焔暁生の炎の半生

戸松秋茄子

本編

 君の半生は炎のように壮絶だった。


 僕の名前はほむら暁生あきお。もう一人の君。本当の君だ。


 僕は僕が知る君の半生を語ろうと思う。


   ※※※ ※※※


  炎。


 「はじめに言葉ありき」とは聖書の有名な一節だが、君の人生にはまず炎があった。


 四歳のときだった。売れないバンドのボーカルが君の家に火をつけた。


 両親が死んだ。君は搬送先の病院で奇跡的に一命を取り留めた。人間は皮膚の半分以上が焼けると死のリスクがある。君もかなり危ない状態だった。それは君の体に残った火傷の痕を見れば、十分察しがつく。


 放火の罪は重い。「何かが燃えるのを見たかった。新曲のインスピレーションがほしかった」と供述したそのミュージシャンはその後、覚醒剤の使用による心神耗弱を主張して上告審まで粘ったものの死刑判決を覆すには至らず、その四年後に絞首台の露と消えた。


 火事は長い時間をかけて三人の命を奪い、君の身体に一生ものの傷を残した。


   ※※※ ※※※ 


 火傷の治療は一回の手術で「はい、終わり」とはいかなかった。手術とリハビリは相当に過酷なものだった。およそ一年半にも渡る入院生活の間、君は毎日のように泣き叫んでいたという。


 幸いなことに、君はもうそのときのことをほとんど覚えていない。焼け爛れた皮膚に張り付いたガーゼを剥がす苦痛も、固まりかけた手の関節を無理やり動かす苦痛も記憶の底に沈殿してしまった。


 かわいそうな子。


 両親の知人、同僚、親戚らは口を揃えて言ったそうだ。けれど、顔の大部分を醜い火傷に覆われた子供を引き取ろうという気概のある大人はいなかった。母方の叔父というただ一人の例外を除いて。


   ※※※ ※※※ 


 叔父はハリウッドで活躍する特殊メイクアーティストだった。 それはもう天才的な腕前だったらしい。魔術師。そんな風に呼ばれたとも聞いた。誰もが知っているような大作映画にも数多く参加してきた。叔父の手にかかれば、ハンサムな男優もしわくちゃの老人になり、当代きっての美女も醜悪なエイリアンに変貌した。それが君を引き取るため日本に取って返してきた。


「アメリカで育てればいいじゃないか」


 叔父の才能に惚れ込んだ某大物監督はそう引き止めたという。


「俺はあんたらの国が好きだ。車が爆発して、アホみたいに銃をぶっ放して、宇宙人とドンパチを繰り広げる映画が好きだ。ああ、すばらしい国さ。コーラもハンバーガーもでかい。だが、子供は生まれた国で育つべきだ」


 剛毅な叔父だった。成長して叔父からその話を聞いたとき、君はその映画監督が刺客を雇って自分を消しにかかるのではないかと本気で恐怖した。


 ともあれ、君は火事で死ぬことを免れ、また孤児になることを免れた。それだけでも十分に幸福と言えるのではないだろうか。君はそう思っている。


   ※※※ ※※※ 


「忘れてしまえ」


 叔父は言った。叔父は君に普通の子供として育つことを望んだ。火事の記憶、火傷の痕。そんなものは忘れてしまえと。


 退院してすぐのことだ。叔父は君の写真――もちろん、火事の前のものだ――を参考に、火傷を覆い隠すためのマスクを作ってくれた。


 叔父の腕をもってしても、マスクの着脱には相当な時間がかかった。


 まず、顔に医療用の接着剤を塗る。途中で顔がかゆくなってもかけないから厄介だ。そして、マスクを部分ごとに装着していく。まずは鼻、それから額、頬……


 マスクはただ貼り付けて終わりではない。貼り付けるごとに、マスクの材質が浮かないように肌とマスクの継ぎ目や、マスクそのものにメイクを施す必要があるのだ。君はその間じっと我慢する。叔父さんの骨っぽい手にされるがままじっと。


「おとなしい子だ」


 よくそう言われた。実際、じっとしているのは苦ではなかった。


「終わったぞ」


 鏡を見たとき、思わず感動した。それは確かに以前どおりの君の顔で、叔父さんも懇親の出来とばかり誇らしげに笑っていた。そのときの君は、叔父さんの腕を素直に尊敬した。


 新しい顔。それが叔父からの最初のプレゼントだった。


   ※※※ ※※※ 


 新たな人生が始まった。新たな顔。新たな家。新たな苗字。そして小学校という新たな環境。


 入学してから数ヶ月が経っても、マスクや火傷のことに気づく同級生はいなかった。子供だから、時には激しく動き回る。けれど、叔父特製のマスクはそう簡単には外れなかった。ラテックス製のマスクは通気性がよく、汗をかいてもむれにくかった。


