中身

大滝のぐれ

前編

「ねえアヤ、サエのお見舞い行こうよ」


 放課後の教室。帰りの会が終わった後も机に座って本を読んでいたわたしは、突然後ろからそう声をかけられました。振り返ってみると、いつもわたしが仲良くしているナエちゃんという女の子が、ランチョンマットやハンカチが収められている給食袋を手に持った状態で立っていました。おみ、まい。その単語を噛みしめ、微妙な反応を示すわたしに対して、彼女は給食袋を振り回しながら続きの言葉を吐きました。


「タイシもミエも、それにクロも来るからさ。ね」


 わたしの友達の名前が並べられると、少しだけ心が揺れ動きました。しかし、わたしの胸に「いやいやそれでもお見舞いなんてめんどくさいじゃん」という考えがふつふつと湧いてきました。件の病院はわたしたちの住む町の中心部にありますが、そこに行くためには『汗だく坂』と呼ばれて恐れられている大きな坂をのぼらなくてはいけません。サエちゃんはたしかに友達です。でも、今の状態でわたしたちが彼女のもとを訪ねてもただの時間の無駄でしかないことが、わたしにはわかっていました。なぜなら、彼女の病気は特殊なのですから。


「あ、あとお見舞い終わった後にね、皆でアイスクリーム屋さんに行こうって話になってるの。ほら今キャンペーンしてて安いじゃん、だから」

「わかった」


 アイスクリーム屋さん、という単語にわたしはあっさり陥落しました。一番好きなキャラメル味のアイスの、もったりとした舌触りとどこまでも落ちていくような甘みを思い浮かべながら、わたしは舌なめずりをしました。


 ナエちゃんはその返答を聞き、ぱあっと顔を輝かせました。じゃあ三時半に『まるまるさん』の前ね。彼女は待ち合わせ場所を伝えると、ランドセルを背負い直してダッシュで教室から出ていってしまいました。彼女の消えた場所をしばらく眺めてからわたしは本を閉じ、机の横にかけられたキルトの手提げ袋の中にそれを入れました。そして自分もランドセルを背負い、手提げを手に立ちあがって教室を後にしました。






 一度家に帰ってランドセルを置き、外出用の黒いリュックに必要なものを詰めると、わたしは自転車にまたがって集合場所に向かいました。さっきナエちゃんが言っていた『まるまるさん』とは、小学校から五分ほど自転車を走らせたところにある大きな浄水塔の呼び名でした。全体的に丸っこい形をしているため、学校のみんなや、彼らの親がそう呼んでいるのです。


 コンビニの横を通り過ぎ、大通りを横断してまるまるさんの前に着くと、もうわたしを除いたメンバーが全員集合していました。

 胸元にピンクの熊のワッペンが刺繍されたパーカーを着たミエちゃん。変な名前の、なんとかというアイドルに少し顔が似ているタイシくん。サイズの合わないお兄さんのお下がりらしき服を着ている小麦色の肌のクロくん(あだ名です。本名は忘れました)。そしてわたしとさっき話していたナエちゃん。彼ら全員と遅れちゃったかなごめんね、みたいな会話をしばらく交わした後、タイシくんが音頭を取り始めたので、わたしたちは病院に向けてペダルを漕ぎ始めました。


 友達、とはいったものの、わたしは正直なところ彼らのことがあまり好きではありませんでした。ただ単に登校班が一緒なだけで趣味や好きなものが一緒だということがないので、遊んでいてもどことなく思考のずれを感じてしまうのが原因でした。こっちが期待している答えや反応と、絶妙に離れたものが返ってくるということが常だったのです。フィーリングだとかその場の空気だとかで、生活を滞りなく送るために、仕方なく仲良くしている集団。わたしが心の中で彼らに下している評価はそのような感じでした。そして、それらはわたしたちがこれからお見舞いに行く、サエちゃんにもいえることでした。


 自転車を走らせて十五分ほどすると、ついに恐れていた『汗だく坂』が姿をあらわしました。わたしたちが住むはじっこの地区は町の中心部に比べて位置が低いため、駅や商業施設、そして病院のほうに行くにはどうしたってこの壁を越えていかなくてはならないのです。


