後編

 家に帰っても夕飯をいつものように食べる気が起きず、わたしは夕飯を半分以上残し、家の二階にある自分の部屋に引き上げました。ベッドに寝転がり、天井の木目を見つめていると、それがだんだんあの病室に横たわっていた蛹に見えてきて寒気がしました。そこから目を離せないでいると、階段をゆっくりとのぼる音がして、夕食を食べ終えた姉が、大学に入って何を思ったのか水色に染めた髪をいじりながら部屋に入ってきました。


「アヤ、あんたどうしたの。いつもそこまで食べるか、ってくらい食べるのに」


 ちょっと食欲がなくて。わたしがそう言うと姉は「あっそう」とそっけなくつぶやき、本棚の上に設置されているオレンジ色のコンポの電源をつけました。ややあって、少しノイズの乗った快活そうなおじさんの声が流れてきました。わたしはラジオがあんまり好きではありません。ですがわたしと姉の部屋は共有なので、部屋にいるためには我慢してそこまで好きじゃないおじさんの声を聞き続けなければなりませんでした。リビングに戻って親のなんでご飯食べないのあんた、という質問に答えるのも面倒だったので、わたしはおじさんの声に耐えることを選びました。


 わたしはベッドに転がったまま死人のように押し黙り、姉は一言も喋らずおじさんの声に耳を傾けていました。それによる微妙な空気がしばらく部屋を漂った後、姉が口を開きました。


「あー、なんだっけ。ほら、あんたの友達。笹田、サエちゃんだっけ。あの子もあたしと同じ病気なんでしょ。お見舞いどうだっ」


 不自然なところで言葉が切れ、椅子の足が床を叩く鈍い音がしました。わたしはベッドから体を起こし、姉のほうに視線を這わせました。ラジオを聞くためにコンポ近くの椅子に腰掛けていた彼女は口を手で覆い、前かがみになっていました。突然鼻血が出てきて焦ってしまったときの反応に、それはよく似ていました。


 またやっちゃった。姉はそれだけ言うと、てのひらにぶちまけたなにかをわたしのほうに見せてきました。水にさらしてびちょびちょにしたような糸の塊が大小二つ、てのひらに載っています。姉がこうして糸を吐き戻すのは今に始まったことではなく、病気が治って退院してきてからもたびたび起こりました。医者によるとこれは後遺症らしく、じきに収まるとのことでした。


 姉は糸玉をわたしのベッド横にあるごみ箱に投げ入れると、ドアを開けて部屋を後にしました。洗面所で手を洗っているらしく、かすかな水音が扉の隙間から聞こえてきました。それがやむと、履いているジャージで手を拭きながら、姉は再びわたしの前に姿をあらわしました。なんとなく気になって、わたしは彼女に質問をしました。


「ねえお姉ちゃん。蛹になってたときって、どんな感じだった」

「んーどんな感じって言われてもなあ……なんかぬるま湯の中に漂ってる感じだった。夢見てるみたいな。これが現実だって信じこんでいるけど、どことなく自分がそこにいないって感じがするような」

「どういうこと」

「だからそのままの意味だってば。体はあの蛹のなかでどろどろになってるわけだから、正確にはどうなってるのか知らないけどさ。寝ているのと対して変わらないよ」

「痛みとかって感じた? あとは話し声。誰がお見舞いにきたとか、理解できてたの」

「よく覚えてない。まあ多分、そんなの感じてなかったと思うよ」


 姉の言うことが本当なら、サエちゃんは自分に包丁が突き刺さったときの痛みや、誰が包丁を刺したのか、ということをいっさい感じていないことになります。それはわたしたちにとっては好都合でした。サエちゃんが退院してきても、入院前と同じように接すればいいのです。蛹になって寝ている彼女を殺しかけてしまった、という事実を隠して。しかし問題は他にもありました。


「例えばの話なんだけど、蛹になってるときになにか外傷を与えたとするでしょ。それって普通に傷口をふさげばその中身ってちゃんと成長するのかな。中身がどろどろなんだから、どこかミスってもどろどろなうちに直せばきちんと固まるかな。チョコレートみたいに」