 けれど、それも程度問題だった。


 ある日、同級生の男の子とけんかになった。背の高いそいつは君の頬を思い切り引っ張った。まずい。そう思ったときにはもう遅かった。ベリベリといやな音がしてマスクが外れるのをただ見ているしかできなかった。


 悲鳴。


 君には見慣れた顔でも、まだ幼い同級生たちにはショッキングな映像だったらしい。女の子は倒れ、マスクを剥ぎ取った男の子は真っ青な顔になってしりもちをついた。


 君はそのときのことをよく覚えている。男の子の手に握られたままのマスクを見て、「ああ、しわにならないかな」と場違いな心配をしたことをよく覚えている。


 それからは針のむしろだ。誰もが君を恐れ、気味悪がる。間もなくしてその学校には行かなくなった。


   ※※※ ※※※ 


 焼け爛れた顔。


 どういうわけか、君はそんな自分の顔を見るのが嫌いではなかった。


 鏡を見ながらいつも思っていた――人はどうして自分の顔に嫌悪感を抱くのだろう。


 君にとって、他人の顔はすべて自分の顔と同じ作り物のような感じがした。鏡に映る顔、ケロイドに覆われた顔だけが唯一確かなものに思えた。


 しかし、そんな君の美意識は理解されない。そのくらいのことは幼い君にも分かっていた。あの日、マスクを剥がされたときの恐怖、疎外感を君はいまも忘れない。


 素顔は隠さなければならない。


 その教訓が君の中で根を張りつつあった。


   ※※※ ※※※ 


「新しい接着剤が開発されたんだ。懇意にしてる業者のツテでいち早く手に入れた」


 外界との接触を絶って数週間後のことだ。剛毅な叔父にしては珍しく、君の顔色を伺うように言った。


「今度は簡単に剥がれないぞ」


 君は叔父にマスクをつけることを許した。いずれにしても部屋でじっとしているだけだったから。


 それから、また覆面の生活が再開した。叔父は何かと君を外に連れ出したがった。まるで、マスクをつける機会を増やそうとしているみたいに。叔父はますます腕を磨いていった。マスクの着脱にかかる時間は確実に短くなっていった。


 学校での一件は君の心に他人への恐怖を植えつけた。マスクをつけて出歩いていると、またばれるのではないかという不安でたちまち泣き出したくなった。


 透明人間になりたい――いつもそう思っていた。


   ※※※ ※※※ 

  

 転校してすぐに愛想笑いというものを身につけた。笑顔は人間関係を円滑にする。それが「透明」になるには最も手っ取り早い方法だと気づいたのだ。


 素顔と接着剤で固定されたマスクは、表情筋の動きにも柔軟に対応する。君は内心では追いはぎに相対するような恐怖を感じながらも表向きはニコニコと愛想よく振舞った。おかげで人並みに友達を持つこともできた。


 とはいえ、おおっぴらに感情を表現するのはやはりためらわれた。自然、表情の乏しい子供になっていく。運動も喧嘩も厭った。顔以外の火傷を見られないように体育の時間はすべて休んだ。


 おとなしい奴。シャイな奴。目立たない奴。それが君のキャラクターだった。君が望んで演出したキャラクターだった。透明人間にはなれなくても、いてもいなくても同じ存在になるのはそう難しいことではなかった。


 君はいつだって人の輪の中にいた。それと同時にどこにもいなかった。


   ※※※ ※※※ 


 一人でいる方が落ち着くのは、いまも昔も変わらなかった。君は友達と遊ぶよりも家で絵を描き、本を読むことを好んだ。友達からの誘いがあれば、むげにはしない。けれど、内心ではいつも怯えていた。本当はみんな気づかないふりをしているだけではないのか。そうして、陰では自分を笑っているのではないか。そんな不安があった。教室のどこかで笑い声が上がると、自分のことを笑っているのではないかと恐怖した。


