5 冷静と情熱のありか

 エトムント・フッサール。

 現象学と言われる学問の開祖である。

 鳴花じゃないのでしっかりとした説明はできないけれど――現象学とはつまり、「どういったメカニズムで『それ』が存在しているのか」を明らかにしようという学問だ。

 その手法の段階は大きく分けて二つ。

 一つ目は「判断停止」――目の前に「それ」が本当にあるのかどうか、安易な判断を下さずに一旦留保する。今回ならば、幽霊が本当にいるのかどうか、判断を下さずに留保するということになる。

 二つ目は「還元」――どういった理由で「それ」がそこにあると思うのか、「それ」があるという確信はどのように構成されているのか、そのメカニズムを洗い出す。今回ならば、どうして幽霊がいると思うのかを洗い出すということだ。

 材料はそこそこ。

 幽霊は喋った。

 佐奈ちゃんの体で。

 そして、そのことに慣れている。

 でなけりゃ普通、スムーズに言葉を発することはできないだろう。もしも狐や狸が佐奈ちゃんに取り憑いているのなら、こうはいかない。自転車だって、小さい頃に必死で練習して乗れるようになるものだ。

 そこから何が言えるのか――簡単だ。

「きみは――人間だ。人間だからこそ、幽霊として存在している」

 生きているか、死んでいるかの違いはあるにせよ。

 彼/彼女が人間であることに、ぼくは疑いを挟まない。

『な、にを』

「『テセウスの船』って知ってる?」

 たじろいだ幽霊に向かい、ぼくは畳みかける。

「――ある船のマストが壊れて、持ち主はそれを取り替えた。次には甲板が傷んで、持ち主はそれを張り直した。そんな調子で次から次へと部品を取り替えていくと、船にはいつの間にか一つも元の部品がなくなってしまった。これは最初の船と同じだと言えるかな? ……ぼくは言えると思うんだ」

 だって、それが持ち主の船であることには変わりないのだから。

 テセウスの船は、いつまで経ってもテセウスの船だ。

「同じ事は人間についても言えるよね――この腕はぼくの腕だけれど、この腕がぼく自身なわけじゃない。この髪も、この心臓も、ぼくだけれど決してぼく自身じゃない。ぼくがぼくであるという理由は、人間が人間である理由は、『ぼくはぼくだ』って考えるこの意識にある」

 我思う、故に我在り。

 だからどれだけ部品を取り替えても、意識がある限りぼくはぼくで、

 人間は――人間だ。

「だから、意識ある限りきみは人間だ」

 断言すると、幽霊は凍り付く。

 そして。

「人間には、やってはいけないことがある」

『う』

「人間であるなら、他人の意識を乗っ取ってはいけないんだ。自由を奪ってはいけないんだ。……誰もがそうしていたら、社会が成り立たなくなるからね。その意味できみの行為は、全人類に対して責任を負わなければならない――人間であるなら!」

『う、う』

 ぼくには鳴花のように、積み立ててきた理論がない。素養がない。

 だから理詰めで幽霊の存在は否定しないし、否定できない。

 ぼくが否定するのは、彼/彼女の「行為」だ。


「きみは他人の自由を奪ってはならないっ! なぜなら存在こそが、自由こそが、人間であるための第一条件に他ならないからだっ!」


『――うわぁあああああん!』

 あれ。

 うそ。

 泣いた……。

 ん?

「…………げ」

 サッと血の気がひく音を聞いた。

 これ、やばくない?

 慌てて周りに視線をやる。

 だって鳴花はぼくの足元で気を失ってるし、幽霊は佐奈ちゃんの体で泣き声上げてるし、ぼくはそんな佐奈ちゃんを追い詰めてるし。

 この状況。

 ――誰かに見られたら、どうしたってぼくが鬼畜じゃあないか!

 慌てて宥めに掛かる。

「ごめんごめん、泣かせるつもりはなかったんだ! 非道いことを言ったなら謝るよ! ぼくが悪かった! 何だったらその胸に手を当てて誓ってもいい!」

『それはお主の欲望じゃろうがぁ……』

 おっといけない、流れるように本音が漏れてしまった。

 でも仕方ないよね、男の子だもん。

「とにかくとにかく! ……悪かったよ、ぼくが悪かった。罪滅ぼしなら何でもする! だから泣き止んでく、……れ?」

 と、ぼくははたと気付く。

 確かに泣いているけれど、本当にぼくの言葉で傷ついて泣いているんだろうか?

 だったら始め、鳴花に否定された時も同じように泣いていていいはずだ。

 傷ついた度合いとしては、そちらの方が上だろうし。

 と。

『違うのじゃ……』

 嗚咽交じりに、幽霊は言葉を漏らす。

『こんな状態になっても、意識だけになっても、人間だと言ってもらえて。……妾は、妾は――嬉しかったのじゃ』

 はっとする。

 喋れるほどに意識が残っているなら。

 彼女は一体今までに――何回ここで目撃されて、何回「幽霊だ!」と恐れられてきたのだろう。

 そしてそんな対応が、鮮明な彼女の意識にどれだけの傷を与えたことだろう。自身の状態が、どれほど彼女を絶望の淵に叩き落としたことだろう。

 そこにいるけど、そこにいない。

 そこにいるけど、何もできない。

 彼女の夢である全国海産物巡りも――できない。

『妾は、……死にたくなかった』

 彼女はぽつり、ぽつりと。『まだまだ生きて、仲間たちと戯れておりたかった……なのに人間でなくなって、幽霊になって、長い時間をずっと孤独に過ごさねばならなかった……』

「……分かるよ、その気持ち」

 咄嗟の言葉だったけれど、嘘ではない。

『じゃから、じゃからお主に人間だと言ってもらえて、妾は嬉しかった……化け物ではなく人間だと、他ならぬ人間にそう言ってもらえて……』

「うん……辛かったね」

 ぼくは幽霊に歩み寄ると、その頭を撫でてやる。

「ぼくが保証する。きみは人間だ」

『う、うぁ』

 再び彼女の表情が決壊するかのように、嗚咽が溢れ出す。

 彼女はぼくの胸に飛び込んでくると、ぐしゃぐしゃの顔で泣き続けた。その拍子に佐奈ちゃんのおっぱいがぼくの体に押しつけられたけれど、いくら健全な高校生男子とは言え、この状況で邪念を持つのは人として如何なものだろう。

 やがて、幽霊は顔を上げる。

『ありがとう、小童……』

 そう言って、くしゃくしゃの顔で微笑んで。

『妾は――もう満足じゃ』

 ――佐奈ちゃんの体を借りた彼女は、まるで霧のように消えていった。

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