拙作『あの日夢見た魔法の旅を』を脱稿致しました。
(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885816940)
気付けば連載開始から二年もの歳月が経ち、この物語を書こうと思い立ったあの日の記憶は遠い思い出となりました。
しかし、作品に対する情熱と掛ける思いは更新する度、回を追う毎に、並々ならぬものとなっていきました。呼吸を続ける作品の息を止めまいと、どうか完結までは書き続けたいという熱意が込み上げてきたのです。
勿論「良い」作品を書きたいと思う気持ちはありました。誰かの心の琴線に触れるような素晴らしい作品を書きたい。そういう思いはありました。しかし、それ以上に、決して中途半端に筆を折るまいという思いの方が強くなったのです。
継続は力なり。とにかく書き続けました。
そうするうち次第に、作品と「真剣に」向き合うようになりました。知らない言葉は調べて使う、曖昧な描写はせずに本物の資料文献によって正しく描く、難解な言葉より平易な言葉を選ぶ……、小説に限らず文章を書く上で大事なことを少しずつ学ぶようになりました。いま作品を読み返すと、そのわずかな推移が見て取れるのが分かります。
多くの誰かに読まれずとも、執筆の中で自分の「成長」を感じられる時間がとても楽しくなりました。
しかし、その思いも少しずつ形を変えていきます。
ある時ふと気付いたのです。どうも自分の思うような文章が書けない。躍動感のある活き活きとしたシーン、状況を整理するための説明口調の台詞……、それらを物語に上手く当てはめられず何度も匙を投げそうになりました。追求すればするほど、文章がうまく組み立てられない。
それでも妥協せず向き合います。
毎週の繰り返しの中から、筆が乗るのは朝の六時から昼の十二時の間と心得ていたので、週末はその時間に合わせて睡眠と起床のリズムを作るようにし、効率よく、かつ辛抱強く続けてきました。
それはもはや「成長」に喜びを感じる活動ではなく、「生活」そのものとして形を変えていたことに私は驚きました。
「アイデア先行、見切り発車」で書き始めていたあの頃とは何かが変わりつつある――それを実感するようになりました。
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ただそれでも「良い」作品が書けるかどうかは別のお話。
本作において、主観的に見ても、改善すべき点は沢山あります。
そのうち一つを挙げるとすれば、「大風呂敷を広げすぎたこと」。
ミステリー小説は、読者の注意を引くため、様々な伏線を張って読者に興奮と驚きを与えます。引っ張れば引っ張るほど、読者の期待値は高まり、意外性があればあるほど、読者に強烈な印象を残すことができます。
数は多すぎても少なすぎてもいけません。いい塩梅を保つことが良い物語を書く秘訣、なのですが――それを全く理解していなかった私は徒に登場人物の発言に含みを持たせ、遂には整合性を保つために物語の一部を冗長な表現で描かなければならなくなりました。簡単に言えば、『蛇足』です。
そこで私は執筆中にも関わらず、初めて「プロット」を書くことにしました。散々に広げた伏線を回収するため、すっきり読めるような形に設計しました。
しかし「終わり良ければすべて良し」といかないのがミステリーの肝、真実を明かすまでの過程がしっかりしていなければ、突然「了」と言われても腑に落ちないものです。
その他、基本的な文章作りや物語を書く上で大事な表現技法などが欠如していたせいで、自分のイメージと少し違う作品になってしまいました。元よりこれほど長い作品を書くつもりはありませんでしたのでーー脱稿時37万字、文庫や新書は約12万字程度なので三冊書いた計算になる(!)ーーその計画性の無さが伺えます。
ただ先に書いたように、この作品は自分の「生活」の一部になっていたため、途中で止める訳にも行かず、私はひたすら書き続けることになりました。
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「生活」の一部になっていたことは作品を読み返してみても、その様子がつぶさに感じ取られます。
面白いのは、当時抱いていた自分の強い思いが登場人物の発言に現れていることです。
例えば、登場人物の一人、「別府京志郎」が就活に追われ、生き悩んでいる場面。当時、この草案を書いたのは自分がまだ社会人になる前の頃のことで、「別府京志郎」には当時の自分の葛藤や懊悩が投影されていました。
まだまだ若輩者ではありますが、いまそれを読み返してみると「そんな大げさなことを」と鼻に掛けたくなります。しかし、等身大の大学生からしてみれば、就職するか進学するかは死活問題で、人生を左右する大事な選択でもあります。
微かな心の機微をいまの自分が描けるか。自信がありません。しかし、その迷いの中で「これだ」と思える表現を見つけて、物語を密に紡ぐことが出来た時、何にも代えがたい至福を見出していることに気付きました。
それは自分の「生活」が「物語」の中に生きているからです。
「生活」の中を過ぎ去る些細な情景が「物語」の中に残り続けるからです。
それはもう「日記」と言ってもいいかもしれません。自分はありのままの自分を表現するためのツールに小説を選んでいる。この二年で自分の執筆活動をそう捉えるようになりました。
その証拠にツイッターの紹介文。当初は『人をアッと驚かせるような作品を書きたい』としていたのですが、今では長らく『趣味で小説を書いています』とするだけに留めてあります。
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では、次に「これから」の話。
執筆活動を「生活」の一部としながらも、この二年の間に様々な出会いがありました。小説を置いて先に優先したい活動も増えてきました(とは言うものの全く無関係な活動ではないので、計画が形になれば公表できればと思います)。
しかし、やはり「生活」は「生活」です。当たり前の日常を過ごすように、平穏無事に暮らせればそれに越したことはありません。
なので、また一つ、同じようなペースで新たな作品を書いていきます。そして今回の経験を踏まえ、長編はなるべく週二回ペース。短編は週一回というような形に出来ればと思います。
書き溜めた短編や、書き残しの作品がありますのでそちらにも手を付けつつ――。
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最後になりますが、数少ない読者の方々にお礼申し上げます。
本作の執筆活動を通して、先には「成長」や「生活」などと述べましたが、それは全て読者の方々が読んでくださるからこその上に立つものです。
それを差し置いて自己満足の為に書いているなどおこがましい限りです。筆者はやはり沢山の読者に読んで欲しいと思っています。例え一人でもいてくれればという思いで書いています。
応援頂いた皆様、本当にありがとうございました。
そして、お名前を出して申し訳ありませんが――この二年を支えていただいたと言っても過言ではない、草野なつめ先生(!)には深く感謝申し上げます。
拙い文章にも関わらず、毎週欠かさず応援いただきありがとうございました。
大変、励みになりました。
また草野さんの続編が読める日を指折り数えてお待ちしています。
長文にて失礼いたしました。
今後とも小生並びに拙作をどうぞよろしくお願いします。
白地