飴と傘

白地トオル

 「確かに鳴ったの、傘が、こう……ボンッて。いや、『ポンッ』だったかな。ううん、あれは『ボンッ』だった。トランポリンにテニスボールぶつけたことある?イメージとしてはあんな感じかな。弾力のあるものをはじき返す時のね、あの独特の音がしたの」


 彼女はそう言いながら、僕にちっとも気をくれないで部屋の壁の一点を見つめていた。


 「なにそれ。それが十年ぶりに会ったクラスメートに話す内容?」

 「でも祐樹君との記憶と言えば、それぐらいしか覚えてなくて」

 「志保ちゃん、そりゃないよ。あんなに仲良くしてたじゃないか」


 僕は大げさに両の手のひらを上げて驚きを表す。


 「あとは……野球くらい?野球やってたよね?今もやってるの?」

 「まさか。野球は中学でやめたよ。志保ちゃんも応援に来てくれた…あの、三年の引退試合を機に」

 「そう、勿体ないの。今頃メジャーリーガーになってたかもしれないのに」

 「それ本気で言ってる?」

 「本気よ。だってあの時の祐樹君、かっこよかったもの」


 時が止まる。爽快な打球音が耳を左から右へと突き抜け、僕は一瞬、懐かしいあの土臭いグラウンドの青春を追憶した。


 「志保ちゃん、いつからそんな冗談言うようになったの?」

 「―――――」

 「そんなこと言われたって……あれ」

 「―――――」

 「志保ちゃん?」

 

 彼女は斜視のかかった瞳で僕をじっと見つめる。ただ片方の瞳は僕の背後うしろを見ていて、その無表情な顔つきはこの世ならざる者を見ているようだった。


 「志保ちゃんってば」

 「―――――え?なに」

 「今ボーっとしてたよ」

 「うん……、そう?」

 「志保ちゃんさ、体の調子……どうなの」


 彼女は小さいころから虚弱体質で、何かの病につけては入退院を繰り返していた。何の病にかかっていたか知らないが、彼女が元気に走り回っているところを見たことがない。それでも容態がよくなると都度、学校に顔を見せに来ていたので、どうやら生きているらしいということは分かっていた。ただそれも僕の目には、必死に息継ぎをしながらプールを往復する幼い少女のようにも見え、やはり元気な様子を見たことがなかった。

 今にしてもそうだ。時折、魂だけ抜けてしまったように虚空を見つめることがある。


 「体の調子?」

 「そう」

 「ばっちりだよ。ばっちりばっちり」


 彼女は小枝みたいな細白い腕をさらして、無い力こぶを自慢する。


 「そう…、それならいいんだけど」

 「でさ、さっきの話なんだけど」

 「さっきの話?」

 「だから、傘を差してたら『あ』が降ってきた話!」

 「うん?『め』でしょ」

 「ううん、『あ』」

 「『あ』ってお菓子の『飴』のこと?」


 彼女は自分が何を言っているのか十分に考えずに話しているのだろう。だが眉一つ動かさぬその表情はまるで真実を語っているようにも見えた。


 「大きな一粒の飴が降ってきたの。そのとき私は傘を差してたんだけど、急に『ボンッ』て音が鳴って、何かがぶつかったみたいだった。で、ふと足元を見たら大きな飴玉が落ちてたの」


 何と答えればいいのだろう。空から降ってくるのは『雨』で、『雨』が降った時に傘を差す。子供でも知っているこの世の摂理だ。『飴』が降ってくる世界を妄想するのは、その摂理を知っていながら言葉遊びに興じる子供だけなのだ。

 彼女はその可愛らしい童顔から実年齢より幼く見られがちだが、中身は立派な大人だ。傘の柄を伝う振動の原因が、一粒の飴ではなく一粒の雨だということは知っているはずだ。


 「その飴はね、白いサワークリーム味の飴で、口の中でシュワシュワって溶けてくやつだったの」

 「そう、なんだ」

 「信じてない?」

 「うん」

 「そっか…、どうしたら信じてくれる?」


 僕はこの時、をふと思い出した。顔に汗にじませた熱血漢の刑事が取調室で、終始飄々としている容疑者を問い詰めるシーン。息を飲む頭脳戦が繰り広げられ、局所にキーとなる思い出がフラッシュバックし、最後には容疑者が涙ながらに自白をする。なぜか僕は突然、それを再現してみたくなった。きっと彼女の可愛い『思い違い』を正してあげたいという無用な正義感が僕の情動を突き動かしていたのだろうと思う。


