った。カバンを持つ手が震えていることを悟られる前に、私はセナちゃんと別れた。気を付けてね、とセナちゃんの声が私の背中を押した。
校門の前に小倉君が立っていた。隣には自転車を携えていた。下校する女子生徒たちが控えめな声できゃあきゃあと騒いでいたのですぐにそれだと分かった。彼女たちに紛れて帰りたい気持ちが湧いてきたが、私が行動に出るよりも先に小倉君が私の姿を見つけた。
「園部さん」
安堵と心配と申し訳なさが詰まった妙な表情をした小倉君の声は少しばかり上擦っていた。
「ご心配には及びません、私はこの通り、もうすっかり平気です」
私は深々と頭を下げて小倉君の前を通り過ぎた。
「送っていく」
小倉君は私の腕を捕まえた。その熱い眼差しに、私はただ頷くしかなかった。
こんなにも心地の悪い沈黙がこの世に存在するとは思いもよらず、私たちは黙ったまま歩いていた。はじめのうち、小倉君は謝罪を繰り返し、私はそれらの言葉を曖昧に受け流した。やがてすっかりと口を噤んだ小倉君は、俯き加減に歩いていた。カラカラと回る自転車のタイヤの音が、規則正しく付いて来た。
地面に引かれた白線は剥がれ落ちて、錆び付いたガードレールが続いていた。夏の日差しはまだ熱を保ったまま照り付け、温められたアスファルトの熱気が足元から迫ってくる。
私のカバンは小倉君の自転車のカゴの中に収まっていた。手持無沙汰を埋めるように、私は折り畳みの日傘をさして歩いた。文豪の曾孫であるにもかかわらず、気の利いた言葉のひとつも思い浮かばない。曾孫の窮地を曾祖父は救ってくれなどしない。恐らくは今もまだ思考の海の中を漂っているはずである。
なっちゃんならば、と私は幼馴染のことを考えた。なっちゃんならば私を救う言葉を知っているかもしれない。私よりもずっと園部群青を愛している。晩夏など、諳んじることさえ出来るのかもしれない。なっちゃん。なっちゃんはちゃんと家に着いただろうか。
ふたつめの停留所を過ぎた頃、小倉君が口を開いた。
「……園部さんが」
私はほんの僅かに小倉君のほうを向いた。健康的な肌に汗が流れている。誰もが憧れる男子生徒が私と歩いている。優越感とも違う、奇妙な感覚であった。小倉君は唇までもが整っていた。その美しい唇が微かに震えているように見えた。
「園部さんが俺のことを嫌っているのは充分に承知なのだけれど、けれどもハッキリと言ってくれなければ俺も諦めきれない。俺のどういうところが嫌いなのか、教えてはくれないだろうか」
「いえ、その……」
日傘の下で私の視線は泳いだ。黄緑色の田んぼが風に揺られて波打っていた。蝉の声が重なり合って響き渡る。夏の匂いがした。
「自分の悪いところを改めたいと思っているんだ。俺を助けるつもりで、理由を教えてほしい」
言葉を探しきれずに、私はただ自分の影を見詰めて歩いた。何か適当な言葉を見つけてたったひとことを口にすればそれで終わるはずであった。けれども私の口は息を吸って吐くだけで、言葉のひとつも零れなかった。
「や、いや、すまない。園部さんを困らせるつもりはないんだ。嫌っている人間からこんなことを言われても、何も答えられるはずもない」
ははは、と小倉君の乾いた笑いが漏れた。どうしてこうも容易く小倉君を傷付けられるのか。非情なわけではない、私はただ意固地になっているだけであった。小倉君が傷付いても平気なのか、いや、そんなふうに思ってなどいない。どれほど嫌っていて憎んでいても、不幸になってしまえなんて考えてもいない。
なっちゃんは小倉君のことが好きなのだ。その小倉君が不幸になって喜ぶような幼馴染ではない。
「……園部さんは松葉のことを好いているからなぁ。俺には最初から余地がなかっただけのことだろう」
その言葉に私はハッとして小倉君を見た。今度は確かに小倉君のほうを向いた。小倉君は諦めたようにどこか遠くを見詰めていた。私は自分の唇がわなわなと震えるのを感じていた。
「……ます」
「え?」
殆ど消えかかった声が出た。小倉君は聞き返した。私が立ち止まっていたので、小倉君も自転車を歩道の脇に止めて私の元に戻って来た。
「違います」
私はハッキリとそう言った。頬がじりじりと痛んだ。
「なっちゃんは幼馴染です。ただの幼馴染です」
自分の言葉が自分の胸にグサグサと突き刺さっていく。心の深く柔らかい場所を貫いていく。
「私は親友にさえなれないのです」