「おい、あいつばれてないと思ってるぜ」


「馬鹿だよな。あんな化け物がいたら気づかないはずがないのに」


 そんな声が聞こえる気がした。君は人が集まる場所を恐れた。


   ※※※ ※※※ 


 あれは君が五年生のときだった。図書室で東京大空襲の被害を記録した写真集を見つけた。そこに広がる世界は、君を長い眠りから叩き起こす一撃だった。


 無数の瓦礫。


 枯れ木のように突っ立つ柱。


 爆撃によって平野と化した街並み。


 そして、無数に折り重なった焼死体――かつて、人だったもの。


 それはとても美しかった。


 君は食い入るようにその本を眺め、堪能した。あの時、図書室に他に人がいなかったのは幸いだと思う。あんな光景はとうてい同級生には見せられない。


「おい、探したぞ。どこ行ってたんだ?」


 君は適当にごまかす。図書室に行っていたと答えるのはなんとなく躊躇われた。普通の子供は活字ばかりの本なんて読まない。普通でないことはすなわち恐怖だ。「透明」でいられなくなる。


   ※※※ ※※※ 


 君は焼死体の絵を描くようになった。一面の焼け野原を背景に、黒々とした人型の物体を転がした。


 焼死体を表現するのは難しかった。ただ真っ黒に塗り潰すだけでは味がない。人間の肌がいかに焼けるのか、自分の顔も参考にしながら表現を磨いていった。


 それが君の素顔と同様、異常なものであることは分かっていた。だから、そうした絵は誰にも見せなかった。


 教室にいる君と家にいる君。


 マスクをつけた君と素顔の君。


 愛想よく笑って友達の話に相槌を打つ君と、焼死体の写真をうっとりと眺める君。


 まるで自分が二人いるようだった。


 君は真っ二つに分裂していた。

 

   ※※※ ※※※ 


「子供は成長が早いな」


 叔父はよくそうこぼしていた。いつまでも同じ顔の子供がいたら不審を招いてしまう。長期休暇のタイミングに合わせて新たにマスクを作る必要があった。新しいマスクを作ってからしばらくの間、君はなるたけ人と会わないよう努めなければならなかった。


 子供の成長なんて誰にも予想することはできない。


 いつ、どれだけ身長が伸びるのか。


 第二次性徴を迎えるのはいつか。


 誰にも分からない。そして、それは顔にも同じことが言える。叔父は自分の裁量で君の顔をデザインする必要があった。


「最近、姉さんに似てきたんじゃないか?」


 ある時期を境に、叔父はよくそんなことを言うようになった。


「叔父さんがそういう風に作ったんでしょ」


「違う違う。マスクの下の話だ」


「あんなでも似てるって分かるの?」


「俺は専門家だぞ。骨格からだいたいのイメージはできる。うん、お前は子供の頃の姉さんにそっくりだよ。だからマスクも自然とそうなるんだ」


   ※※※ ※※※ 


 それにしたって――君は思う。叔父が作るマスクは女性的すぎた。


 君は鏡を見ながらいつも首をかしげていた。これが自分の顔なのだと言われても実感がなかった。おかしな表現になるけれど、まるで覆面をかぶっているような気分だった。


 君の困惑をよそに叔父のマスクは人気を集めた。


 思春期に差し掛かると、中性的な容貌は女の子たちの目線を惹いた。小学校で一緒だった女の子に告白された。話したこともないような女の子に告白された。同級生の男たちからは羨望の目を向けられた。


 恋愛。


 それはひっそりと君の生活に忍び込んできた。


「どんな子が好み?」


 そう訊かれる度に適当な歌手やアイドルの名前を挙げてごまかすのは君にとって屈辱でしかなかった。


 君にとって生きている人間ほど醜いものはなかった。ころころと変わる表情が鬱陶しい。声の抑揚が鬱陶しい。


 それに比べて焼死体のなんと美しいことか。焼死体は表情も変わらなければ、声も発しない。ただ静かにそこに転がっているだけだ。男も女も区別なく。その慎ましさが君を魅了した。