 「じゃあ、僕が今からいくつか質問するよ」

 「質問?」

 「そう、志保ちゃんが僕の疑問点を解消してくれれば、僕は君の言葉を信じるよ」

 「分かった、いいよ」


 彼女は静かに微笑む。


 「じゃあ、一つ目の質問―――」


 僕は机に肘をついて手を組む。その折込んだ指の先から、両目でじっと彼女を見据える。少し呼吸を置いて、彼女に問い掛けた。


 「その日、雨は降ってた?」


 彼女はしばらく考えるフリをして、はっきりと答えた。


 「


 この答えで明確になったのは、空から降るものは『雨』で、傘を差すのは『雨』が降る時であるということを彼女自身が理解しているということだ。おとぎの国から来たお姫様ではなく、現世をひた歩く一人の人間だということが分かった。

 しかし、そうなると不可解な点が出てくる。『傘を差す』=『雨が降る』ということが分かっていながら、なぜ『降っていない』と答えるのか。雨が降っていないのになぜ傘を差すのか。その点が不可解だ。


 「それじゃあ、二つ目の質問―――その傘は日傘だった?」


 そう、傘を差すのは雨が降っている時に限らない。燦燦さんさんと降り注ぐ太陽光から肌を守るために傘を差すことだってある。


 「うん、


 つまり、その日は晴れていた。傘にぶつかったのが『雨』ではなく、『飴』であることをさらに印象付ける要因の一つだろう。

 いよいよ彼女の言う通り、傘にぶつかったのは『飴』である可能性が強まってきた。ではいっそ本当に飴が降ってきたと考えると、問題は誰がその飴を放ったかということになる。よもや空中の水分子が麦芽糖やブドウ糖になったりはしないだろうから、やはり誰かが彼女の頭上に飴を投げたということになる。それなら次の質問は決まっている。


 「三つ目の質問―――、志保ちゃんの周りに他に人はいた?」


 彼女はその交差した視線を僕に向け、ゆっくりと口を開いた。


 「いた。たくさん、いた」

 「たくさん…ってどれくらい?」

 「ん……」


 何かを思い出すように時折天井を見つめながら、一つずつ指を折っていく。

 全ての指を折ってから顔を上げると、彼女はどうにも困った表情をしていた。


 「志保ちゃん、どうしたの?」

 「いや、本当に…たくさん、

 「そっか、そんなにたくさん…か」


 それほど大勢の中に紛れていれば、誰が飴を投げたかなんて分からない。隣の人かもしれないし、自分よりずっと遠くにいる人が此方に向かって投げてきたのかも分からない。特定はできそうにない。ただこの質問によってまたはっきりしたことがある。それは突然、彼女の頭上に飴が降っても可笑しくない状況にあるということだ。悪戯で彼女に向かって投げられたものであっても、誰かが適当に投げた飴が偶然当たったものであっても、多くの人に囲まれていれば容易にそのような状況になり得る。


 「次に四つ目の質問、飴はいくつ降ってきた?」


 すると彼女はおもむろにポケットをまさぐり、その拳を引き抜いて僕に向かって突きつける。僕はその手を取る代わりに、怪訝な表情で小首を傾げた。

 彼女はそのまま突き出した拳を百八十度ひねり、ゆっくりと花が開くように固めた指を解いて手のひらを見せる。そこに現れたのは一粒の飴だった。それも彼女が大好きな山田製菓のサワークリームキャンディ。青と白のストライプが清涼感を表現するビニールの包装紙。彼女がこの飴玉を好んで食べていたのはよく覚えている。だから、彼女がこれを手にしているのを見ていると、あの頃の姿を見ているような気分になる。本当はあれから十年も経つのに。


