6 えびふりゃーと幽霊

「――それで、『彼女』は消えていったのね」

 鳴花の言葉に、ぼくは頷く。

 午後の授業も終わり、放課後の部室である。

 日が落ちるのは少し早くなってきたけれど、まだまだ夕焼けが部室に差し込んでくるような時期じゃない。開け放した窓からは、サッカー部なんかの威勢の良い掛け声が入り込んでくる。

 鳴花は物憂げな眼差しをして、足を組み替えた。

「それにしても、部長として不甲斐ないわ。……あれしきのことで気絶してしまうだなんて、流石に自信を失うわね」

「いやいや、あれはイレギュラーだったし、どう考えても学問の埒外の話じゃん。ぼくだってまさか、本当に意識だけで存在できるなんて、実際に体験するまで信じてなかったよ。仕方ないさ」

「え? ……あぁ、そういうことじゃなくて」

「ん?」

「ちょっと怖すぎて気絶しちゃったというか」

 …………。

 あれで怖がってたのか……!?

 自分から近付いていったじゃないか!

「幽霊の、……失礼、意識の独立を目にするまでは良かったのだけど、エビフライが空を飛んだらもうダメね。キャパオーバー」

「きみの怖さの基準が分からない……」

「『十三日の金曜日』までならセーフだけど、『呪怨』は無理」

「その二つは怖さの種類が違くない?」

 まぁとにかく、と鳴花は椅子から立ち上がる。

「何にしても、勉強になったわ。……あたしもまだまだ未熟ってことね」

「いやあれは誰でも気絶するよ」

「でも、悠は違った」

 鳴花はつかつかとこちらに歩み寄ってくると、座っているぼくの顔を覗き込むように屈み込む。……だから近いんだって。

 そして囁くように。

「理解を超えた現象にも立ち向かい、見事に佐奈を助け出したわ」

「…………」

「何かご褒美、欲しい?」

「…………!!」

 何だろう、このシチュエーション。

 放課後の教室で女の子から「ご褒美」の提案。……

 待て待て待て。相手は鳴花だぞ? 後々何を要求されるか分かったもんじゃない。……まぁでも、くれるというならもらっておくのはやぶさかじゃないので、これといった抵抗はするつもりもないけどさ!

 おみ足で踏まれるも、

 平手で打たれるも、

 何でも御座れだ。

 お願いします。

 果たして鳴花はそのままの体勢でゆっくり顔を近づけてくると、吐息まで感じられる距離で瞳を合わせてくる。――まさかチューか? チューなのか? いやいやいや、それは何と言うか何かの一線を越えてしまいかねない空気があるけれど、まぁでもご褒美ならもらわないと損というものだろう。

 ばっくんばっくん波打つ心音が聞こえませんようにと願いながら、できるだけクールな表情を装って見つめ返す。すると鳴花は視線を外し、ゆっくりとぼくの耳元へ顔を寄せ始めた。――まさか「はむっ」か?「はむっ」なのか? それはぼくのエビフライにダイレクトアタックするけれど、果たしてぼくは理性を保つことができるのか? ……

 やがて鳴花は口を開くと、

「……そう言えば、佐奈の胸は柔らかかったかしら?」

 と言った。

 とてもドスの利いた声音だった。

 血の気が凍る思いがした。

「なん、で。知ってる……?」

 冷や汗がどっと溢れ出す。

「途中から起きてたからとかじゃない?」

「具体的には、いつから……」

「『是非』のあたりから」

 ……一番まずいところを聞かれていた。

 て言うかそれだと、ほとんど気絶してないじゃないか!

「一瞬気が遠くなっただけだったからね」

 名残惜しげな様子など微塵も残さず、鳴花はすっと身を退く。「今回は許すけど、次あんな風に佐奈を扱えば……どうなるか分かってる?」

「肝に銘じておきます」

 サー、イエッサー。

 もう二度と邪念は持ちません、絶対に。

 ならよし、と鳴花は踵を返し、元々座っていた席に戻っていく。……一応許してくれたところを見るに、今回の行い、全体的には評価してもらえてるってことでいいんだろうか。

 単行本を開きながら、鳴花は何気ない口振りで言う。――J・P・サルトル『実存主義とは何か』。

「ところで悠」

「はい鳴花様」

「『彼女』への言葉、あれ論破と言うよりは説得よね」

「…………」

 うぐぅ。

「社会が成り立たなくなるとか云々言っていたけれど、そもそも今の『彼女』が社会に属してない以上、あまり意味のない理屈だと言えるし」

 あふん。

「大体、『彼女』が人間であるかどうかなんて、わざわざ現象学的還元を使わなくてもすぐに分かることじゃない」

 ぎにゃあ。

「……佐奈を助けたことだし、結果オーライってことで評価はするけど、論理は甘々よ、悠」

 くそう、自分は狸寝入りに徹していたくせに。……ぼくに対してはやけに評価が厳しいなぁ、おい!

 でも。

 とりあえず解決はしたのだし、鳴花の言う通り全ては結果オーライなのだ。

 終わりよければ全て良し、と言ってもいい。なんだかんだで、鳴花も佐奈ちゃんも『彼女』でさえも、きっと誰一人不幸にはなっていないのだから。

 窓の外、抜けるような青空を見上げる。

 ……今回の話は、こんなところでどうだろうか。




 哲学――知を愛する学問。フィロソフィア。

 おそらく人類最初の学問であるそれは、手を変え品を変え、今現在も続いている。

 科学の発展によって時に否定され時に肯定され、新たな概念の発見によって膨れ上がったり萎んだり。何それおいしいの? と言われ続けて幾星霜、それでも懲りずに最先端を原初を益体もなくひた走る。

 そう、哲学とは人類が生まれ持った性なのだ。だからこそ、意味がないと分かっていても魅了される人間は後を絶たない。

 これはそんなぼくたちの話。

 哲学研究部、略してフィロ部のお話。

「……あ、そう言えばさ」

 ふと思い出して、口にする。「佐奈ちゃんの食べてたエビフライって――」

「ひっ」

 鳴花は座ったままびくりと跳び上がると、やたら俊敏な動きで椅子の後ろに体を隠す。あまりの素早さにぼくまで驚いたくらいだ。

 しかし鳴花の動揺はぼくのと比ぶべくもなく、背もたれを両手で掴みながら、おそるおそるこちらの様子を窺い始める始末である。初めて見る態度だった。

 何その動き?

 猫なのかな?

「……。『彼女』にも味がしたのかな、って思ったんだけど……」

「やぁ……えびふらい、やぁ……」

「…………」

 涙目だった。

 そんなに怖かったのだろうか。



 ※


 因みに佐奈ちゃんは取り憑かれた疲れからか、その後一週間、筋肉痛に悩まされたそうだ。

 ……本当に何もしていないのに、不憫な子である。

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フィロソフィ・ゴースト ~Philosophy Ghost~ 瀬海(せうみ) @Eugene

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