四、磯の女

 先ず、前方には碧ではなく深みのある赤だった。足の裏は冷たく、床板を踏みしめていた。靴を履いていたはずが、いつの間にか消えている。いや、それどころか先程まで広大な海を眺めていたはずだ。

 ここは何処か。見渡せども、広々と果てのないへや――まるで、本堂のような。

「……いつの間にか、迷い込んだらしいな」

 仁善は小さく息をつき、ポケットに入れていた手帳を出した。紙を破る。ビリリと繊維がけたたましく破れる音が木霊すが気にも留めない。ペンで走り書きすると、二つに折りたたんだ。手のひらに乗せ、息をふぅっと吹く。すると、二つ折の紙は瞬く間に蝶へと姿を変えた。

「将海のところへ」

 そう言いつけると、蝶はふわりと上空を飛び去って天井をすり抜けた。

「さて――」

 何が飛び出すか。身構えておく。

 室の中央で特に何をするでもなく佇んでいると、やがて、しゃらりと鈴音が耳に届いた。

 シャン、シャン、シャン、と一定のリズムで鳴る。近づく。同時に、粘着質な何かが床を踏む音。水が弾く。床を掻く。鈴音と足音が混ざり合う。

 辺りを見回すと、彼を囲むような黒い影が並んでいた。床に伸びる影――それは、細く脆そうな体躯と大きな甲冑が交互にある。

 仁善は眼鏡をかけた。思わず目を瞠る。

「……ははあ、成程。ここは貴方がたの城というわけだ」

 長い着物を纏った河童が目玉を光らせていた。骨と筋のような容姿はどんなに上等な着物を纏おうが醜い。また、甲冑と思っていたのは蟹の甲羅だった。中身のない鎧武者たちが厳しい顔でこちらを睨んでいる。

《――今宵は出陣前夜の宴ゆえ、我が君へ賜るものを探していた》

 甲高い声が室に響く。その声に幾多の魍魎は割れるように道を作った。しゃらりと鈴音を響かせて、雅な着物がぬらり姿を現す。一歩ずつ。その音は床板にべたべたと張り付くよう。

 将海がここにいれば、叫び声を上げていたことだろう。しかし、仁善は目を細めるだけ。片手を上げて、真っ直ぐに海御前を見る。

「ああ、先程はどうも。海御前さま」

 物々しい空気にそぐわない軽薄な態度を見せると鎧武者が動きを見せた。長い刀を首元に向けられる。仁善は眉をひそめてそのままで固まった。

「……御前、だと言いたいわけだ。だが、武将ならば相手を見誤ってはいけない」

 途端、彼は不敵に笑った。その時、足元から旋風がふわりと浮かぶ。緩やかに上昇する。その緩やかな風は唸り上げ、床板が軋んだ。魍魎らが一歩後ずさる。

 しかし、海御前だけはその場に立ち留まり、しげしげと仁善を眺めていた。やがては袖の奥でクツクツと嫌らしく笑う。

《そなた、仁科といったな。名を明かさねば良いものを。我らは名を縛ることも容易いぞ》

 その声は嘲笑めいていた。だが、仁善もそれを押し返すように嗤う。

「さて、どうかな。俺が自ら正式に名乗った覚えはないんですけどねぇ……仁科仁善と思っているならそれはだ」

 海御前の声を遮り、彼は眉を曲げてせせら笑う。風が大きく渦をつくれば、渇きに弱い妖たちは仁善から離れ散った。

《そなた――何者ぞ》

 重たい着物をはためかせ、海御前は問う。彼女は目を大きく見開き、仁善を睨んだ。そこには、もうあの穏やかさも嘲りもない。

 疑心。それを白い顔から読み取った。風の向こう側で、仁善は静かに口を開く。

「しがない雑貨屋店主だと言っているでしょう……海御前さま、いや、貴女は『二位の尼にいのあま』ではないですか」

 その問いは、全ての時を止めた。中心部から離れた水妖らは息を潜める。そして、海御前の表情も固まる。

 時間にすると、あまりにも短いものだったが無限に感じられた。

 仁善から巻き起こる旋風は勢いを増し、室の床をも剥がさんとする。

 その強靭さに圧倒されたか、それとも彼の言葉に圧倒されたか。動きを止めた水妖らを見やり、仁善は息をついた。風が収縮していく。

「二位の尼……つまり、平清盛の妻であり、安徳天皇の祖母。貴女は幼帝を抱いて入水したと伝えられている。憎き源氏に恨みを晴らすべく、夫の代わりを務めていたのだから当然、彼らを使うことも容易いのでは」