   ※※※ ※※※ 


「きれい」


 君の顔をそう褒める女の子がいた。一方で、焼死体の写真を見せても、そう言ってくれる子は一人もいなかった。


「怖い」


「グロい」


「気持ち悪い」


 彼女たちの何気ない言葉が、ナイフのように君の心をえぐった。


「それより映画行かない?」


 女の子たちは能天気なものだった。いっそ、自分の素顔を見せてやろうか。そんな気になる。


   ※※※ ※※※ 


 愛想笑いの毎日。


 覆面の生活。


 分裂した自己。


 君はすっかり嫌気がさしてしまった。マスクを脱ぎ捨てたい。ありのままの自分でいたい。その欲求はかつてないほど強くなっていた。


 叔父には口が避けても言えないけれど、マスクは君が捨て去りたい生活の象徴だった。


 君はマスクに名前をつけた。君の戸籍上の名前をそのまま与えた。そのかわり、本当の自分のために新しい名前を作った。


 焔暁生。


 これが本当の自分。


 本当の


 ノートの隅に書いては、見られてはいけないと消した。


   ※※※ ※※※ 


 高校は家から離れた学校を受験した。通学に時間がかかっても、知り合いがいない環境に身を置きたかった。高校からはもう愛想笑いをやめようと思っていた。そうすればきっと少しは楽になる。息苦しさを覚えずに生活できる。そう思ったのだ。


 春休み、いつも通りマスクを新調することになった。


「どうだ、何か注文はあるか。新しい環境だからな。ちょっとくらい顔が変わっても不審には思われないだろう」


 叔父さんは機嫌よく言った。けれど、君が注文を口にするとたちまち訝しげになり、「本当にいいのか」と繰り返し尋ねてきた。


 自分の注文が奇異なものであることは分かっていた。けれど、引き下がるつもりはなかった。君は叔父を説得して新しいマスクを作らせた。それは、右頬に火傷のメイクが施されたものだった。


   ※※※ ※※※ 


 新しい顔は君が思ったとおりの効果をもたらした。


 入学式の日、君に話しかけてくる同級生は一人もいなかった。まるで自分の周りに見えないバリアが張られたようだった。最初からこうすればよかった。そんなことを思う。


 しかし、その効果も絶対ではなかった。入学して一週間も経つと、君に話しかけてくる連中がちらほらと現れてくる。


 君はそっけなく応対した。連絡先を訊かれれば適当な文字列をでっちあげ、遊びに誘われれば「忙しいから」の一言で切って捨てた。


 あいつには何を話しかけてもまともな返事は返ってこない――そう思われればこっちのものだと思った。君は一人でいられる。無表情でいられる。自分だけの美しい世界を愛でて生きていける。そう思った。バリアが完全なものとなる日を君はじっと待っていた。


 火傷のことは誰も訊いてこなかった。きっとみんな気になっているだろうに、何を我慢しているんだろう。そんなことを思う。実際、教室を一歩出れば、君の顔は注目の的だ。談笑していた同級生たちが話すのをぴたりとやめて固まるのを何度も見てきた。


 楽でいい。


 そう思った。余計なことを話さなくてすむ、と。自分はついに透明になれたのだと。なのに、なぜだろう。君はとても空虚な気分になった。まるで、自分の心までもが透明になってしまったようだった。


   ※※※ ※※※ 


「その火傷、かっこいいっすね」


 ある日、隣のクラスの女が話しかけてきた。妙な喋り方をする女だった。わざわざ乗り込んできて無神経な奴だと思った。


「触っていいっすか?」


 そんなことを訊かれたこともある。君は呆気にとられてしまった。それが表情にも出ていたのだろう。


「あ、そんな顔もするんすね。発見発見」


 彼女はそう言って口の端をわずかに吊り上げて笑った。


 君の心がわずかに動いた。


 ある日のことだ。君は学校に戦争の写真集を持ち込んだ。


 クラスメイトはみな眉をひそめた。あいつはやばい奴だ――教室中の目線がそう言っていた。


 君は思った――彼女だってきっとこれを見たら気味悪く思うに違いない。


 彼女はいつも通り姿を現した。


「どう思う?」


 君は写真集を広げて訊いた。彼女は答えた。


「君の火傷と同じくらいきれいっす」

 

   ※※※ ※※※ 


 変わった奴だった。休日はゴスロリで出歩いた。でも、恋愛に求めるものは至ってノーマルだった。


「キスしていいっすか?」


 こういうとき、男は断ってはいけないのだろう。君は思う。けれど、他人と肌を触れ合わせることは君にとって素顔を見られるのと同様に恐怖でしかなかった。キスに限らず、彼女が何かと触れようとしてくるのを君は婉曲な言い回しで避けなければならなかった。