 サエちゃんがきちんと『羽化』できるのか。あの程度の処置で急場を凌いだのが、家に帰ってから急に不安になってきました。病院にいるときはあれで万事大丈夫だ、と思っていたのに、帰宅するとアドレナリンかなにかが切れたのか急にその気持ちがしぼんでしまったのです。縋るようなわたしの質問に対して、姉は笑顔で即答しました。


「えー。知らない」





 翌日の放課後の公園。普段ここはわりと人がいるのですが、今日はなぜかわたしと、昨日お見舞いにいったメンバー以外には誰もいませんでした。そんな中、クロくんが派手に吹っ飛んで砂場に転がりました。

 彼を殴って吹き飛ばした張本人であるタイシくんは、砂塗れになって倒れているクロくんに歩み寄って胸倉を掴み、ぞっとするような冷たい声を彼に浴びせました。


「お前のせいだぞ」



 事の発端は、朝礼まで遡ります。

 わたしたちの通う学校では、毎朝『朝読書』なる時間が十五分ほど設定されており、皆が思い思いの本を読む時間があります。本が好きなわたしは結構な頻度で読むものを変えていましたが、読書があまり好きではないらしいナエちゃんやミエちゃんはほとんどの場合、読む本が同じでした。


 しかし今日、朝読書はおこなわれませんでした。暗い表情をして教室に入ってきた担任の先生は、すでに本を読む気満々でページを開こうとしていた子を制すると、今日は皆さんに伝えなければならないことがあります、と前置きして話し始めました。


「笹田サエさんの容態が、昨日の夜遅くに急変しました。今のところ命に別状はないとのことですが、いまだ予断を許さない状況のようです。皆さんも知っていると思いますが、あの病気はまだわかっていないことが非常に多いです。これからどうなるのかは医者の方たちにも、もちろん先生にも、全くといっていいほどわかりません。治療に専念するため、今日から笹田さんは面会謝絶となるそうです。祈りましょう。笹田さんが再びここに戻ってくるのを」


 先生の言葉は教室中に広がり、大きなざわめきを呼びました。心配そうな声を上げる子。いきなり飛び込んできた非日常に笑みを隠し切れないといった様子で、席の周りの子と話す子。自分は関係ないだろうと考え、特に大騒ぎしない子。様々なタイプの生徒がいる中、わたしを含め昨日のお見舞いに参加したメンバーは皆が皆、誰とも話さず青ざめた顔をしていました。先生の口ぶりやもたらした情報から察するに、わたしたちが蛹を傷つけたことやそれを黙って逃げ帰ってきたことなどはばれていないようでした。どうやら監視カメラについての心配は杞憂だったようです。


 ふと前に視線を送ると、サエちゃんの席が目に入りました。その上に白い菊の生けられた花瓶が飾られている光景がちらつき、わたしは席から目をそらしました。少し離れた席に座っているナエちゃんに視線を向けてみると、すがるような弱々しい目をした彼女と目が合いました。すると途端に彼女の目に力が戻り、視線を外さないまま、こちらへ向けて小さくうなずくようなしぐさをしてきました。


 集合の合図。それをそのように受け取ったわたしは、小さく頷き返しました。そして、昨晩抱いた不安が現実になってしまったと考えながら頭を抱えました。視界が端のほうからにじんでいき、机の木目が、昨晩見た蛹みたいな木目そっくりに歪んでいきました。



 そして今、なぜクロくんが殴り飛ばされる羽目になっているのか。


 彼はわたしたちから逃げようとしたのです。包丁を突き刺してサエちゃんのことを予断を許さない状況に追い込んだのは自分である、という罪の重さに耐え切れなくなったのか、帰りの会が終わって教室の後ろのほうから逃走を図ろうとしていたところを御用となったクロくんは、ただただ泣いていました。