 「ひとつ……、ひとつだったよ」

 「傘にぶつかったのはその飴だったの?」

 「うん、たぶん」

 「たぶん…?」

 「ぶつかった時、足元に落ちてたのがこの飴だったの。本当にこの飴が傘にぶつかるところは見てない」


 彼女は寂しげな顔をする。


 「そっか、でもそれは仕方ないんじゃないかな。志保ちゃんは傘を差してたわけだし。こんなに小さい飴をしっかりと目で確認できるわけないよ」

 「でも、飴が傘にぶつかって、弾かれて、空を飛んで、落ちる。少なくともぶつかった瞬間落ちるところを見れたかもしれないのに、肝心なところを私は見てないの」

 「つまり、何かがぶつかって足元に飴が落ちてたから、その飴がぶつかったと思ったってわけだね」


 彼女は僕の言葉を受けて、顔に影を落とした。


 「この飴は大好きだったからいつも持ち歩いてた。その日はとお出掛けしてたし、きっとその日も持ってたと思う。弟もこの飴が大好きだったから、私、あの子にあげたの」


 飴が降るわけがない。ただその日は雨も降っていない。でも紫外線を遮るために、傘は差していた。


 「弟は何て?」

 「『お姉ちゃんありがとう』って…、笑ってた」


 その日は大勢の人間が集まっていて、彼女の傘に向かってが降ってきた。


 「よほどその飴が好きだったんだね」

 「うん。だってこの私の弟だから」


 は、彼女曰く白いサワーキャンディーで、傘に勢いよくぶつかってきた。その傘は本来は目に見えない光線を弾き返すためのもので、まさか質量を孕んだ何かがぶつかってくるなんて思いもしなかっただろう。


 「最後の質問、してもいい?」

 「…うん」


 彼女の危うげな両の瞳がいま一瞬、僕に焦点を絞った。


 息を吸い込むと肺が膨らんで、顔が微かに上下に揺れる。拳を静かに握ると、ブリキのおもちゃみたいに関節がきしきしと音を立てる。口の中で舌なめずりをすると、乾いた舌が口蓋をひっかいた。

 ここまで来て僕は緊張していた。次の質問で、真実に辿り着くことが分かってるからだ。飴が降ってきたと言い張る彼女のおちゃめな『思い違い』、その本当の事実が今明らかになる。きっと明らかになる。



 「最後の質問……、いくよ」

 「うん」


 いつでもどうぞ、と彼女は微笑む。


 「飴のほかに好きなもの…ある?」


 彼女はきょとんとした顔をして、何かを言いかける。しかし、それは僕の次の一言に掻き消された。


 「。弟はほかに好きなものあった?」


 彼女は一秒二秒と僕をじっと見つめて、一度口を結んでまた開いた。


 「あったよ」


 「それは何?」


 「あの子、


 「野球……ね」


 「うん。だからその日もあの子を連れて野球を見に行ったの。クラスメートの引退試合に、いつかあの子も同じようにグラウンドに立って欲しいと思って。一番輝いてるクラスメートの、最後の試合に連れてきたの」


 「志保ちゃん」


 「でね、私の憧れのクラスメートがバッターボックスに立ったの。弟と一緒に指差してその人に声援を送った。その人はいつも学校や公園で夜遅くまで練習してて、でもなかなかレギュラーに選ばれなかったのを知ってたから、私すごく嬉しかった」


 「志保ちゃん」


 「一球、二球、三球と……、気づけばツーストライクになっててその人は追い込まれていた。でも試合はすでに終盤で、打席もきっとそれが最後だったから―――」


 「志保ちゃんっ!!」


 「あ……、ごめんなさい、私……」


 「ごめん、大きな声出して」


 「いや、私こそごめん。今日はそういうつもりで来たわけじゃないの」


 「志保ちゃん、



 これで僕の野球人生が終わる―――そんな思いを抱えながらバッターボックスに立っていた。たかが中学三年生の引退試合で僕は追い込まれていた。でも僕にとっては、の試合ではない。親からは野球を続けるお金はおろか、学校に通わせるお金もないと言われ、進学しても野球ができなくなることは分かっていた。どうせプロにもなれないのなら、今日の引退試合を機に辞めてしまおうと心に決めていた。だから最後の打席が回ってきたこの瞬間、臆病になってしまった。


 鬼気迫るピッチャーの剛速球が何度も僕の体をかすめる。嫌なインコースをついてくる、素晴らしい制球力の持ち主だと思う。きっと彼はこのまま勝ち進んで、スカウトの目に留まって、強豪校に入学して、当たり前のように甲子園に出場して、ドラフト指名されプロになる。僕の行く未来さきにはない、栄光の大道だ。