「うげー。わかっちゃいたけど、ミエほんとにこの坂嫌いだなあ」

「俺も嫌いだ。なんでこんなの残しておいたんだろう。バクダンかなんかでならしてから町を作ればよかったのに」

「ほら、文句を言っててもしょうがないよ。行こう」


 ミエちゃんとクロくんがそれぞれ漏らした不満を、タイシくんは汗で湿った前髪をかきあげながらいさめると、思いっきりペダルを漕いで加速しました。その勢いのまま猛然と彼は坂をのぼっていきましたが、中腹を少し過ぎたあたりで徐々に失速していきました。結局、最後までのぼりきることは叶わず、タイシくんは自転車を降りてしまいました。そこからは自転車を手で押し、程なくして彼は頂上に到達しました。


「早く来いよー! のぼらないとどっちにしろお見舞い行けないよー!」


 坂の下にいるわたしたちのほうを振り返り、タイシくんはそう叫びました。たしかに、ここで立ち止まっていてもどうにもなりません。わたしにはアイスが待っています。ここを越えなければ、甘くて冷たい幸福の結晶が、わたしの目の前にやってくることはないのです。ため息と共に、わたしは自転車を漕ぎ出しました。チェーンが回る音が高まるにつれ、どんどん顔に受ける風が強まっていきます。しかしその勢いは長くは続かず、中腹よりも少し下でペダルが石のように固くなってしまいました。わたしは仕方なく自転車から降りて、先ほどの彼のように車体を手で押して進み始めました。空から熱気を孕んだ日差しが容赦なく照りつけてくるのを服越しに感じました。観光地でよく道端に落ちているアイスはこんな気持ちなのだろうか、と考えているうちに道は平坦になっていき、気がつくとわたしは、タイシくんと一足先に着いていたクロくんの自転車の横にたどり着いていました。しばらくして、ナエちゃんとミエちゃんがほぼ同時にあらわれました。二人ともりんごのような赤い顔をしています。


「暑い、まだ六月なのに。おかしくない」

「ねえほんと。もう嫌になっちゃうよお」


 彼女たち二人の文句を聞きながら、わたしは坂の下の景色を眺めつつ再び自転車にまたがりました。早く行こうよ、と言いたかったのですが、みんなは休憩するつもりらしく走り出そうとしていなかったのでそれを口に出すことははばかられました。まあ、当たり前といえば当たり前でした。彼らはサエちゃんのお見舞いにいくことが最終目的なのですから。わたしのように、お見舞いをただの通過点と捉え、アイスを食べることが目的である人間は、おそらくここにはいないのでしょう。


 しばらくその場で他愛もない話をして休憩を済ませると、わたしたちは再び自転車を走らせました。汗だく坂を超えてしまえば、町の中心までは平らで起伏の少ない道が続いていました。茶色い屋根のステーキハウス、怪しい雰囲気の古本屋、ぎらぎらした装飾のラーメン屋を過ぎて大通りに抜けると、いかにも中心部らしい賑わいが、汗みずくのわたしたちを出迎えました。といっても、地方都市なのでたかが知れていましたが。そこを横切り、そのまま道なりに進んでいくと、中に入っている病人と同じような青白い色をした病院に到着しました。自転車を来客用の駐輪場に止め、自動ドアをくぐると、わたしたちは受付に向かいました。薬臭い空気が鼻を刺すのを感じながら待合スペースの奥のほうに目をやると、隅に置かれた水槽の中に大きなプレコが泳いでいるのが見えました。


「あの、笹田サエさんのお見舞いに来たんですけど」


 受付で暇そうにしていた看護師のおばさんに、タイシくんが声をかけました。彼女は顔を上げ、わたしたちの姿を認めると、顔に笑みを浮かべて甘ったるく粘ついた声を出しました。わたしは無意識のうちに顔をしかめてしまいましたが、彼女が気づいた様子はありませんでした。