「だって、だってぇ……こんなことになるなんて、思ってなかったんだよお」

「黙れ」


 タイシくんの棘のある声の後すぐに、肉を打つ鈍い音がしました。クロくんの頭が左に激しく振れ、わたしはああ顔を殴られたんだなと思いました。わたしもナエちゃんもミエちゃんも、クロくんに対して振るわれる暴力を止めようという気持ちは起きず、不自然に凪いだ心で事態を傍観していました。皆、タイシくんが放つ暴力的でぎらつくオーラにあてられていたのです。


 タイシくんは大人っぽく、頭も切れる子だとわたしは考えていました。しかし、昨日と今日の彼の行動は、そんなわたしの見立てとはかけ離れていました。ナエちゃんですらわかることがわからず、簡単に暴力に訴える。その事実は、少なからずわたしを幻滅させました。それはナエちゃんたちも同じらしく、特にナエちゃんに至っては、昨日まではタイシくんのことを憧れを帯びた目で見ていたのに、今やその輝きはどこにも見られませんでした。むしろ彼女の目には軽蔑が浮かんでいます。


 しばらくして、暴力の雨がやみました。タイシくんはクロくんの胸倉を離し、勢いよく砂場に放ると、わたしたちの方を振り返りました。背後でクロくんが頬を押さえながらうめき声を上げています。砂だらけのその顔は、ところどころ紫芋のような色になっていました。


「ねえ、ちょっとやりすぎなんじゃないのかなあ」


 暗い笑みを浮かべたタイシくんと痛みに身をもだえさせるクロくんを見比べながら、消え入りそうな声でミエちゃんが口にしました。ナエちゃんも少し迷った素振りを見せたあと、同意を示すように前に進み出ました。女子二人の反応に、タイシくんは心の底から理解できていないというような顔をしました。


「え、それじゃあまるで僕が悪者みたいじゃん。やりすぎってことはないでしょ、現にクロのせいでこんなことになってるんだから。僕たち、人殺しになったかもしれないんだよ? それなりの罰を受けてもらわないとさ」

「で、でも、いくらなんでもここまでしなくっても」

「うるせえな役立たず。お前はふええ、ふええって言ってるだけでなんにもしてなかっただろうが。前から思ってたけどさ、ミエのそういう語尾伸ばす癖とか、媚びた感じのしぐさとかすごいむかつくんだよね」

「なにそれえ! 癖みたいなものなんだから、しょうがないでしょお!」

「そういうところだよバカ。癖で語尾が伸びるわけないじゃん。わざとやってるんだろ、ほら認めろよ、私はわざと語尾を伸ばしていますうーって」

「あーもうわかったよ認めればいいんでしょ認めれば。私は語尾をわざと伸ばしてます。計算に決まってるだろアホ、そうじゃなきゃこんなことしないっつうの」


 怒りに任せて本性を現したミエちゃんとタイシくんが激しい言い争いを始めました。そのどさくさに紛れてクロくんは公園から逃げ出そうとしましたが、今度はナエちゃんに行く手を阻まれてしまいました。


「ちょっと待ってクロ。たしかにタイシはやりすぎたと思うけど、まだあんたのミソギは終わってないよ」


 砂まみれの彼の前に立ちはだかったナエちゃんは、先ほどのタイシくんと似た冷ややかな笑みを浮かべていました。クロくんの顔がどんどん青を通り越して白くなっていくのが、彼の頬に貼りついた砂粒越しにも確認できました。


「刃物を持ち込むのはだめなんじゃないの、ってアヤがあんたに忠告してたじゃん。それをきちんと聞いていればこんなことにはならなかったんだよ。それに、あんな大変なことになった後、あんたはゲロの中の鈴カステラいじってるだけでちっとも役に立たなかったよね。アヤに申し訳ないと思わないの」