 そう思ったら悔しくて……、このまま三振で終わるなら、この陰湿な気持ちを振り払って思い切り振ってやろうと思った。

 次、次、次だ。次に投げてくるボールがどんなボールであろうと、思い切り振ってやる。


 手握るグリップが汗ばんで、上手くバットが掴めない。でも死んでもバットは離さない。


 来る。

 

 ピッチャーの筋張った腕から汗が振り切り、鞭のようにしなる腕の先から、ボールが放たれる。さっきと同じ、インコース。もう一度バットを握り直し、体をひねる。スパイクでぐっと地面を踏み込んで、ひねったコンニャクが元に戻るみたいに、その反動でバットを振った。練習通りのスイング。ボールと自分の体との絶妙な距離。これなら……イケる。


 パヒォン、と聞きなれない打球音がグラウンドに響く。


 僕はどうやらとんでもない悪球に手を出してしまったらしい。ストライクゾーンから球何個分か外れたボール球の、そのを削るように打った。

 ファウルボールだ。ボールは左の方向にギュルギュルと高速回転しながら、観客席へと飛んでいった。


 そして。


 白い飴玉ボールが彼女の日傘に『ボンッ』とぶつかった。その時彼女は勢いよく飛んできたそれから身を守るように、咄嗟に傘を盾にしていた。ただボールの勢いは止まらずに、軌道を変えて、彼女の弟に…ぶつかってしまった。


 彼女の弟は帰らぬ人となった。



 「お医者さんが言ってたんだけど、人間の頭って豆腐みたいに柔らかいんだって。固い頭蓋骨が包んでくれてるから、普通に生活できてるらしいんだけど、子供のころはまだ頭蓋骨も固くなくて簡単に割れちゃうんだ……って」


 「そう……なんだね」

 

 目の前の惨事に彼女はパニックを起こし、重い記憶障害を患ってしまった。ただでさえ病弱な彼女が、心臓の内部から骨の髄まで魂が抜かれた姿は見るに堪えなかった。


 「あれから未来も現在も過去も全ての記憶が曖昧になって、何も思い出せなくなって、唯一思い出せたのは『白い飴』と『傘』だけ。傘を差す私に飴が降ってくるの。たったそれだけの記憶……、何度も何度もその記憶だけが私の脳内に押し寄せてきた」


 奥歯を噛み締めて、嫌な記憶を絞り出す。 


 「それでもリハビリを重ねていくうちに色々と思い出せるようになった。『野球の試合』『弟』……、白い野球ボールが私の傘にぶつかると、あの子の食べかけだった白いサワークリームの飴玉が転がってきて…、なあんだ、傘にぶつかったのはこの飴だったんだって何度も考えた」


 彼女は人差し指で、コロンと飴を弾く。


 「で、最後に『祐樹君』の顔が思い浮かんで全ての記憶が元に戻ったの」


 飴はコロコロと転がると、僕と彼女を隔てるガラスの壁にぶつかって高い音を響かせる。


 「そう……。それでわざわざこんな所まで来てくれたんだ」


 「うん。随分探したんだから…。まさかここまで来ることになるとは思わなかった」


 彼女はそこでようやく頬を緩ませると、思い立ったように袖を捲って腕時計を確認する。


 「どうしたの」


 「面会って何時までだっけ?」


 「外で見張ってる刑務官カカリが呼びに来るから、それまでは大丈夫だよ」


 

 彼女がこの十年の記憶をなくしていたように、僕自身の十年も失われていた。試合中の不慮の事故とは言え、幼い命が奪われてしまった。そんな加害者である僕に対する世間の風当たりは強かった。親戚や友人からの冷遇に耐えられず、ついに長らく住んでいた故郷を逃げ出した。しかし、僕の心を深く抉った傷は癒えず、世間からはみ出た行動を起こすことで一時的な快楽を得るようになった。窃盗、強盗、詐欺、違法薬品の売買など、あらゆる法を犯してきた。そして今、服役中にも関わらず、余罪として殺人罪の容疑を掛けられている。は実に面白かった。


 今日は、逆の立場になって彼女を問い詰めてみた。


 結果、彼女は自らの『思い違い』を認め、物語は真実にたどり着いた。


 でも、気持ちは分かるよ。その『思い違い』が現実となっていれば、良かったんだ。


 あの日、彼女の傘に降ってきたのが、白くて甘いサワークリーム味の飴玉だったら……良かったんだ。

 



( 飴と傘 終わり ) 


 




 

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