「前々から思ってたんすけど、××君って潔癖症っすか?」


 ある日、彼女が言った。「そうだ」と答えれば、そういうことにしておいてやってもいい。そう言っているように聞こえた。君はその言葉に甘えた。


「そうかもね」


 君はすっかり怯えていた。マスクの火傷を「かっこいい」と言う彼女でも、君の素顔を見れば飛んで逃げ出してしまうかもしれない。そんな不安が腹の底で燻っていた。


   ※※※ ※※※ 


 彼女と出かける以外は家にこもって絵を描くか、叔父の指導を受けながら特殊メイクの勉強をした。特殊メイクの技術は、君が理想とするものを表現するのに、絵よりもずっと都合がよかった。


 つまり、火傷を。


 叔父さんは仕事の合間を縫って、指導の時間を作ってくれた。


「さすが俺の甥だけあるな」


 そう褒められると、悪い気がしない。君は火傷の表現を磨いていった。そんなあるとき思いついた。


   ※※※ ※※※ 


「プレゼントって何すか?」


 ある日、彼女を家に招いた。君はあえて多くを語らず、ただ彼女に座るよう指示した。


「時間がかかるけどじっとしてて」


 君は作業を始めた。はじめてマスクを作ってもらったときのことを思い出していた。あのときの自分はどんな気持ちで椅子に座っていたのだろう。あのときはまだ覆面の生活を知らなかった。もう一人の自分を知らなかった。ただ純粋にわくわくしていたと思う。クリスマスの夜のように。プレゼントを待つ子供のように。


「できた」


 彼女が目を開いた。驚いた顔。彼女の右頬には焼け爛れた痕があった。


「すごいっす。これ全部君が?」


「ああ」


 彼女は半ば呆然と鏡を覗き込んでいた。


「なんていうか、本当の自分に出会えた気分っす」


 そのときの誇らしい気持ちを、君は忘れない。マスクはただ素顔を覆い隠すだけじゃない。本当の自分に近づく手段でもあるのだ。そう思った。

 

   ※※※ ※※※ 


 浮かれたのがいけなかった。


 君の腕ではマスクの着脱にも時間がかかる。翌日が休日ということもあって、彼女はマスクをつけたまま家に帰った。そして、親に雷を落とされた。


 あいつは自分の家のことを話したがらなかった。だから、彼女の両親が教師であることを知ったのもそのときが初めてだった。


「ごめんっす。無理やり剥がされて……こっそり部屋まで上がるつもりだったんすけどね。失敗したっす」


「うちの親、馬鹿なんすよ……ファッションの趣味とかもホント理解がなくて……ああ、この口調もばれたらなんていわれるか分かったもんじゃないっすね。あはは……」


「もう電話もできないかもしれないっす。まあ、忘れてくれていいっすよ」


   ※※※ ※※※ 


 君はまた一人になった。彼女が転校したことで、交際相手の君には悪い噂が付きまとうようになった。


 奇妙な奴だ。危ない奴だ。そう思われるのはかまわなかった。けれど、あからさまな悪意を向けられてなおその場にとどまるのはそれだけ世の中に未練があるみたいで君のプライドが許さなかった。


 ふざけるな。こんな世界はこっちから願い下げだ。


 そう思った君は登校するのをやめた。マスクもつけない。一日、素顔ですごした。何もかも忘れたいと思った。学校もマスクも名前も何もかも。


 ある日のことだ。テレビを見ていると、自分と同年代の少年が母親を殺したというニュースが流れていた。


「テロや戦争があればいいと思った」


 少年はそう供述しているという。君も同じことを思った。そうだ、この国がもう一度焦土と化せばいい。もっと多くの人がこの世界の美しさに気づけるように。


   ※※※ ※※※ 


 自転車のペダルを漕ぐ足は軽かった。高級住宅が並ぶ坂道を登るのも苦にならなかった。ガソリンが詰まったタンクだってちっとも重くない。それは君にとって高みに飛び立つ翼だった。


 マスクをつけてこなかったから? きっとそうだろう。あの薄いマスクでも、自分にはずっと重みだったのだ。いまの自分は焔暁生だ。煩わしいマスクを脱ぎ捨てた本当の自分だ。ああ、素肌で直に夜風を受けるのはいったい何年ぶりだろう。


 寝静まった住宅街。


 自転車を停める。


 白塗りの玄関にガソリンをまきながら思った。


 彼女が自分と同じになればいい。


 本当の自分を取り戻せばいい。


 そのとき、はきっとはじめて彼女に素顔を晒すだろう。


 いつかマスクをプレゼントしたときよりももっと誇らしげな表情で彼女の前に立つだろう。


 はじめに炎ありき――


 君は祈るような気持ちでライターの火を点けた。

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