 風を回収しきった彼が尚も静かに問う。これが彼の出した結論だ。いや、既に予測はしていた。完全な証拠はないが。

 さて、かの雅な御前はどう出る。

《……古の名はとうに捨て申したゆえ、今は海御前と名乗る者よ》

 彼女は言うと気を持ち直すように、袖で隠して甲高く笑う。

《ほほほ。そなた、面白い。今宵は良き余興だった……我らは恨みは忘れじ。また、同様に遊びを忘れてはならぬ》

 仁善は不快そうに眉を曲げた。海御前の返しが面白くない。しかし、彼女は仁善の表情に益々顔を綻ばせる。

「要するに、無駄でしょうもないことが好きなんですね……遊ばれたのは不快極まりない」

 はっきりと言えども、それは負け惜しみにしかならなかった。鎧武者がカチカチと音を鳴らして笑い、河童たちは両の手のひらをペタペタ打ち合わせる。囃し立てる彼らに、仁善は溜息を吐いた。

「……帰っても良いですか」

《待たれよ、『れいばいどう』の店主。そなた、何か私に訊く事があったのではないか》

 その問いに、仁善は浮かせた足を床に戻した。肩に掛けていたバッグを降ろす。

「貴女、存じないと言ったじゃないですか。俺は嘘は嫌いだ」

《そう怒るでない。久方に生きた人と話を交えたのだ。楽しゅうて仕方ないわ》

「そりゃようございましたね……はあ……」

 これ見よがしに深く息を吐けば、仁善はのろのろとバッグから木箱を取り出した。古い文を掲げる。

「ここに『磯の女』と書かれてあります。俺の先祖がもしかしたら世話になったのかもと思いまして。何か覚えがありますか」

 気怠げに訊く。すると、気を良くしていた海御前はぬるりと目の前まで来た。そして、改めて文を見つめる。

《磯の女……あの海峡にいた、というのだろう……さて、あれは何時であったか。百は時を遡るか》

 思案しながら、彼女は真面目に答えてくれる。仁善は僅かに瞼を持ち上げた。

「百、ですか。成程……その時に訪れた者はどのような人でしたか」

《そなたのように無礼な者だった……然し、あれ以来、そなた程に強い人間は居なかった。怪物の類であろう。そう、かの源九郎義経に近しい生き物よ》

 海御前が言うと、控えていた手下が憎々しげに唸った。幾星霜を経ても尚、恨みというものは尽きないようだ。

 仁善は「そうですか」と声を落とした。想定内ではある。だが、文の主を知る者がいてこの旅は無駄足ではないと判った。それが判っただけ収穫はあっただろう。

《して、なにゆえ知りたがる》

 海御前は仁善の行動に不可解を示した。問われるとは思わなかった仁善は「あぁ」と我に返る。

「自分のこの力を知るべく。そのルーツが知りたいだけです。ただの趣味ですよ」

 素直に答えると、雅な古人は《ほう》と何やら興味深げに唸った。

《堅物者かと思いきや、そなたも趣に力を入れるのだな。聞いておるぞ、何やら京よりも東から遥々訪れたとな》

 そうして彼女はクツクツと笑い、肩を震わすと目元を細めて呟いた。

さて、そなたを現し世へ返そう……あの愛らしい娘がそろそろ気を病みそうでな。私らは海を渡る手筈を整えねばならない――》

 着物がばさりと揺れた。

 それは壁一面を覆い尽くしていく。無色の壁が色を持つ。

 華やかに雅な姿へ様変わりしたと同時に、仁善が一つ瞬きをすれば、辺りは果てのない床ではなく赤い社が眼前に現れた。

「ここは……赤間神宮?」

 艶やかな朱に眩しさを覚える。豪奢な社の真ん前で、彼は目を細めた。

 港へ目を向ければそこには焼けた陽がある。

 スマートフォンをポケットから取り出すも電源が落ちており、時間が分からない。

 ともかく、門司へ戻らねば。彼は連絡船の乗り場へ足を向けた。


 どうやら、仁善が不在だったのは丸二日だったらしい。船着乗り場へ行けば、まさか今日が五月五日の早朝とは思わなかった。

 さながら、あれは竜宮城だったのだろう。手荒い歓迎ではあったが……

 関門海峡を臨む。温い潮風を直に受け、彼は大きな欠伸をした。


 ***


「心配させるな! なんだよ、あの報せは!」

 旅館へ戻るなり、彼の部屋で待っていた将海が早速怒鳴りあげた。彼女は手に握った蝶を仁善の眼前に叩きつける。

「何が『異界にいる。すぐ戻る』よ! 二日も戻らなかったくせに! 馬鹿!」

 キッと目を釣り上げて怒る彼女の拳を胸で受けながら、仁善は困惑気味に頭を掻いた。

 言い逃れが出来ない。眠気の方が勝るが、ともかく時間が過ぎていることに苛立ちと焦りもあった。

