蜘蛛の糸 死闘篇
かぎろ
地獄の死闘
ある日のこと。
お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、おひとりでのんびりと歩いておりました。
蓮の花の芳醇な香りにやさしく包まれる極楽浄土。やわらかな朝の光が照らすそこで、お釈迦様はふと、お佇みになって、水面を覆う蓮の葉の間から下の様子を御覧になりました。
この極楽の池の遥か下には、閻魔の治める地獄がございますから、透き通った水の向こうには、三途の川や針の山がよく見えるのでございます。
血の池地獄に、カンダタと云う男がひとり蠢いているのが、お釈迦様のお目に留まりました。
このカンダタと云う男は、それはもう殺人やら放火やら悪の限りを尽くした大罪人でございますが、一度だけ、善行を致したことがございます。と申しますのは、ある日、カンダタが一匹の蜘蛛を踏み殺そうとしたさい、「これもひとつの命には違いない」と急に思い直して、とうとう蜘蛛を逃がしてやったのでございます。
お釈迦様はカンダタの善行を思い出しになりましたから、地獄から脱出する機会を与えてやろうとお考えになりました。そこで、そばにいた極楽の蜘蛛のその糸を、そっと御手にお取りになって、蓮の葉の間から、遠く、それはもう気の遠くなるほど下の方ではございますが、そのような地獄の底へ、まっすぐにそれを御下ろしなさったのです。
そして、糸が底へ達した刹那。
お釈迦様は地獄に落下し始めました。
「……ッ!?」
なにが起きたか、お釈迦様が理解なさるのに寸毫の時も要しませんでした。
向こう側から糸を引っ張られたのでございます。
「――――
全身筋肉ダルマのカンダタがそこに佇んでおりました。
「よう、お釈迦様。ぶっ飛ばしてやっからこっち来いや」
結界が割れ、その直後。
有無を言わさぬ猛烈な力でお釈迦様の体は引っ張られ――――地獄の底に落ちると同時に、カンダタの拳がめり込んだのでございます。
「ガハァッ!」
お釈迦様は血の池の上を水切り遊びのように何度も跳ね、やがて壁に『ズゴォン!』と音を立ててクレーターを成してございました。
朦朧とする視界の中に、ゆっくりと近づいてくるカンダタの姿がございます。
「カン、ダタ……貴方は……」
「夢だったんだよ」
カンダタは嗤います。「オレの、この鍛え上げた筋肉を手加減なしで振るえる相手ってやつに、相まみえるのが夢だった。そして今、それは叶う……と、思っていたんだが……」
お釈迦様の呼吸が止まってございます。
それはカンダタの剛腕に首根っこを掴まれたからでございます。
「お釈迦様ですらオレの相手にはならねえとはな。残念だよ。じゃあな」
カンダタはお釈迦様を掴んだ腕を振りかぶり、針山地獄の方へとぶん投げました。物凄い力に、お釈迦様の御体は太い針へ一直線。コンマ一秒後には串刺しになろうほどの勢いでございます。
その時。
お釈迦様が咆哮なさいました。
「仏を、舐めるな! カンダタァァァァァアッ!!!!」
そしてお釈迦様の背後に、黄金に輝く後光が現れたのでございます。
「……カンダタ。貴方は危険すぎる。世界を脅かす存在には、消えてもらわねばなりません」
「消えるのはてめえだよ、お釈迦様」
カンダタは少しも臆しません。
ぞっ……と、お釈迦様の背筋に怖気が走ります。
悟りに至るべく修行に明け暮れていた僧の頃ですら、これほどまでの恐怖を覚えたことはございませんでした。しかし一方で、その震えは武者震いでございました。
自らの中で有り余る
それが遂に現れたことを、お釈迦様は肌で感じ取られたのでございます。
「――――いいでしょう。全力を出します。地獄を壊してしまうかもしれませんが……創り直せばいいだけのこと」
「へえ、そうこなくっちゃな。せいぜい楽しませてくれや」
血の池地獄上空で浮遊するふたりは、〝気〟の波動で池の水面を波打たせながら、睨み合ってございます。それは居合の達人同士の果し合いにも似ておりました。ぴんと張った空気の中、どちらが先に鯉口を切るのか。初撃の成否が闘いの流れを決めるのでございます。
先に動いたのはカンダタでございました。
愚直にも、まっすぐにお釈迦様の
お釈迦様が親指と人差し指の先を触れ合わせ、そのまま左手の掌は上に、右手の掌は前に向けられました。
それはお釈迦様が初めて説法をされた時に結びになられた印相――――
直後、
「ぐッ……がああああッ!」
血の池が一気に蒸発するほどの熱波が地獄を灼きました。
しかし。
立ち上がった丁度その体を、お釈迦様の掌打が打ち抜いたのでございます。
「ぐはァッ!」
莫迦な、見えない――――そのように心中呟くことさえままならないほどの猛打に、カンダタの意識は朧になってゆきます。これぞ本気のお釈迦様の力。カンダタは今更になって、圧倒的存在に対する