「笹田、サエちゃん、ね。いいわねえ、お見舞ぃ? こんな友達大勢で。きっと喜ぶわぁ」


 無駄にゆっくりとした動作で面会者ノートを取り出すおばさんに舌打ちしそうになりましたが、その気持ちをなんとか押しとどめてノートに名前を書くと、小さな丸い形の札を渡されました。どうやらお見舞いに来た人はこれを胸元につけるきまりになっているようです。わたしたち全員がそれを装着したのを確認すると、おばさんは「サエちゃんの病室は三〇八よ。そこの突き当たりにあるエレベーターで三階まであがったら、すぐ目の前にあるからねぇ」と再びべたつく声を出して、わたしたちを見送りました。


 やさしそうな人でよかったねえ、とミエちゃんが朗らかな声を上げましたが、わたしは全くそう思いませんでした。むしろ、子供だからとああいう甘くベタベタした絡みつくような声を出す大人が、わたしは一番嫌いでした。


「なあなあアヤ、お菓子とかって持ってきてよかったんだっけ。サエにあげたいんだけど」


 クロくんが背負っているリュックに手を当てながら、わたしに質問してきました。わたしはさっき受付のところに貼ってあった、注意書きのことを思い出そうとしました。ですが無理だったので、別に病室で食べなきゃ持ってきてても平気なんじゃない、と適当に答えました。するとその話を横で聞いていたタイシくんが、苦笑いを浮かべながら話に割り込んできました。


「でもクロ。お見舞いとしては平気だろうけど、サエは今どっちにしろ食べられる状況じゃないでしょ」

「そりゃそうだけどさ、お見舞いといったら食べものだろ。いろいろ持ってきたんだぜ」


 クロくんはリュックに添えている手とは逆の手に持っていた茶色の紙袋を、わたしたちに示すように持ち上げました。わりと重そうな袋の口からは、真っ赤なりんごや鈴カステラの袋が覗いていました。

 エレベーターで三階に上がり、わたしたちより先に乗っていた点滴をカラカラと引きずっているおじいさんを先に下ろすと、わたしたちはエレベーターの外に出ました。味気ない薄い色で塗られた廊下を見渡してみると、サエちゃんの病室はあの看護師の言ったとおり、目の前にありました。

 ドアの横の壁に三〇八と書かれたプレートがかかっており、その下に『笹田サエ』、そしてもう二つ知らない人の名前が書かれていました。どうやら彼女の他にも人がいるようです。


「よし、じゃあサエちゃんのところに行こう」


 とっととお見舞いを済ませてアイスを食べに行きたいわたしは、ドアの前でなんとなく尻込みしているナエちゃんたちを促すように口を開きました。皆は不安そうな表情を浮かべながらわたしのことを見ましたが、しばらくすると意を決したようにうなずきました。わたしはドアの取っ手に手をかけ、そのまま横に引こうとしました。が、それは勝手に開きました。


「キャッ」

「おっと。びっくりした」


 ミエちゃんが上げた小さな悲鳴に、ドアの向こうから出てきた若い女の人はびっくりしたように目を丸くしていました。さっきの受付の看護師と同じような格好をしているので、多分この人も看護師なのでしょう。そんな彼女はわたしたちの顔を見ると、腑に落ちたような顔をしました。


「あ、あの子のお友達か。今、この病室の皆さんの点滴を換えてきたところなの。経過は順調。すぐによくなると思うよ」


 そうなんですか、それはよかったです。そうタイシくんが口にすると、彼女は笑顔を浮かべてうなずくと、薬品やらなにやらが乗った鉄の台車を押してそのままどこかに歩き去っていこうとしました。しかし、急になにかを思い出したかのように立ち止まりました。


「そうだ、あの子のベッドのカーテンは開けっぱなしになってるから。普通は見舞い客が来たとき以外は閉じておくんだけどね。あの子自身の希望なの」


 看護師はそれだけ言い残すと、今度こそ廊下の曲がり角に消えました。彼女を見送ると、わたしたちはおそるおそる病室に入っていきました。中は薄暗く、なにかの機械が動いているような音が薄くする以外はなんの音もしません。他にお見舞いに来ている人もいないようでした。ベッドは六つあり、左右それぞれ三つずつ並べられていました。左の一番奥のベッドだけカーテンがかかっておらず、そのベッドの左側にある棚の上に『笹田サエ』とラベルの貼られたプラスチックカップが置かれていました。そしてその横のベッドに、サエちゃんは寝かされていました。


