私の本屋さん
@tricot
第1話
それはいつものように私が田中書店へ立ち寄ったときのことだった。
「こんにちはー。」
いつものように小さな声で挨拶をしながら店に入っていく。
「唯ちゃん、いらっしゃい。」
私の挨拶に対して返事が返ってくることを予想していなかったので体がびくっと声に反応してしまう。
「おじいちゃん、今日は起きてるんだね。」
そう言うと店主は何かいたずらが見つかったときの子供のようにばつが悪そうな顔をしながらもくすりと笑った。
「いつも起きてるんだけどね。」
私は知っている。店主がいつもレジの椅子で目を瞑っているだけに見せて、本当に寝ていることを。だから私は店に入るときに、小さな声で挨拶をするのだ。一時期、店主を起こさないようにと黙って店に入ったこともあるが、それはなんだか悪いことをしているような気がして落ち着かなかった。だからこそ小さな声で挨拶をするという今のスタイルをとることにしたのだった。小さな声で挨拶をしているからなのかわからないが、今まで店主から挨拶を返されたことはなかった。
ただ、私は小さい頃からこの店の常連なのでもちろん店主とも顔見知りだし、かわいがってもらっていると思う。まあそれは商店街ですれ違ったときに挨拶したときにミカンをもらったりと、その程度ではあるのだが。
「唯ちゃん、いつもお店に来てくれてありがとうね。」
店主はにっこりと笑いながら私に声をかける。
「急にどうしたの?でも、私本が好きだから。」
店主からの突然の礼に驚きはしつつも、素直に返事をする。店主はそんな私を見てふわりと微笑んだが、すぐに目を伏せた。
「でも、駅前ならもっと大きい本屋があるのにいつもこの店に来てくれるでしょう。」
確かに、この田中書店は商店街の一角にある小さな個人経営の本屋である。十年前に駅前にはいろいろなテナントが入る大きなビルができた。そのビルの五階に大型書店があるため、本を買うためにそこを訪れる人は多い。大型書店であるため様々なジャンルの本を扱っているということはもちろん、駅前のビルに店を構えていることから、交通の利便性が高く客層も非常に豊かだ。
「まあね。でも私はこっちの方が落ち着くから。」
駅前の大型書店は確かに多くの本があるから、どうしても欲しい本がある場合にはそちらに本を探しに行くこともある。でも私はその便利な大型書店よりも田中書店のほうが好きなのだ。
「確かにあそこは本がいっぱいあるんだけど、人もいっぱいいるんだよ。私は目当ての本があって本屋さんに行くんじゃなくて、本屋さんに行ってから、その日に欲しい本を探すの。だから人がいっぱいいるとなんか探しにくいっていうか、うーん、なんて説明したらいいのかな。」
「わかる気がするよ。いつもなら素通りしちゃうような本でも、日によってすごく読みたくなったりして手に取ることってあるよね。本に呼ばれているような気がするときがあるよ。」
感覚的に本を選ぶ私は、その感覚を今までうまく説明することができなかった。説明をしてみたところで周りに理解されることもないと思っていたから説明すること自体をあきらめていたと言っても過言ではない。そんな私の感覚を理解してくれる人がいることに驚くと同時に、店主の言う「本に呼ばれる」という表現は、今まで私の悩んできたその感覚をぴたりと言い当てられたようではっとした。
「おじいちゃんもそういうことあるの?」
私のもつその感覚を初めて他人と共有できるかもしれないとすぐさま問いかける。
「うーん、そうだねえ。たとえば今日は心が暖かくなるような話が読みたいな、と考えているときに本に呼ばれることはない。でも何も考えずに棚を見ているときに、これは今日読まなければならない本だ、と思うことがあるよ。」
それが本に呼ばれていることだと、私は思っているんだけどねえ、と店主は微笑みながら続けた。初めてこの感覚をわかってくれる人がいることを知り、私はとても嬉しくなった。
「唯ちゃんは本が好きだから、きっと本も唯ちゃんに読んでもらいたいと思って、唯ちゃんを呼ぶんだろうね。」
にっこりとしながら店主はそう言う。本が好きだから本に呼ばれるなんて、そんな非現実的な物言いでさえも信じたくなってしまう。それほどまでに私はこの感覚を共有できたことが嬉しくてしょうがないのだ。本が私のことを呼んでくれているかもしれないと棚の本を眺める。元々本が大好きな私だが、今は特にここにある本たちが愛おしいとすら感じる。
「唯ちゃん。」
にこにこと本棚を見つめる私に店主が優しく声をかける。私は店主へ目を移し、うん?と首をかしげた。
「唯ちゃん、実はこの本屋を継いでほしいんだよ。」
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