(オレは)
歯軋りの音が人知れず響きます。
(オレは、神に、勝つために)
そこでカンダタの視界は暗転したのでございます。
◆◆◆◆
カンダタの生涯は、それはもう濁流の中を泳ぐかのような有様でございました。農家の家に生まれたカンダタは、貧乏暮らしを支えるため、父と母と同じように幼少期から畑仕事に精を出しておりました。しかし、まだ彼が十にもなっていない頃のこと。山の熊に父が殺され、母が心を病んでしまったのでございます。
カンダタは憎みました。熊を憎み、父の体の弱さを憎み、母の心の弱さを憎みました。復讐に燃えるカンダタは、熊殺しに挑むべく鍛錬を始めました。体が弱いのなら、強くなればいい。心もまた然り。そうして若くして強い膂力と精神力を手に入れたカンダタは、遂に熊を素手で屠ったのでございます。
ですが、よいことばかりではありません。
熊の死体を引きずるカンダタの様子を見た村人たちは、あの男は化け物であると恐れました。
村八分にされたカンダタは、拠り所にしていた故郷を失い、都会へぶらりと旅に出ました。その間、浮浪者そのものとして様々な罪を犯しました。強面の男が絡んできたならこれを殺し、その舎弟たちが次々と襲ってくるのに飽きが来たなら相手の本拠地に火を放ちました。カンダタはいつの間にやら、善良な百姓息子ではなく、醜悪な大罪人となっていたのでございます。
盗んだ酒を橋の下で飲みながら、目の前の河川を叩く雨を見つめて溜息をひとつするカンダタ。
どうしてこうなっちまったんだろうな。
そんな思いが胸で渦巻き、いっそ死のうと、自らに重りをくくりつけて川に飛び込む算段をしていた時。
足下で蜘蛛が歩いているのを見たのでございます。
(……そうだ)
(……あの時、オレは神を呪っていた)
(オレを助けてくれない神を呪い、父さんと母さんを元気でいさせてくれなかった神を呪い……)
(一発ぶん殴らないと気が済まないと、そう思っていた)
カンダタが踏めばすぐに絶命する、あまりに弱い存在でしかない蜘蛛。
(けど、オレは、本当は優しい人間のままでいたかったんだ)
(裏切られてもなお、外道に落ちたりなんかしない、優しい人間。そう――――)
蜘蛛はしかし、カンダタに踏まれることなく、のんびり去っていくのです。
(――――お釈迦様のような存在に。)
視界が開け、光とともに、カンダタは覚醒するのでございます。
◆◆◆◆
お釈迦様は、
満身創痍の無残な姿。
対してお釈迦様の傷は既に、
「もう十分でしょう。立ち上がることはできない。あとは閻魔に一任することとしましょうか」
そうして極楽へと帰られようとした、次の瞬間。
「……ッ!? これは……!?」
頭上。
極楽の方から、何十本、何百本もの蜘蛛の糸が下りてくるではございませんか。
銀色に光るその糸が降り注ぐその様子は神秘的でもあり、一方で、異常な光景でもありました。
更に、その糸は、傷だらけのカンダタに向かって集まっていき、彼を慈母の如き優しさで以て包み込みます。
「オレが助けた小さな蜘蛛も」
さあっと糸が離れていけば、そこには銀色の光を纏った偉丈夫がおりました。
「大切なひとつの命だったんだ」
そう。
カンダタが蜘蛛を助けたことは、お釈迦様だけでなく、極楽にいるすべての蜘蛛が覚えていたのでございます。
お釈迦様は知りました。極楽の蜘蛛がカンダタに味方し、力を与えたというその事実を。
「カンダタ」
一転、優しげな声でお釈迦様はいいます。「貴方は遂に、あの時の感情を思い出し、改心したのですね」
「……そうだな。オレはここにきてやっと……こんな穏やかな気持ちになれた」
「貴方ならば、菩薩として将来の仏を目指すことができるでしょう」
「ああ。もはやオレには戦う必要はなくなった。神と成り、弱き者を救う。その使命を思い出したからだ」
「そうですね。貴方はきっと悟りを開くことができる。そうしたら、ともに
「それもいい。そうするべきなのだろう。だが……」
「ええ。貴方はそうするべきです。ですが……」
突如お釈迦様の御体が黄金に輝きだし、カンダタの巨躯も白銀の光を放ち始めます。
そして双方、額に青筋を浮かべ、同時に叫んだのでございます。
「決着をつけた後でなァッ!!!!」
金のオーラと銀のオーラがぶつかり合い、衝撃波で地獄の地面がめくれ上がります。闘いに魅入られたふたつの存在。お釈迦様とカンダタの血戦は、地獄が壊滅してもなお続くのでございましょう。
それこそが。
戦士の、生き様なのでございます――――――
【完】
蜘蛛の糸 死闘篇 かぎろ @kagiro_
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