「え、これがサエなの? うそ、信じられない」

「なんか近くで見ると、う、うん、こんなことって本当にあるんだな」


 ナエちゃんとタイシくんが、サエちゃんの床に伏せった姿を前に感想を漏らしました。ミエちゃんは目を覆ってうつむき、クロくんは無表情のまま青ざめていました。

 わたしの姉も昔、今のサエちゃんと同じ病気にかかっていたので、わたしはそこまで動揺することなく彼女の姿を見ることができました。たしかにこれを人間だと思え、というほうが無理かもしれません。



 ベッドの上には、巨大な繭が載っていました。



 白い綿飴をそのまま固めたような、カイコが作るものにとてもよく似ているその繭は、ちょうど平均的な小学校高学年がすっぽり包まれるほどの大きさでした。その中心は丁寧に切り開かれ、様々なコード類が繭の中にいる『サエちゃん』に繋がっていました。

 中を覗き込むと、クロワッサンのような色と形をした蛹が、わずかに脈打ちながら横たわっていました。私の背後で「ミエ、ちょっと吐きそうかも」と、ミエちゃんのか細い声が聞こえました。


 わたしがなぜ、お見舞いなんて無駄だとわかっていたのかという理由が、この塊の中に凝縮されていました。この姿では、いくらわたしたちが気持ちを尽くしたお見舞いをしようが、反応を返してくれないのです。


「いやしかし本当に変な病気だよね、人がある日急に口から糸を吐き出し繭を作って、中で蛹になっちゃうなんて」


 わたしは姉が発病したときに得た知識を披露し、場を盛り上げようとしました。しかし逆効果だったようで、皆の顔に張りついた嫌悪感がよりいっそう厚くなってしまいました。虫が平気なタイシくんやクロくんはともかく、残りの女子メンバーは嫌そうな顔をするだけでは足りず、後ろに三歩後ずさってしまいました。


「えっと、アヤちゃんのお姉ちゃんはこの病気にかかったことがあるんだったっけ」

「そうだよ。お姉ちゃんもこんな感じだった。もう少し、蛹の色がピンクがかってた気がするけど」

「そ、そうなんだ。てかめっちゃ落ち着いてるねえ。ミエには無理」


 ミエちゃんは胸元の熊をさすりながら、わたしに尊敬と嫌悪の入り混じった視線をぶつけてきました。ナエちゃんも同じように、理解できないようなものを見る目でわたしのことをねめつけていました。そのさまにわたしはかすかな苛立ちを覚えずにはいられませんでした。


 たしかに、目の前に横たわっているものはとても人間には見えません。ですがその蛹の中身はまぎれもなくサエちゃんなのです。一緒に登下校し、給食を食べ、昼休みにドッヂボールをし、ライターで火遊びをした、笹田サエその人なのです。それなのにナエちゃんたちは、見た目がちょっと気持ち悪くなったからって、かつての友達に対して嫌悪感を丸出しにしている。わたしはともかくとして、お前らは友達じゃなかったのかよ、という感情を抱いたのでわたしはイラついてしまった、のではありませんでした。そんなことより、わたしは早くアイスが食べたいのです。さっさとお見舞いを済ませ、キャラメル味のアイスとか、噛むと口の中で弾ける飴が入っているアイスとかが食べたくてたまらない。それがわたしの率直な思いでした。


 わたしは拳を握ると、実演販売を遠巻きに見ているおばさんのような構えをいまだに崩さないナエちゃんたちに視線を向けました。


「ねえクロくん、とりあえずその袋の中身を置いていってあげたら。サエちゃんへのプレゼントなんでしょ」


 クロくんは私の発言にうなずくと、手に持っていた紙袋を床に置き、中のものを次々と取り出し始めました。りんご、鈴カステラ、納豆、先週号の漫画雑誌。食べ物を主体とした彼のお見舞い品は、次々と棚の上のスペースを侵食していきました。よし、これで後は頃合いを見て、病室を出ていくような流れに持っていけば大丈夫だろう。でも、そう考えて安心しきっていた私に予期せぬ事態が降りかかりました。