そう言い切った私は、どんな顔をしていただろうか。泣いていたのだ、私は。ちっとも美しい泣き顔ではなかった。ボロボロと涙が零れ落ちた。熱されたアスファルトを一瞬だけ潤し、すぐに蒸発した。私はただただ泣いていた。雑木林の小道でもない場所で、ただひたすらに。
子供のように泣きじゃくりながら私は歩いた。小倉君を困らせていることは分かっていたものの、この涙のやり場を知らなかった。いつのまにか太陽は沈もうとしていた。普段はバスで通っている通学路はひどく遠い道程だった。小倉君は何も言わずに自転車を押しながら私の隣を歩いていた。
格好良い人になりたかった。ずっと、そう願っていた。そうでなければなっちゃんの隣には立てないと思っていた。なっちゃんと釣り合う人になりたい。なっちゃんに褒められたい。なっちゃんに笑っていてほしい。なっちゃんに。なっちゃん。
曾祖父もまた同じ心情を抱いていた。結之助に認められたい。結之助に喜んでほしい。「晩夏」に始まり「結びの言葉」で終わる。園部群青が生涯を通して書き続けたすべては松葉結之助のために綴られた物語であった。記念館のガラスケースに収められた書簡を読めば分かる。あれはまるで恋文だ。恋よりも深く、愛よりも重い。それが園部群青の作品である。
恋人になりたいわけではない、家族になりたいわけでもない。けれどもただ、特別であり続けたい。
どうして私なのか。
どうして私では駄目なのか。
私は松葉家との切れぬ縁を残した園部群青を呪い、なっちゃんの心を占める小倉君を妬んだ。そして誰よりも自分を嫌った。
薄暗くなった道を前から歩いてくる人影があった。それがなっちゃんであるとすぐに分かった。間違うはずもなかった。私たちは幼馴染であった。
「なっちゃん」
私の声に、なっちゃんは大きく手を振った。
「ゆうちゃん、おかえり」
気が抜けるようにのんびりとした声であった。私はひとつ溜息を吐き出した。
「小倉君、どうもありがとうございました。もうここで結構ですよ」
「家はもう近いのか?」
「ええ、あの角を曲がって、すぐですよ」
「そうか。松葉が来たのなら、もう安心だな」
私は小倉君からカバンを受け取ると、深々と頭を下げた。駆け寄ってきたなっちゃんが私の手からカバンを取り上げた。どこか嬉しそうなのは、私が帰ってきたからなのか、それとも小倉君がいるからだろうか。私は醜い嫉妬を頭から追い出す。
小倉君は自転車に跨ると、夜道を颯爽と去っていった。私はなっちゃんとふたり、小倉君の後姿が見えなくなるまで見送っていた。
明日になれば懲りずにまた話し掛けてくるのだろうと思う。そういう純情が小倉君の美点である。多くの人の心を掴むのだ。小倉君は何も悪くない。悪いのは私のほうであった。
「小倉君はゆうちゃんのことを好いているよ」
なっちゃんはどことなく意地悪な声で言った。
「ええ、そのようですね」
私は素気ない返事をした。なっちゃんは気にも留めずに続けた。
「いい奴じゃないか」
「ええ、ええ、そうでしょうね。あなたが好きになるのですから」
泣き腫らした目に精一杯の恨みを込めて、私はなっちゃんを見詰めた。ふふふ、となっちゃんは笑った。それは降参と言わんばかりの笑いだった。
「知っていたの」
「勿論。小倉君のことを話す自分の顔をごらんなさいな」
「困ったな、ゆうちゃんには黙っておくつもりだったのに」
「私だってなっちゃんには黙っているはずでしたよ」
家へと続く道をふたりで歩いた。リンリン、シンシンと、虫の声が聞こえてきた。
「どうして泣いていたの」
「悔しくて泣いていたのです。あなたが遠い存在になる日が来るなどと、曾祖父は一切教えてくれませんでした」
「けれどもぼくは、もう少しだけ傍にいてもいいだろうか」
「……私があなたから離れる日が来るとすれば、それは松葉夏輝が園部結宇を解放する時です」
なっちゃんはまた、ふふふ、と笑った。私の答えに満足したらしい。
この幼馴染は私のことをもう暫くは手放さないだろう。私にはそんな予感があった。
かつて松葉結之助がそうであったように。
――愛とも恋とも呼べぬそのこころのうちが、やはり不自由な幸福であったのだ。今やもう永遠に失った名を宗吉は呟いたが、言の葉はただ虚しく宙を舞っただけであった。それは晩夏のことであった。
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