「ナエちゃんいいんだよそんな。わたしなら別に」

「いやよくない。こいつが余計なことしなければ、私たちはこんな十字架を背負うようなことはなかったんだから」


 わたしとナエちゃんのやり取りを聞いている間、クロくんは涙に濡れ、ふやけた顔を呆然とさせていましたが、急にその瞳に意思が宿りました。


「じゃあ、お見舞いに行かなければよかったんじゃねえの、ナエ。お見舞いはお前が言い出したことだろ」


 後からこうすればよかった、ああすればよかったというのはとても簡単なことです。その意見を許してしまえば、もはやなんでもありになってしまいます。しかし図星を突かれたのか、ナエちゃんは少なからず動揺していました。


「べ、別にそんなの関係ないじゃん」

「関係あるだろ。お前がお見舞いに行こうなんて俺たちを誘わなければ、こんなことは起きなかった。俺に対して言ってることと同じことが、ナエにも言える」

 クロくんの目が、ついこの間理科の教科書で見たフクロウの瞳のように鋭くなりました。よく考えたらまったく相手にしなくてよい意見のはずなのに、ナエちゃんはそれに言い返す言葉が見当たらないといった様子で立ち尽くしていました。その姿からは、かなりの動揺っぷりが見て取れます。彼女の目が弱々しく左右に揺れた、その時。

「あ、そうだねえ」

「まあ、たしかに」


 こちらのやりとりを聞いていたらしきミエちゃんとタイシくんが、妙にすっきりした声で呟きながら振り向きました。怒気が完全に消え失せたその目は湿り気を帯び、ナエちゃんを舐め回すように見つめていました。


「な、なによ。私が悪いとでも言うつもり。どう考えても、クロのほうが悪いでしょ。わた、私は善意でお見舞いを提案したんだもん」

「それを言うならクロくんのリンゴを剥いてあげよう、っていうのも善意だとミエは思うんだけど」

「それはっ」


 激しい追及にナエちゃんが口ごもると、クロくんは砂だらけの顔で、先ほどのタイシくんとそっくりな笑顔を浮かべました。ナエちゃんに矛先が向けられたことがわかったので、安堵と恨みが一緒くたになって笑顔として滲み出たようでした。


 わたしはそれを見て、妙な薄ら寒さを感じました。次々と人型の物体が割れ、中から体液色のなにかがどろりと溢れ、わたしに絡みついて固まる。不気味な想像が頭をよぎり、わたしはその場に座り込みました。まずい。この状況で、こんなことをしてしまったら。嫌な予感が胸中に生まれましたが、そのときにはもう遅く、額に汗をにじませたナエちゃんが、こちらに手を伸ばしてきていました。


「そ、そうだ。アヤ。あ、あんたの手当てが間違ってたんじゃないの。ああやってへたに手を加えたから、サエがおかしなことになっちゃったんじゃないの」


 人の形をしたなにかが、一斉にこちらを向きました。座った状態のまま、わたしはスカートが汚れるのも構わず後ずさります。


「そうかもねえ。そうだ、多分そうだよ。うん絶対そう。アヤちゃん、きっとあのときにサエちゃんの変な部分に触っちゃったかなんかしたんだよ」

「お、俺が包丁を刺しちゃった後、お、お前がきちんと手当すればよかったんだよ。国語で『終わりよければすべてよし』って習ったろ。そういうことだよ。はい決定アヤが悪い」

「ほ、ほらね。だからいったじゃない私は悪くない。悪く、ない」


 待ってよ、皆。心の中では「死ね」「殺す」「なにわけのわからないこといってんだよ」という気持ちがくるくる回っているのに、震えているわたしの口からは、かぼそくて小さな声しか出ませんでした。ナエちゃんたちが放つ粘り気のある空気に、わたしは完全に身動きを封じられていました。先ほどまでのナエちゃんも、きっとこんな状態だったのでしょう。たしかにこれでは、まったく普段通りの振る舞いをすることができません。

 黒く、ちりちりしたオーラを放つ彼女たちは、なおもわたしのほうに薄ら笑いを浮かべていました。皆、なにかの重圧から解放されたかのような雰囲気すらまとっています。そんな中、勝利宣言のつもりか、クロくんが満面の笑みでなにかを言おうと、絶望に打ちひしがれているわたしの前にずい、と進み出ました。しかし彼のその肩を、沈黙を貫いていたタイシくんの細い腕が掴みました。