「あ、クロくんばっかずるーい。ミエも持ってきたんだからね」

「一応、僕も家からお見舞いみたいなの持ってきた」

「私も」


 弾かれたように彼女たちのほうを振り返ると、皆が一様に鞄やリュックの中を手でまさぐっていました。しばらくすると、ミエちゃんは胸元の熊と同じ熊のぬいぐるみを、タイシくんは端々に使用感が残るミヒャエル・エンデ『モモ』の本を、ナエちゃんは雑誌の付録の漫画家なりきりセットをそれぞれ取り出し、棚の上に置きました。そして、みんな揃ってなにかを求めるように、わたしのほうを見ました。

 これはまずい流れです。このままではわたしはお見舞いを済ませて、アイスを食べに行くことができません。たとえできたとしても、皆から白い目で見られることは確実でした。焦ったわたしは「アアーワタシモオミマイアルヨー」と言いながらリュックをがばっと開きました。底のほうにしなびたみかんが入っていたので、わたしはそれをお見舞い品として提供しました。手を離した瞬間ヘタの近くがちょっとカビているのに気づき、素早く裏返しました。


 よしこれで今度こそお見舞いは終了かな、とわたしは思いました。普通だったらここで世間話の一つや二つでもするのでしょうが、入院している本人がもの言わぬクロワッサンになっているので、それは望むべくもありませんでした。

 「そろそろ帰らない」という言葉の「そ」まで口にしたところで、わたしはクロくんが妙な動きをしているのに気づきました。リュックの中身を改め、なにかを探しているようです。同じくその様子を見ていたナエちゃんが訝しげそうな様子で口を開きました。


「どしたのクロ」

「いや、よくよく考えてみるとさ、サエこんな状態じゃん。りんごなんて皮剥けないんだから食べられるわけないじゃん。だから俺さ」


 そこまで言うとクロくんは口とリュックを探る手の動きを止めました。どうやらお目当てのものが見つかったようです。リュックからおもむろに引き抜かれた手に握られていたのは、刃の部分が花柄のタオルに包まれた包丁でした。


「え、刃物とかって持ってきてよかったんだっけ。だめじゃないの」

「いいんだよばれなきゃ。さ、皮をむくぞ」


 わたしの発言を無視して、クロくんはお見舞い品スペースに置いたリンゴを再び掴みました。そのまま刃をりんごに当てましたが、皮は剥けませんでした。それもそのはずです、包丁にタオルが巻かれたままでしたから。


「いけね。タオル取るの忘れてたわ。めんどくさいな」


 クロくんはそうつぶやくとりんごから手を離しました。タオルをひっぺがすのが面倒なのか、そのまま包丁を持った手を激しく上下に振り始めました。彼の目論見どおり、どんどんタオルが横にずれ、刃の部分から外れてきました。そして数秒後、タオルが完全にすっぽ抜け、光を反射する銀色の刃がむき出しになると同時に、クロくんの手からも包丁がすっぽ抜けました。


 病室に重苦しい静寂が降りました。当事者のクロくんはさっきまで包丁を握っていたはずのてのひらを呆然と見つめています。やや遅れて、なにが起きたのかということに思い当たり、全身を形容しがたい寒気が駆け回りました。ぬるつく汗がてのひらの中に生じていくのも感じました。

 包丁が落下したような硬い音はしませんでした。つまり、なにか衝撃を吸収するような柔らかいものの上に落ちたか。いや、それとも――。嫌な想像が頭をよぎりましたが、そんなまさか漫画じゃあるまいしと自分に言い聞かせ辺りを見回してみると、探していた包丁は案外ああっさりと見つかりました。ですが、わたしは自分の抱いていた嫌な想像が現実になってしまったことを悟りました。



 蛹と化したサエちゃんに、包丁が深々と突き刺さっていたのです。



 背後で二人ぶんの悲鳴があがりました。声色からしてナエちゃんとミエちゃんでしょう。わたしよりワンテンポ遅れて本来あってはならない箇所に包丁が存在していることに気づいたようです。