 現在、午前7時。

 さすがに「レポートは終わったのか」とは聞けずにたじろいでいると、部屋の戸から仲居の声がした。

「朝食をお持ちいたしました」

「はあ? もう帰るって日に朝食なんか……」

 怒りに血が上った将海が矛先を向けかける。それを止めようと仁善が彼女の肩を掴むと、戸が静かに開いた。

 ふくよかな壮年の女だった。彼女はニヤリと口元を釣り上げた笑みを見せる。

「姫さま――海御前さまにはお会い出来ましたか?」

 不躾に問う彼女に、将海は息を呑む。仁善は眉をひそめた。

「やはり、あなたが仕向けたわけだ。まったく、二日も棒に振ったじゃないか」

 溜息混じりに恨みを言うと、仲居はクツクツと肩を震わせて笑った。

 まったく、河童というのは悪戯の度が過ぎる。


 ***


 レトロ街をバスで通り過ぎる。商店街を横目に走れば段々と高台へ向かっていく。海峡橋に繋がる道路へは緑が茂っている。

 電車の時間まで余裕があった。二日ぶりに戻ったのだから休みたいところだったが、将海がどうしても和布刈めかり第二展望台へ行きたいと駄々をこねたので、また不在の詫びもあって仁善が折れたのだ。

 バスに揺られること数十分。港町は変わらず人で溢れているが、ゴールデンウィークも終盤である。それに五月五日は端午の節句。あちこちに鯉のぼりが見えた。それらをも見送れば、バスは更に山へと向かう。

 二人は和布刈公園前で下車した。

「この坂を登るぞ」

 目の前にそびえる坂道……どこまで続くのかここからでは分からない。

「マジか……」

「いや、お前が言い出したんだろう。てっきり調べているものだと思ったのに」

 そう涼しげに言うと仁善は

「きっから時間通りに行くぞ。下りは一時間に一本しかないんだからな」

 だが、その息も長くは続かない。

 二人は休む間もなく坂道へと足を上げた。歩くこと三十分――本来なら十数分でたどり着ける距離らしいが、足と身体のコンディションは五日目という疲労により進みが悪かった。

 将海は文句を言う気力もない。仁善も無言だが、息を上げている。頭上には複雑に造られた高速道路がある。アスファルトの道だが、湿気た土の匂いが鼻をつく。陽が入らないのが救いか。

「……あ、あれだ」

 仁善の安堵した声に、将海もようやく顔を上げた。しかし、すぐに目を伏せる。

「いや……無理だわ……」

 目の前が遠くなったのは将海だけではない。仁善も不機嫌に顔を顰めていた。

 伸びた草木に覆われた、展望台入り口の階段を無言で一歩ずつ踏む。息と疲労は重くなる一方だ。

 そうして登れば、開けた地が見えてきた。突如現れる光に目を細める。まず、正面の関門橋が。階下に広がる碧は地平線の彼方まで広がっている。

 足がふらつくも、将海は真っ先に展望のデッキへと向かった。仁善も続く。

 壇ノ浦合戦の模様、平家物語の一節が書かれた案内板、そして全長約四十メートルもの壁画が道路脇に描かれていた。

 激しい海戦――色とりどりの武将、船を飛ぶのは源義経だろう。彼を追いかけるは猛将、平教経。

 その下には顔を覆って目を伏せる女官、安徳天皇を抱く二位の尼。

 仁善はそれをデッキから眺める。敗れた平氏らの末路にも無感情にただただ見つめておく。

「――驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し……」

 脇で小さく呟く声がし、ふと見やれば将海だった。

「ほら、ここに書いてある」

 仁善の怪訝な目に彼女はデッキに備えられた説明書きを指す。寂しげな声音に、仁善は鼻で笑った。

「帰ろう、将海。今回もまあまあの収穫だった」

 そう言い、デッキから降りていく。背後から「ええ!? もう?」と将海の声がする。

 バスに乗り遅れたら堪らない。仁善はスタスタと階段まで行き、もう海を振り返りはしなかった。

 温い潮風が海へと向かう。五月五日は幾分に、戦日和である。

 関門海峡の奥底で、彼らは面白おかしく気まぐれに人を脅かしているのか、馴染んでいるのか。

 それはもう、彼の興味の対象では無かった。


《磯姫、了》


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磯姫 小谷杏子 @kyoko

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