「うーんでもさ、やっぱりいちばん悪いのはクロじゃないか? ナエの言うとおりにしてお見舞いに行ったことや、アヤが蛹に空いちゃった穴を補修したことよりも、クロが包丁を振り回したことのほうがどう考えてもリスクとしては上じゃん。お見舞いに行ったからって人が死ぬか? 穴をふさぐだけで人が死ぬか? 包丁を振り回したことの方がどう考えても危ないよ」


 突如投げかけられたタイシくんの言葉で、クロくんの笑顔が粉々に砕けました。ミエちゃんはそうかあ、それもそうだねえ、と同意を示し、ナエちゃんは一瞬固まったものの、彼の顔をちらりと見るとすぐにうなずきました。その目は先ほどの軽蔑の目ではなく、憧れを抱いた目に戻っていました。


 そして、三人の視線が、再びクロくんに向かっていきました。


 待ってくれよ。話が違う。クロくんは両手をぶんぶん振り回して弁解します。が、それが開戦の合図になりました。三人から様々な罵詈雑言が飛び、クロくんを貫きました。

 やっぱりそうじゃん。お前のせいで。前から変なヤツだと思っていた。顔が気持ち悪いんだよ。ブス。大小様々な言葉の針がクロくんをめった刺しにしていきます。それがいったん落ち着くと、彼の弁解の声が聞こえてきました。


「そんなこと言われたって仕方ないじゃないかあ。あっそうだ、隣のクラスにも同じ病気で入院している子がいるんだ。話を聞いてみればなにかわかるかも」


 そんな彼の提案は、押し寄せるように襲ってきた汚い言葉の波に揉まれて、どんどん小さくなっていきます。先ほどからナエちゃんが「ほら、アヤも加勢して」とでも言いたげな視線を送ってきていますが、わたしはそこまで人を追い詰めるようなことに加わることはできず、ただクロくんが弱っていくさまを眺めることしかできませんでした。というよりも、その場その場に応じて意見をころころ変える彼女たちが、わたしには別世界の生きもののように見えていました。


 しばらくして、ナエちゃんの言葉を借りるところの『ミソギ』が終わると、クロくんは呆然とした顔で一人ふらふらと公園から出ていきました。その後ろ姿を、わたしを除く三人は一仕事終えたかのようなさわやかな顔で見つめていました。そしてクロくんの姿が公園からも道からも消えると、わたしを救ったばかなタイシくんは、こちらを振り返りました。


「昨日食べ損ねちゃったしさ、今からランドセル置いて再集合しない。アイス食べよう」





 その次の日から、クロくんは学校に来なくなりました。先生に理由を聞いてみると風邪で寝込んでいるとのことでしたが、おそらく仮病を使って休んでいるはずだ、とわたしは踏んでいました。タイシくんたちは、クロくんが休んでいることに対して特に思うところがないらしく、お見舞い前と変わらぬ日常を過ごしていました。タイシくんはいつものちょっとかっこいいポジションのキャラに戻り、ミエちゃんも語尾が元に戻り、ナエちゃんは瞳に宿る恋の光が完全に復活していました。


 わたしは彼らのその雰囲気に嫌気が差し、あの公園での一件以降、少しだけ距離を置くことにしました。とはいっても、登校班では顔を合わせるので、お喋りをするぐらいのことはせざるを得ませんでしたが。しかし、彼らはわたしがとった行動がお気に召さなかったらしく、いつの間にか薄い壁をこしらえ、一緒に遊んでくれなくなりました。なんだかんだで一抹の寂しさがわたしの胸を吹きすさびましたが、学校生活を送る上ではあまり差し支えがありませんでした。一人で気楽に図書館で本を読み漁るのも、慣れればやみつきになりました。



 そして、二週間ぐらい経ったある日。三時間目が終わり、がやがやと騒ぎ始めたクラスの子たちは、突然教室に入ってきた先生によって、水を打ったかのごとく静かになりました。