「え、どうすんのこれ」

「ど、どどどどうしよう、ミエたちこのままじゃ、ひ、人殺しに」


 二人が焦燥感溢れる声を上げました。その顔はどんどん青ざめ、先ほどまでの健康的な小学生女子の面影はすっかりなくなってしまいました。わたしはそこまで大げさな反応はしないまでも、無言で唇を噛んで手に汗を握り、コントのようにすら見える、蛹に突き刺さった包丁を凝視していました。人殺しに、というミエちゃんの叫びが、わたしの頭を内側から何度もお寺の鐘のように殴りつけてきました。


 そんな悲痛さにまみれた空気を、湿った血の滲むような笑い声が引き裂きました。自分の手を呆然と見ていたはずのクロくんが、いつの間にか蛹に突き刺さった包丁に視線を移し、口を押さえて床に座り込んでいました。指の隙間から、不自然に明るい声が漏れだします。


「あははは、マジでどうしようかこれ」

「あ、あんたのせいでしょ! あんたがなんとかしなさいよ」

「どうするのこれミエは人殺しになんかなりたくない、人殺し人殺し人殺し人殺し、人殺しはやだ」


 彼らの慌てた声を聞きながら、わたしはこのあとどのような行動をとれば全てが丸く収まるのかを必死に考えていました。タイシくんも同じようなことを考えているのか、腕を組んでリノリウムの床をじっと見つめています。正直に病院の人に言うのが一番でしょうが、それではわたしたちは、きっと人殺しになってしまいます。

 この病室は、どうやらサエちゃんと同じように蛹に変体した人間ばかりが集められたもののようでした。その証拠に、他のベッドからは衣擦れの音すら聞こえてきませんでした。また、先ほどの看護師が点滴を換えたばかりと言っていたので、しばらく病院の人間が入ってくることはまずないと考えられました。ですが安心はできません。別の患者のお見舞いのため、誰かが病室に入ってくる可能性は充分にありますし、天井かどこかに監視カメラが設置されている可能性もありました。しかし、後者についてはもうどうにもなりません。

 だから、せめて誰かに見張りを頼み、その間に解決策を考えよう。ある程度の冷静さを保っているらしきタイシくんにそう提案しようと、口を開けた瞬間。


「そうだ、まずは包丁を抜かないとだね」


 ぬぶっ、と沼の底みたいな音がして、包丁が蛹から抜かれました。次の瞬間、包丁が刺さっていた場所から病人の鼻水みたいな色の、どろどろした液体が零れ落ちました。同時に、カスタードクリームのような甘い匂いが蛹の穴から噴出しました。そのよくわからないものに塗れた包丁を握っているのは、さっきまで腕を組んで床を見つめていたはずのタイシくんでした。


 わたしは頭を抱えました。よりにもよって一番してはいけないことを、一番しそうにない人がしてしまうとは。


「え、ちょっとタイシなにやってんの。刺さってるもの抜いたら中身が噴き出すってそんなの少し考えればわかるでしょ。そういう漫画読んだことないのっ」


 さすがにその行動が異常だと理解したのか、ナエちゃんがタイシくんに食ってかかりました。その目は血走っています。彼女に胸倉を掴まれ、タイシくんは困ったように弁解を始めましたが無駄でした。頭を激しく揺らされ、無理やりヘッドバンキングをやらされているような状態になってしまいました。

 完全に理性を失い、血走った目で責任を追及するナエちゃん。彼女によって頭を激しく揺らされているタイシくん。ひたすら人殺し人殺しと鬼気迫る顔で呟き続けるミエちゃん。けたけた笑いながら嘔吐し、ほぼそのまま出てきた鈴カステラ(結局こっそり口にしていたようです)を指でいじって現実逃避を図っているクロくん。この中に頼りになりそうな人はいませんでした。わたしがこの場をどうにかして収めないと、事態は最悪の結末を迎えてしまいます。


 なにか使えるものはないか。そう思って先ほどのお見舞い品スペースに目を向けたわたしは、そこであるものを見つけました。意を決し、わたしはなおも変な液体を垂れ流すサエちゃんに近寄りました。背後の役立たず共は、いまだ現実逃避を続けています。わたしがやるしかないのです。今一度、自分にそう言い聞かせると、名前つきのプラスチックカップを掴みました。


 サエちゃんからこぼれた甘い香りの液体は、幸いなことに布団には垂れておらず、綿飴のような繭が吸収してくれていました。わたしはその不健康な緑色に染まった部分をぶちぶちとちぎって、手近にあったレジ袋に放り込みました。カスタードの匂いがよりいっそう強くなり、蛹に空いた穴からは絶えず液体が垂れてきましたが、それはプラスチックカップで受け止めます。背後でナエちゃんが「すごい……」とつぶやくのが聞こえました。


 繭の汚れた部分をあらかたちぎり終えると、わたしは穴にプラスチックカップをあてがったまま、棚の上にあったクロワッサンがたくさん入った袋を掴み、開封しました。香ばしいバターの匂いがふわっと香りましたが、すぐに蛹の中身が放つ匂いにかき消されてしまいました。


「え、アヤ、何する気なの?」


 振り返ってみると、きょとんとした顔のタイシくんと目が合いました。わたしは思わず舌打ちしそうになりましたが、唇をぐっと噛んでこらえました。


 一体、誰の、せいで、こんなことに、なったと、思ってるんだ! 


 そう心の中で叫びますが、もちろん彼には届きません。無視を決め込み、作業を続けます。わたしはプラスチックカップから手を離し、液体がこぼれないように蛹と繭が接するところにそれを置きました。重量を持った鼻水色の液体は蛹の表面を蛇のようにくねりながら、音もなくカップの中に落ちていきます。わたしはそれを見届けると、クロワッサンの皮の部分だけを丁寧に剥き始めました。

 サエちゃんの蛹を『クロワッサン』と表現したのは、あながち的外れではありませんでした。わたしが手に持っているてのひらサイズのクロワッサンは、ベッドに横たわっている蛹をそのまま小さくしたかのように、とてもよく似ていました。形も、そして色も。


 クロワッサンがここにあって本当によかったと思いつつ、わたしはそれらすべての皮の部分を剥き終えました。袋の中にはふわふわした中身だけが残りました。次にわたしはプラスチックカップをつかむと、中に溜まった液体を穴の中に注ぎなおし、クロワッサンの皮を穴に貼りつけました。手でこすってなじませると液体の流出は止まり、よく見ないと穴を塞いでいるとはわからないほどになりました。軽く補修跡を指でついて感触をたしかめ、わたしは小さくため息をつきました。


 昔、テレビだかネットだかで『半分に切った蛾の蛹を、それより細い一本のガラス管で繋ぐと、そのなかに組織ができあがりそのまま変体し、羽化する』という話が取り上げられていたのを、わたしはこの土壇場で思い出したのです。蛹になった幼虫はその中で一度どろどろになり、成虫に姿を変える。無事に人の姿を取り戻し、蛹を突き破って出てきたわたしの姉を見る限り、どうやらこの病気も原理はほぼ一緒のようでした。それならば、完全に変体する前に形を繕えば正常に戻るはず。わたしはそう考えたのです。


 わたしはふうとため息をつくと、汚れた繭糸が入ったレジ袋をリュックに放り込み、入念に手を洗ってから、もったいないので中身だけになってしまったクロワッサンをかじりました。匂いと同じく、ふんわりとしたバターの味がしました。


「多分これで大丈夫だと思う。とりあえず、窓開けて空気を入れ替えよう。あと早くそのゲロ掃除して」


 背後で呆然としていた役立たずたちは、わたしの言葉を聞いてはっとしたらしく荷物をまとめ始めました。ナエちゃんは窓を開けて換気をし、クロくんは胃液にまみれた鈴カステラを片付け、残りの二人は病室の外に出て他の人がやってこないかを見張っていました。


 そして数分後、すべての準備が済むと、わたしたちは急いで病室から出て病院を後にしました。帰りにアイスを食べに行こうという流れにはもちろんならず、誰も口を開かないまま解散しました。わたしの鼻の奥にはまだあのカスタードクリームの濃厚な匂いが残っていて、軽く吐き気がしました。そして、ピンチを乗り越えるひらめきをくれた蛾の蛹の話のオチを、どうしても思い出すことができずにいました。


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