 今日は皆さんに嬉しいお知らせがあります。そう先生は前置きすると、ドアの向こうにいる誰かに中に入るよう促しました。


「皆、心配かけてごめんなさい。無事退院できました」


 教室に入ってきた長い黒髪の女の子。わたしたちが争う原因となった人物である笹田サエは、黒板の前に立って教室中を見渡すと、笑顔でそう告げました。


「ほんとは今日退院したばっかで、学校は明日からでいいって言われてたんですけど、どうしても皆に顔だけ合わせたくて。すごい心配させたみたいだし。なんか、成育異常? だかなんだかで、病気が完治するのが遅れてしまって皆には心配かけたと思います。また仲良くしてください」


 丁寧なおじぎで彼女の話が締めくくられると、そこかしこで拍手が巻き起こりました。中には泣いている子もおり、それを見てサエちゃんもまた涙ぐんでいました。


「笹田さん、今日は皆さんに顔を見せただけで帰宅するそうです。明日から徐々に登校する時間を伸ばすということなので、また皆さん仲良くしてあげてください。本当に、本当によかった。笹田さん、お大事にね」


 そう言うと、先生は前の授業で使った教科書などを脇に抱え、教室を出ていきました。その瞬間、クラスの子達のほとんどがサエちゃんの元に向かい、口々に退院を祝う言葉を口にしました。


「おめでとう」

「本当によかったよ……笹田死んじゃうんじゃないかと心配だったんだ」

「無事でよかったあ」


 サエちゃんはそれらすべてにうなずいたり、返事をしたりして、もみくちゃにされながらも微笑んでいました。一方、わたしたちお見舞いメンバーはその集団に加わることなく、呆然とした顔をしてその場に立ち尽くしていました。



 成育、異常?



 わたしたちはサエちゃんの蛹に包丁を刺してしまったはずです。だというのに、それが『成育異常』という名称になるでしょうか。クロワッサンの皮はあくまで応急処置と傷口をごまかすために貼ったもので、検査をすれば普通にばれる代物のはずです。なのに、なんで。そこまで考え、わたしは最初からなにもかも間違えていたことに気づいてしまいました。口から変な声が漏れて足が震え出し、わたしはへなへなと椅子にくず折れました。


 わたしたちは、サエちゃんのベッドに行く際、名前の貼られたプラスチックカップだけを目印にしていました。しかし、わたしたちが病室に入る前に、看護師は点滴を変えていたのです。彼女がそのときに、サエちゃんのカップをいったん別の場所にどかして、それを元の位置、正確にいうなら、サエちゃんのベッド横の棚上に戻し忘れていたとするなら。それに加え、看護師は一度も蛹のことを「サエちゃん」と呼ばず、「あの子」としか呼んでいませんでした。


 あのクロワッサンのような物体から漏れた甘い匂いの液体を、わたしはサエちゃんの一部だと思って受け止めていました。でも、もしそうではないとするなら。



 わたしたちがサエちゃんだと思っていた蛹の中身は、いったい誰なのでしょうか。

 


 すると、突然教室のドアが開き、先生が今度は青白い顔をして教室に入ってきました。ひどく慌てている様子です。


「皆さん、隣のクラスの向井くんが、病院で先ほど亡くなったそうです。向井くんは笹田さんと同じ病気にかかっていて、一週間前、蛹に原因不明の穴が空いており、そこから徐々に中身が蒸発していたのが発見されていて――」


 先生の情報は非常に不確かで、本来は生徒に伝えてはならないことを、気が動転したあまり口走ってしまったような様子でした。が、わたしたちを絶望の底に叩き落すにはそれで十分でした。


 人殺しに、なっちゃうよ。いつかのミエちゃんの言葉が頭をよぎりました。わたしは、人殺し、と小さな声でつぶやきつつ、自分の内臓がどろどろの鼻水色になって、体のどこかにぽっかり空いた穴から、それがゆっくりと流れ出していくという想像を、止めることができませんでした。

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